第8話 熟れるのを待つ
「――遅いッ! 列を揃えろッ!」
怒鳴り声と同時に、背中を、棒で打たれた。
ビシッ――!
焼けるような痛みが、背骨に沿って走った。ヤンは、歯を食いしばって、前のめりに崩れかけた体を、どうにか持ち直した。
槍が、重い。
帝国の兵から渡された、使い古しの長槍だった。柄は手垢で黒ずみ、穂先には、誰のものとも知れない錆びた血の痕がこびりついている。持たされて、もう二十日以上になる。それでも、いまだに、この重さに慣れなかった。
慣れたくもなかった。
「右から三番目! 穂先が下がっている! 次に下がったら、飯を抜く!」
右から三番目は、ヤンの隣の、鍛冶屋の徒弟だった少年だった。
まだ十五になったばかりだ。
細い腕が、槍の重さに耐えかねて、ぶるぶると震えている。
ヤンは、横目で少年を見た。
少年は、唇を噛みしめて、泣きそうな顔で、穂先を持ち上げた。
*
カランドの南の、なだらかな草地。
そこに、帝国軍の陣が張られていた。
整然と並ぶ黒い天幕。その間を縫う、踏み固められた通路。
陣の外周には、木の杭が隙間なく打ち込まれ、要所要所に見張りの櫓が立っている。
征用兵の天幕は、陣の一番外側――最も南寄りに、まとめて並べられていた。
ベルリアの方角に、一番近い場所。
それが何を意味するのか、ヤンたちは、もう誰に教えられなくても分かっていた。
*
訓練は、毎日、夜明けから日暮れまで続いた。
槍の構え。突き。列を揃えての前進。合図に合わせての停止。
同じことを、何十回、何百回と繰り返させられる。
剣の振り方を教わることはなかった。
盾の使い方を教わることもなかった。
教わったのは、ただ、前へ進むことだけだった。
「――お前たちは、壁だ」
最初の日に、帝国の士官は、そう言った。
「敵の矢を受け、敵の剣を受け、敵の足を止める。それが、お前たちの役目だ。生き残りたければ、前の敵を突け。それだけ覚えればいい」
それだけ。
それだけを、二十日以上、叩き込まれ続けていた。
*
日が傾いて、ようやく訓練が終わった。
征用兵たちは、泥のように疲れ切った体を引きずって、天幕へ戻っていく。
夕飯は、薄い麦粥が一杯。
それと、硬く干からびたパンが一切れ。
ヤンは、天幕の前に座り込んで、木の椀を膝の上に載せた。
隣に、鍛冶屋の徒弟の少年が、どさりと腰を下ろした。名前は、カスパー。故郷の町では、ヤンの家の三軒隣に住んでいた。
「……ヤン兄」
「ん」
「ベルリアって、どんなとこかな」
ヤンは、麦粥を啜る手を止めた。
「……知らねえ。行ったことないし」
「俺も、ない」
カスパーは、椀の中の薄い粥を、ぼんやりと見つめていた。
「――母ちゃんたち、ベルリアに逃げたんだよな。東の街道の、先って」
「……ああ」
「なら、ベルリアに攻め込んだら、母ちゃんたちがいるとこに、槍持って行くってことだよな」
ヤンは、答えなかった。
答えられなかった。
カスパーの肩が、小刻みに震え始めた。
「……俺、やだよ。母ちゃんの前で、誰か突くの。……やだよ、ヤン兄」
ヤンは、黙って、少年の肩に手を置いた。
その肩の細さに、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
*
陣の中央。
一際大きな天幕の中で、ディートリヒ・ヴァイスは、葡萄酒の杯を傾けていた。
天幕の中は、贅沢だった。
厚い絨毯。脚の彫刻が施された卓と椅子。銀の燭台が四つ。卓の上には、まだ湯気の立つ焼いた肉と、白いパン、それに、カランドの領主の館から持ち出してきたという、上等な葡萄酒の瓶が並んでいる。
天幕の隅には、鍵のかかった鉄の箱が一つ、置かれていた。
「――閣下」
天幕の入り口で、副官の若い士官が、背筋を伸ばして立っていた。
「ベルリアに潜ませた者から、報告が入りました」
「聞こう」
ディートリヒは、杯を卓に置いた。
その手の籠手は、今日も煤で黒く汚れている。卓の白い布に、指の跡が、うっすらと黒く残った。
*
「イヴァルキアから、使者が来たとのことです」
ディートリヒの眉が、僅かに上がった。
「……イヴァルキア?」
「は。四人。商人の隊商に紛れて、ベルリアに入りました。領主に、親書を届けたと」
「親書の中身は」
「同盟の打診、と思われます。――それと」
副官は、一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「使者の一人が、霧島雷夕という名の傭兵だと」
ディートリヒの指が、杯の縁で、ぴたりと止まった。
「――霧島、雷夕」
その名前を、ゆっくりと、舌の上で転がす。
「国境で、バルトレン殿の魔法をひっくり返したという、例の"劣化"か。リンデンの爺さんの砦攻めを、台無しにした」
「は。おそらく、同一人物かと」
ディートリヒは、しばらく、黙っていた。
それから。
――くっ、と。
喉の奥で、笑った。
*
「面白い」
ディートリヒは、椅子の背にもたれかかって、天幕の天井を見上げた。
「実に、面白い。――リンデンの爺さんが、手こずった相手が、わざわざ私のところへ来てくれたわけだ」
