第5話 坊主、生きてるか
丘を登る坂道の途中で、雷夕は、異変に気づいた。
(――人が、多い)
街道の両脇に、天幕が並んでいた。
天幕、と呼ぶのもためらわれるような代物だった。荷車の幌を外して、木の枝に引っかけただけのもの。毛布を二枚、縄で繋いで屋根にしただけのもの。中には、それすらなく、荷車の陰に身を寄せ合って、地べたに座り込んでいるだけの家族もいた。
煮炊きの煙が、細く、幾筋も立ち上っている。
その煙の匂いに混じって、別の匂いがした。
焦げた布の匂い。
煤の匂い。
「……カランドから逃げてきた人たちね」
隣で、ロゼリアが、小さく呟いた。
*
荷馬車の列が、天幕の間を、ゆっくりと進んでいく。
天幕の中から、いくつもの目が、こちらを見上げていた。
疲れ切った目。
怯えた目。
何かを期待しかけて、すぐに諦めたように伏せられる目。
レイフ砦へ向かう道で見た、難民の列と、同じ目だった。
(――また、この顔か)
胸の奥が、鈍く軋んだ。
「――ねえ、おじさん!」
不意に、小さな声が、荷馬車の脇から飛んできた。
見下ろすと、十歳くらいの少女が、荷馬車と並んで小走りに駆けていた。煤で汚れた頬。ほつれた髪。大きすぎる大人の上着の袖を、何重にも折り返して着ている。
「おじさんたち、北から来たの? 帝国の方から?」
「いや――西からだ。イヴァルキアから」
「……そっか」
少女の足が、緩んだ。
「お兄ちゃん、見なかったかなって思ったの。帝国の兵隊さんに、連れて行かれちゃったから」
それだけ言うと、少女は、荷馬車から離れていった。
天幕の一つの前で、母親らしき女が、少女を抱き寄せている。少女は、母親の腕の中で、次にやってくる荷馬車の方へ、もう首を伸ばしていた。
雷夕は、手綱を握る手に、力が籠もるのを感じた。
*
城門は、閉ざされかけていた。
両開きの木の扉の片側だけが、人一人通れるほどに開いている。その前に、槍を持った男たちが四人、立っていた。
揃いの鎧ではなかった。
革の胸当てを着けた者。鎖帷子を着込んだ者。片方は農夫の野良着の上に、古びた籠手だけを嵌めている。
「――止まれ」
一人が、槍を構えて前に出た。
だが、先頭の荷馬車の御者台にトマスの顔を見つけると、男は、ほっとしたように槍を下ろした。
「トマスさんか。……戻ってきたのか、こんな時に」
「ええ。商いの品と、お客人を連れて参りました」
「客人?」
男の目が、トマスの後ろ――馬上の雷夕たちへ移った。
雷夕は、馬から降りて、男の前に立った。
「イヴァルキアから来た。領主フェリクス殿に、親書を届けに」
「……イヴァルキア?」
男が、眉をひそめる。
それから、雷夕の顔を、じっと見つめた。
一拍。
二拍。
「――お前」
男の目が、見開かれた。
「お前、もしかして――ガストンさんとこの、飯炊きの坊主か!?」
*
雷夕は、思わず噴き出した。
「飯炊きって」
「飯炊きだろうが! 団の飯は、全部お前が炊いてたじゃねえか!」
男は、槍を放り出して、雷夕の両肩を掴んだ。
日に焼けた、四角い顔。前歯が一本欠けている。
見覚えがあった。市場の外れで、荷運びをしていた男だ。ガストン傭兵団が町の周りの見回りに出る時、よく道端から手を振ってくれた。
「……ボリスさん、か」
「覚えてたか! ――おい、お前ら! こいつ、ガストンさんとこの坊主だぞ! 飯炊きの!」
門の前の男たちが、わっと寄ってきた。
「マジか!」
「生きてたのか、お前!」
「どこ行ってたんだよ、急にいなくなって!」
背中を叩かれる。頭を掻き回される。
誰も彼も、加減というものを知らなかった。
(――ベルリアだ)
叩かれた背中が、痛かった。
痛くて、温かかった。
*
「――で、ガストンのおっさんは」
ようやく揉みくちゃから解放されて、雷夕は、ボリスに尋ねた。
「北門の詰所だ。自警団の頭をやってる」
ボリスは、親指で、町の奥を指した。
「団がなくなった後もな、あの人だけは町に残ったんだ。そんで、こんな時だろ。町の若いのを集めて、自警団をまとめてる。……俺も、その一人さ」
自分の古びた籠手を、照れくさそうに叩いてみせる。
「案内してやる。――トマスさん、荷は市場の倉に入れといてくれ。いつもの場所だ」
「承知しました」
*
城門をくぐると、石畳の坂道が、町の奥へと続いていた。
雷夕は、その坂を、ゆっくりと見上げた。
坂の両脇に、赤茶けた屋根の家々が、肩を寄せ合うように並んでいる。軒先には、干した玉葱の束。窓辺には、鉢植えの香草。角の家の壁には、いつ誰が描いたのか分からない、下手くそな魚の落書き。
