第6話 十七歳の領主
ベルリアの領主の館は、丘のてっぺんにあった。
城、と呼べるほどのものではない。
石造りの二階建て。正面に低い階段と、両開きの樫の扉。左右に小さな塔が一つずつ、申し訳程度に突き出している。屋根の上で、ベルリアの旗――緑の地に、金の麦の穂を一本だけ縫い取った旗――が、風に煽られて、ばたばたと鳴っていた。
雷夕は、その旗を見上げて、少しだけ足を止めた。
三年間、毎日のように見上げていた旗だった。
けれど、この館の扉をくぐるのは、初めてだった。
傭兵団の下っ端が、領主の館に呼ばれることなど、一度もなかったから。
「――緊張してる?」
隣で、ロゼリアが小声で言った。
「してない」
「親書、逆さまに持ってるわよ」
雷夕は、慌てて手元を見た。
ちゃんと、正しい向きだった。
「……おい」
「緊張してるじゃない」
ロゼリアが、くすりと笑った。
*
通されたのは、館の二階の、広間だった。
天井は高いが、飾り気はない。
石の壁に、歴代の領主らしき肖像画が五枚、等間隔に掛けられている。床には、擦り切れた緑の絨毯。窓は東向きに三つ並び、朝の光が、斜めに差し込んで、宙を舞う埃を白く浮かび上がらせていた。
広間の奥に、一段高くなった壇があった。
その上の椅子に、少年が一人、座っていた。
*
細い、と思った。
体つきが、ではない。いや、体つきも細かったが――それ以上に、そこに座っていること自体が、ひどく細い糸の上に乗っているように見えた。
柔らかそうな栗色の髪を、きちんと撫でつけている。
仕立ての良い緑の上着は、肩の線がほんの少しだけ余っていた。たぶん、父親のものを詰め直したのだろう。
膝の上で組んだ手の、右の中指に、大きな金の指輪が嵌まっていた。
領主の印章だ。少年の指には大きすぎて、指の付け根で、くるくると回っている。
目の下に、隈があった。
何日も、まともに眠れていない者の隈だった。
(――アリシアも、こんな顔してた時があったな)
レイフ砦への出立が決まった頃。
執務室で、書類の山の向こうから顔を上げた、あの時の顔。
ただ、アリシアの目には、隈の奥に、まだ芯があった。
目の前の少年の目には――今にも折れそうな、何かがあるだけだった。
*
壇の左右には、男たちが並んでいた。
五人。
どれも、雷夕の父親か、それ以上の年頃だった。上等な服を着込み、腹の前で手を組み、値踏みするような目で、入ってきた四人を眺めている。
その中の一人――壇のすぐ脇に立つ、白い顎髭を長く伸ばした老人が、一歩前に出た。
「イヴァルキアの使者殿、とのことですな」
乾いた声だった。
「ベルリア領主、フェリクス様の御前である。用件を、述べられよ」
雷夕は、一歩前に出た。
膝をつく。
ケインに、旅の間、何度も教わった通りに。
「イヴァルキア領主、アリシア・クレイン・レーヴァルトの使者、霧島雷夕です。――我が領主より、フェリクス殿への親書を、お届けに参りました」
両手で、親書を差し出す。
白い顎髭の老人が、それを受け取り、壇の上の少年へと渡した。
*
フェリクスは、封蝋を、じっと見つめていた。
レーヴァルト家の紋章。
それを、指の腹で、そっと撫でる。
それから、封を切った。
広間の中に、紙の擦れる音だけが、小さく響いた。
少年の目が、文字を追っていく。
一行。二行。三行。
その目が、途中で、ふと止まった。
「――『先代ベルリア領主殿とは、かつて幾度か書簡を交わし』……」
小さな声で、読み上げる。
「『その誠実なる筆致を、今も記憶に留めております』……」
少年の唇が、きゅっと結ばれた。
オズワルドの書いた文面だった。
父君の名で通じる言葉の選び方は心得ている――そう言っていた、あの老人の。
フェリクスは、最後まで読み終えると、親書を膝の上に置いた。
しばらく、何も言わなかった。
*
「――同盟、ですか」
ようやく、少年が口を開いた。
まだ声変わりの名残が残る、少し掠れた声だった。
「イヴァルキアが、ベルリアと手を結ぶ用意がある、と」
「はい」
「帝国の侵攻に対して、互いに助け合う、と」
「はい」
フェリクスは、膝の上の親書に、目を落とした。
「……ありがたい、お話です。本当に」
それは、本心のように聞こえた。