「閣下。四人とはいえ、警戒は必要かと。リンデン閣下の報告では、あの"劣化"は、正体の掴めない――」
「正体など、どうでもいい」
ディートリヒは、副官の言葉を、軽く手を振って遮った。
「リンデンの爺さんが負けたのはな、あの"劣化"のせいじゃない。爺さんが、甘かったせいだ」
煤けた籠手で、葡萄酒の瓶を掴み、自分の杯になみなみと注ぐ。
「民間人には手を出すな。村の家の戸を閉めて退け。――戦をしに行って、何を上品ぶっているんだ。あれでは、勝てる戦も勝てん」
杯を、一息に呷った。
「戦はな、怖がらせた方が勝つんだよ」
*
副官は、黙って聞いていた。
ディートリヒは、空になった杯を、指先でくるくると回した。
「カランドを見ろ。町一つ焼いただけで、都の議会は、それ以上一言も逆らわなくなった。兵も、民も、皆、大人しく帝国の旗に頭を下げている」
「は」
「ベルリアも、同じだ。――いや、ベルリアは、もっと簡単だ」
ディートリヒは、卓の上に広げられた地図に、煤けた指を置いた。
カランドの南。
国境を越えた先の、小さな丘の上の町。
「なぜ私が、ひと月も、ここで兵を遊ばせていると思う」
「……征用兵の訓練、では」
「それもある。だが、本当の理由は、そこじゃない」
ディートリヒは、楽しげに目を細めた。
「熟れるのを、待っているんだよ」
*
「熟れる、とは」
「恐怖が、だ」
ディートリヒは、地図の上の、ベルリアの町を、指先でとん、と叩いた。
「カランドから逃げた連中が、ベルリアに流れ込んでいる。焼かれた町の話を、毎日、毎日、ベルリアの民に聞かせている。――降伏しても焼かれた。逃げなければ死んでいた。帝国の将は、足で踏んだだけで町を焼く化け物だ、とな」
指先が、地図の上で、ゆっくりと円を描く。
「恐怖は、日を追うごとに熟れていく。熟れきった恐怖は、自分から木の枝を離れて、落ちてくる。――今、ベルリアの重臣どもは、毎日、あの若い領主に降伏を迫っているそうじゃないか」
「は。そのように聞いております」
「あと少しだ。あと少し待てば、ベルリアは、自分から門を開く。兵を一人も失わずに、町を一つ手に入れられる」
ディートリヒは、にこりと笑った。
「――それが、一番、人が死なない戦い方だと思わないか?」
本気で、そう言っているのだと分かった。
副官は、何も答えなかった。
*
「……ですが、閣下」
しばらくして、副官が、慎重に口を開いた。
「そのイヴァルキアの使者が、同盟を持ちかけたとなれば。ベルリアの領主が、それを頼みに、降伏を思い止まる恐れも」
「ああ。だから、こちらも一つ、手を打つ」
ディートリヒは、卓の端に置いてあった羊皮紙を一枚、引き寄せた。
羽根ペンを取る。
煤けた籠手のまま、さらさらと、文字を書きつけていく。
「降伏勧告の使者を、ベルリアへ送れ。――条件は、三つだ」
羽根ペンが、紙の上を走る。
「一つ。城門を開き、帝国の旗を掲げること。
二つ。町の十五から四十までの男を、征用兵として差し出すこと。
三つ」
ペン先が、止まった。
ディートリヒは、楽しげに、最後の一行を書き足した。
「――イヴァルキアの使者四人を、捕らえて、こちらへ引き渡すこと」
*
副官の目が、僅かに見開かれた。
「……使者を、ですか」
「そうだ」
ディートリヒは、羊皮紙に、自らの印を押しつけた。
「これでベルリアは、選ばなければならなくなる。同盟を持ちかけてきた客人を売って、自分たちの身を守るか。それとも、客人を庇って、町ごと焼かれるか」
封をする。
蝋が、じゅっと音を立てて、羊皮紙の上で固まった。
「客人を売れば、イヴァルキアとの同盟など、跡形もなく消える。――そして、劣化の傭兵は、私の手の中だ。リンデンの爺さんが取り逃がした獲物を、一歩も動かずに手に入れられる」
ディートリヒは、封をした羊皮紙を、副官に差し出した。
「期限は、三日だ。三日のうちに返事がなければ、こちらから行く。――そう伝えろ」
「……御意」
*
副官が天幕を出ていこうとした時、ディートリヒが、ふと思い出したように声をかけた。
「ああ、それと」
「は」
「カランドの都で、降伏に最後まで反対していた議員どもがいただろう。五人だったか」
「は。今は、都の牢に」
「北へ送れ」
ディートリヒは、葡萄酒の瓶に手を伸ばしながら、事もなげに言った。
「ヴォルフガング様の、いつもの場所だ。護送の手配は、例の道を使え。――書面は、そこの箱に入っている」
煤けた籠手の指が、天幕の隅の、鍵のかかった鉄の箱を、ひょいと指した。
副官は、一瞬だけ、その箱に目を向けた。
それから、深く頭を下げて、天幕を出ていった。
*
一人になった天幕の中で、ディートリヒは、新しく注いだ葡萄酒を、ゆっくりと揺らしていた。
燭台の炎が、赤い液体の表面で、ちらちらと踊っている。
(――霧島、雷夕)
その名前を、もう一度、胸の内で転がす。
(どんな顔をして、売られてくるかな)
ディートリヒは、楽しげに笑って、杯を呷った。
天幕の外から、征用兵の誰かが、声を殺して泣いている音が、微かに聞こえてきた。
彼は、それを、気にも留めなかった。