全部、覚えていた。
覚えていた通りで――覚えていた通りでは、なかった。
坂の上の市場が、静かだった。
露店の半分が、布をかけたまま閉じている。開いている店も、品物はまばらで、売り子の声に張りがない。南の海から運ばれてくるはずの、干した魚の匂いも、甘い果物の匂いも、ほとんどしなかった。
代わりに、人が多かった。
市場の広場の隅々に、カランドから逃げてきた人々が、身を寄せ合って座っていた。町の人間が、鍋を抱えて、その間を回っている。
「……ぐちゃぐちゃじゃ、なくなってるな」
雷夕の呟きに、ボリスが、苦い顔で笑った。
「ぐちゃぐちゃどころじゃねえよ。南の道を通ってくる商人は、トマスさんの隊くらいになっちまった。みんな、次はベルリアだって分かってるからな」
*
北門の詰所は、城壁に寄りかかるように建てられた、石造りの小屋だった。
入り口の脇に、薪が山と積まれている。
その横に、大きな水瓶。立てかけられた槍が数本。壁に打ち付けられた板には、炭で書かれた見張りの順番表。
扉の向こうから、野太い声が聞こえていた。
「――だから、北の見張り台は二人じゃ足りねえって言ってんだろうが! 夜は三人だ、三人! 寝ちまう奴がいるんだよ、必ず!」
その声を聞いた瞬間。
雷夕の足が、勝手に止まった。
(――変わってねえ)
声がでかい。
言葉が荒い。
言ってることは、ちゃんと筋が通っている。
三年間、毎朝、毎晩、聞いていた声だった。
*
ボリスが、扉を叩いた。
「ガストンさん! 客だ!」
「客だぁ? 今忙しいんだよ、後に――」
扉が、内側から開いた。
大きかった。
扉の枠を、肩で塞ぐほどの大男だった。
赤茶けた髭が、顎から胸元まで、もじゃもじゃと伸びている。太い眉。潰れた鼻。左の頬に、古い刃傷の痕が一筋。丸太のような腕が、袖を捲り上げた肌着から、にょっきりと突き出している。
その背後の壁に、大斧が一本、立てかけられていた。
刃の幅だけで、雷夕の顔より広い。
「――あぁ?」
大男が、ボリスの肩越しに、雷夕を見下ろした。
太い眉が、ぴくりと動いた。
それから、ゆっくりと、目が細まった。
*
沈黙。
ボリスが、二人の顔を、きょろきょろと見比べている。
雷夕は、何か言おうとした。
何を言えばいいのか、分からなかった。
久しぶり、か。元気だったか、か。ただいま、か。どれも違う気がした。
先に口を開いたのは、大男の方だった。
「――坊主」
低い声だった。
「生きてるか」
三年前、酒場の裏で、初めて掛けられた言葉と、同じだった。
雷夕は、笑おうとした。
笑う前に、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「……生きてるよ」
ようやく、それだけ言えた。
「見りゃ分かるだろ、おっさん」
*
次の瞬間、雷夕の視界が、真っ暗になった。
頭を、掴まれていた。
丸太のような腕が、雷夕の頭を脇に抱え込み、もう片方の手が、髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。首が、もげそうだった。
「――痛っ、痛い痛い痛い! おっさん、首! 首!」
「うるせえ! 生きてるなら連絡くらい寄越せ、この馬鹿坊主が!」
「どうやって寄越すんだよ、手紙の届け方なんか知らねえよ!」
「知らねえなら覚えろ! 三年も何教えてたと思ってんだ!」
「飯の炊き方だろ!」
「そうだよ!」
がっはっは、と。
詰所の石の壁が震えるほどの、馬鹿でかい笑い声が響いた。
ようやく解放されて、雷夕は、ふらふらと二、三歩よろめいた。
首を押さえる。髪は、鳥の巣のようになっていた。
それでも。
(――変わってねえな、本当に)
顔が、勝手に緩んでいくのを、止められなかった。
*
「――で」
ガストンは、ようやく雷夕の後ろに立つ三人に気づいたように、顎をしゃくった。
「そっちのは、何だ。坊主の新しい団か」
「団っていうか――」
「イヴァルキアから参りました」
ケインが、一歩前に出て、きっちりと頭を下げた。
「イヴァルキア領主アリシア様の護衛、ケインと申します。こちらの霧島殿が、領主様の親書を携えた使者。我々は、その護衛です」
ガストンの太い眉が、ぴくりと跳ね上がった。
「……使者?」
視線が、ゆっくりと雷夕へ戻ってくる。
「坊主が、使者?」
「……ああ」
「一国の、領主の、親書を?」
「ああ」
ガストンは、しばらく、雷夕の顔をまじまじと見下ろしていた。
それから、天井を仰いだ。