だが、その次の言葉は、すぐには続かなかった。
*
「――恐れながら、使者殿」
白い顎髭の老人が、また一歩、前に出た。
「イヴァルキアは、どれほどの兵を、ベルリアへ送ってくださるのですかな」
雷夕は、一瞬、言葉に詰まった。
「……兵は、送れません」
広間の空気が、僅かに動いた。
壇の脇の男たちが、顔を見合わせる。
「イヴァルキアが軍をベルリアへ送れば、それだけで、帝国に南へ兵を回す口実を与えてしまう。――今回は、使者と、その護衛として、俺たち四人が」
「四人」
老人の声に、隠しきれない嘲りの色が滲んだ。
「帝国は、カランドを呑んだ兵を、そのままこちらへ向けておるのですぞ。数千の兵と、町一つを足で踏んで焼く化け物を。――それに、四人」
*
雷夕は、唇を噛んだ。
言い返したかった。
四人と言っても、ただの四人じゃない。
ロゼリアの道具は、力の差を工夫で埋める。リヴァールの剣は、盾の壁ごと敵を吹き飛ばす。ケインは、どんな時でも、仲間の前に立つ。
それに、自分には、『劣化』がある。
――けれど。
それを言ったところで、この老人の目に、何が映るだろう。
レイフ砦の老将の言葉が、耳の奥で蘇った。
――不確かなものを芯に据えた瞬間、作戦は賭けになる。
(……そうだよな)
数千の兵を前に、「四人だけど強いから大丈夫」と言われて、頷ける領主がどこにいる。
*
「――バルトロメウス」
壇の上から、フェリクスの声がした。
白い顎髭の老人が、振り返る。
「無礼です。遠くから、わざわざ来てくださった方々に」
「しかし、フェリクス様。現実を――」
「分かっています」
少年は、老人の言葉を遮った。
細い声だった。
けれど、遮ったのは、確かに少年の方だった。
「分かっています。――だから、無礼だと言っているんです」
老人――バルトロメウスは、しばらくフェリクスを見上げていた。
それから、深く頭を下げて、一歩、退いた。
*
フェリクスは、壇の上から、雷夕を見下ろした。
その目が、何かを探すように、雷夕の顔の上を彷徨った。
「……霧島、雷夕殿」
「はい」
「失礼ですが。――以前、どこかで、お会いしたことが?」
雷夕は、少しだけ迷ってから、答えた。
「この町に、三年いました。先代の領主様に雇われていた、ガストンの傭兵団で」
フェリクスの目が、見開かれた。
「ガストンの――」
「下っ端です。飯炊きの」
「……飯炊き」
少年は、その言葉を繰り返して――それから、はっとしたように、口元を押さえた。
「――思い出しました。父と、一度だけ、団の野営地を見回りに行ったことがあります。その時、大きな鍋をかき回していた……」
「たぶん、それです」
「あの時の、麦粥。父が、美味いと言っていました」
少年の声が、ほんの僅かに、震えた。
*
広間が、静まり返った。
フェリクスは、膝の上の親書を、両手で握りしめていた。
「……霧島殿」
「はい」
「あなたの団を――ガストンの傭兵団を、解散させたのは、私です」
壇の脇の男たちが、ざわりと身じろいだ。
領主が、使者に向かって、そんなことを口にするとは思っていなかったのだろう。
「父が亡くなって、家の帳簿を見直しました。そうしたら、どこもかしこも、足りなかった。何かを削らなければならなかった。それで――傭兵団との契約を、切りました。町の周りには、もう長いこと、大きな魔物も出ていなかったから。帝国も、カランドの向こうで、大人しくしていたから」
少年は、俯いた。
指輪が、指の付け根で、くるりと回った。
「……間違いでした。今なら、分かります。ガストンは、団がなくなっても、町に残って、自警団をまとめてくれている。でも、あの時、団を残していれば、もっと――」
*
「――フェリクス殿」
雷夕は、少年の言葉を、静かに遮った。
フェリクスが、顔を上げる。
「俺は、恨んでないです」
「……え」
「金がないなら、仕方ない。誰が悪いって話じゃない。――おっさんも、そう言ってました。契約が切れたら、次へ行く。傭兵ってのは、そういうもんだって」
雷夕は、少しだけ笑った。
「それに、団がなくなったおかげで、俺はイヴァルキアに流れ着いて、今、ここに使者として立ってる。――悪いことばっかりじゃなかったです」