「――世も末だな」
(言うと思った)
雷夕は、こめかみを押さえた。
その後ろで、ロゼリアが、両手で口を押さえて、肩を激しく震わせていた。
*
詰所の中は、狭かった。
粗末な木の卓が一つと、長椅子が二つ。壁際に、毛布の積まれた寝台。卓の上には、町の見取り図らしき紙が広げられ、その上に、炭の欠片と、齧りかけのパンと、空の杯が、まとめて散らばっていた。
ガストンは、卓の上のものを、腕で無造作に脇へ払った。
「座れ。狭いが、文句言うな」
四人が、長椅子に詰めて腰を下ろす。
リヴァールは、座らずに、扉の脇の壁に背を預けた。
ガストンは、卓を挟んだ向かいにどっかりと座ると、雷夕の顔を、改めて眺めた。
「――で。噂は、本当か」
「噂?」
「トマスの旦那が、この前、酒場で散々喋っていった話だ。妙な固有スキルを使う傭兵が、帝国の幹部の魔法をひっくり返したとか、帝国の雇った凄腕の刺客を追い払ったとか」
ガストンは、太い指で、卓をとん、と叩いた。
「その傭兵の名前が、霧島雷夕だってな」
*
雷夕は、少し迷ってから、頷いた。
「……大体、本当」
「大体?」
「ひっくり返したっていうか、勝手にひっくり返ったっていうか。追い払ったのも、俺一人じゃないし。――でも、『劣化』が使えるようになったのは、本当だ」
ガストンは、黙って聞いていた。
それから、ふっと、髭の奥で口元を緩めた。
「――品切れじゃなくなったか」
「……覚えてたのかよ、それ」
「忘れるか。三年間、毎回同じ冗談で笑ってたんだ」
ガストンは、卓に肘をついて、身を乗り出した。
「よかったな、坊主」
それだけ言った。
短い言葉だった。
けれど、その声には、三年分の何かが、確かに乗っていた。
雷夕は、何も言えずに、ただ頷いた。
*
「――それで、ガストン殿」
壁際から、リヴァールが口を開いた。
ガストンの目が、そちらへ向く。
「町の状況を、聞かせてもらえるか。領主に会う前に、知っておきたい」
ガストンは、リヴァールの顔を、値踏みするようにじっと見た。
「……あんた、帝国の人間だな」
雷夕の背筋が、ひやりとした。
リヴァールは、表情を変えなかった。
「元、だ」
「立ち方で分かる。騎士団の連中は、壁に背を預けても、膝を抜かねえ」
「……見る目がある」
「傭兵を二十年もやってりゃな」
ガストンは、それ以上は追及しなかった。
ただ、卓の上の見取り図を、太い指で、ぐいとリヴァールの方へ押しやった。
「――座れ、元騎士。立って聞く話じゃねえ」
*
それから、ガストンは語った。
カランドの降伏から、もうひと月近くが経つこと。
帝国軍は、カランドの南の国境近くに陣を張り、動いていないこと。征用されたカランドの兵が、その陣の最前列で、毎日、隊列の訓練をさせられているのが、見張り台からも見えること。
町の自警団は、六十人に満たないこと。
ベルリアの正規の兵を合わせても、三百に届かないこと。
「――で、領主様だ」
ガストンの声が、低くなった。
「フェリクス様は、十七だ。先代が、急に倒れちまってな。それで家を継いだ。……悪い子じゃねえ。真面目で、町の連中のこともちゃんと考えてる。だが、戦なんぞ、生まれてこの方、一度もしたことがねえ」
「降伏に傾いてるって聞いた」
「傾いてるな」
ガストンは、あっさりと認めた。
「重臣の爺さんどもが、毎日、館に詰めかけて、降伏しろ降伏しろって言ってる。勝てるわけがない、無駄に死人を出すだけだ、ってな。――間違っちゃいねえよ。数だけ見りゃ、勝てるわけがねえ」
「でも、降伏しても――」
「焼かれる」
ガストンは、窓の外を、顎でしゃくった。
市場の広場。
身を寄せ合う、カランドの人々。
「あいつらが、その証拠だ」
*
詰所の中に、重い沈黙が落ちた。
窓の外から、子供の泣き声が、かすかに聞こえてくる。
雷夕は、懐に手を入れて、焦げた布の感触を確かめた。
「――おっさん」
「何だ」
「俺、明日、領主に会う」
ガストンは、雷夕の顔を見た。
「親書を渡す。イヴァルキアは、ベルリアと一緒に戦う用意があるって。――それで、領主が、降伏を思い止まるかどうかは、分からない。でも」
雷夕は、ガストンの目を、まっすぐに見返した。
「少なくとも、一人で戦わなくていいってことは、伝えられる」
ガストンは、しばらく、黙っていた。
それから、髭の奥で、にやりと笑った。
「――生意気になったな、坊主」
「三年経ってんだよ」
「三年じゃ足りねえよ、お前には」
がっはっは、と。
また、あの馬鹿でかい笑い声が、詰所の壁を震わせた。