フェリクスは、しばらく、雷夕の顔を見つめていた。
それから、くしゃりと、顔を歪めた。
泣き出す一歩手前の顔だった。
けれど、少年は、それを堪えた。唇を噛んで、指輪をぎゅっと握りしめて、堪えた。
「……ありがとう、ございます」
*
「――フェリクス様」
バルトロメウスが、再び口を開いた。
今度は、声に嘲りの色はなかった。ただ、冷えていた。
「情に流されてはなりませぬ。ご決断を」
フェリクスの肩が、びくりと揺れた。
「イヴァルキアのご厚意は、ありがたく頂戴いたしましょう。ですが、それと、帝国にどう向き合うかは、別の話。――カランドを見なされ。抗えば、全てを失う」
「……カランドは、降伏しても焼かれました」
「国境の町一つです。都は残った。民の大半は、生きておる」
バルトロメウスは、一歩、壇に近づいた。
「降伏すれば、町一つで済むやもしれぬ。抗えば、ベルリアの全てが焼ける。――どちらが、より多くの民を救うか。お父君なら、どうお考えになったか」
フェリクスの顔から、血の気が引いていった。
*
雷夕は、拳を握った。
(――町一つで済む、だと)
カランドの焦げた旗が、懐の中で、重く感じられた。
市場の広場で、身を寄せ合っていた人々。
「お兄ちゃん、見なかった?」と、荷馬車に駆け寄ってきた少女。
あの人たちの町が、その「一つ」だ。
口を開きかけた雷夕の肩に、後ろから、手が置かれた。
ケインだった。
振り返ると、ケインは、小さく、首を横に振った。
――今は、言うな。
その目が、そう告げていた。
使者の役目は、親書を届けること。
ベルリアの決断に口を挟むことではない。今ここで、雷夕が重臣と言い争えば、それはイヴァルキアがベルリアの内政に手を突っ込んだことになる。
雷夕は、奥歯を噛みしめて、口を閉じた。
*
「――少し、時間をください」
フェリクスが、言った。
その声は、ひどく小さかった。
「親書へのお返事は、必ず。……ですが、今日は、少し、考えさせてください」
「承知しました」
雷夕は、深く頭を下げた。
それ以外に、できることはなかった。
*
館を出ると、昼の陽が、石段の上にぎらぎらと照りつけていた。
雷夕は、階段の途中で足を止めて、大きく息を吐いた。
「……くそ」
「よく堪えたわね」
ロゼリアが、隣に並んだ。
「あそこで食ってかかってたら、親書ごと叩き出されてたわよ」
「分かってる」
「ケインに感謝しなさい」
「……分かってるよ」
雷夕は、ケインの方を見た。
ケインは、いつも通り、真っ直ぐな背筋で、館の扉の方を振り返っていた。
「――あの少年は」
ケインが、静かに言った。
「重臣の言葉を、一度だけ、自分で遮りました。無礼だ、と」
「……ああ」
「遮れる者は、まだ、折れてはいません」
雷夕は、ケインの横顔を見た。
アリシアのお忍びに、長年付き合わされてきた男の顔だった。
若い領主というものを、たぶん、この中の誰よりもよく知っている男の。
「――そうだといいな」
雷夕は、館の屋根の上で鳴る、緑の旗を見上げた。
金の麦の穂が、風に煽られて、ばたばたと揺れていた。
*
――同じ頃。
館の二階の、広間の奥。
人払いをした執務室で、フェリクスは、一人、机に突っ伏していた。
机の上には、イヴァルキアからの親書。
その横に、父の遺した、分厚い帳簿。
指輪が、指の付け根で、くるくると回っている。
止めようとして、握りしめた。
手が、震えていた。
(――父上)
声に出さずに、呼んだ。
(父上なら、どうしましたか)
返事は、なかった。
壁の肖像画の中で、父の顔は、いつものように穏やかに笑っているだけだった。
フェリクスは、親書の一文を、指でなぞった。
――『その誠実なる筆致を、今も記憶に留めております』
(……誠実、か)
父は、誠実な人だった。
誰に対しても、嘘をつかなかった。勝てない喧嘩はしない人だった。民を、何よりも大切にする人だった。
その父なら――。
勝てない戦をして、民を焼かせることを、選ぶだろうか。
それとも。
膝をついても焼かれると分かっていて、それでも、膝をつくことを、選ぶだろうか。
答えは、どこにもなかった。
少年は、震える手で指輪を握りしめたまま、いつまでも、机に額を押しつけていた。




