第3話 使者の名で
執務室の扉を、叩くのも忘れて開けた。
「――アリシア!」
机に向かっていたアリシアが、羽根ペンを持ったまま顔を上げた。
その脇で書類の束を抱えていた侍従が、ぎょっとして固まる。
「……雷夕?」
アリシアは、雷夕の顔を見て、すぐに羽根ペンを置いた。
息が上がっている。額に汗が浮いている。城下からここまで、一度も足を緩めずに駆けてきたのだから、当然だった。
それでも――彼女が見ていたのは、たぶん、そういうことではなかった。
「下がっていいわ」
侍従に短く告げる。
扉が閉まるのを待ってから、アリシアは立ち上がった。
「何があったの」
*
雷夕は、懐から焦げた布を取り出して、机の上に広げた。
青地に、白い紋章の端。
黒く焼け落ちた縁。
アリシアの目が、それを捉えて、僅かに細まった。
雷夕は、トマスから聞いた話を、そのまま伝えた。
カランドの降伏。
見せしめに焼かれた国境の町。
ディートリヒ・ヴァイスという名の、若い帝国の将。踏んだだけで地を走る炎。
最前列に立たされている、カランドの征用兵たち。
そして――その軍が、ベルリアへ向かっていること。
話し終えるまで、アリシアは一度も口を挟まなかった。
*
「……ベルリア」
アリシアは、焦げた布の上に、指先をそっと置いた。
「あなたが、三年いた国ね」
「ああ」
「――知り合いが、いるのね」
問いではなかった。
雷夕は、頷いた。
「傭兵団の、団長だった人がいる。俺を拾って、剣を教えて、三年間、食わせてくれた人だ。団が解散した後も、ベルリアに残ってる。……トマスさんが、酒場で会ったって」
アリシアは、しばらく黙っていた。
窓の外から、城の中庭で兵が槍の稽古をする掛け声が、遠く聞こえてくる。
やがて、彼女は、静かに口を開いた。
「雷夕。あなたは、私に何を頼みに来たの」
*
雷夕は、言葉に詰まった。
何を頼みに来たのか。
走っている間、ずっと考えていた。
考えて、考えて、結局まとまらないまま、扉を開けていた。
「……行かせてくれ」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「ベルリアに。――俺一人でいい。この国の兵を貸してくれとは言わない。ただ、行かせてほしい」
言ってから、自分の言葉の勝手さに気づいた。
恩返しのために、この国にいる。
その恩もまだ返しきれていないのに、自分の都合で、ここを離れる。
(――何言ってんだ、俺は)
「……悪い。分かってる。勝手なのは」
アリシアは、答えなかった。
代わりに、机の上の呼び鈴を、一度だけ鳴らした。
「――オズワルドを呼んで。それから、ロゼリアと、リヴァールと、ケインも。工房と、詰所と、……ケインは、たぶん自室で反省文を書いているはずだから」
扉の外で、侍従の足音が慌ただしく遠ざかっていく。
アリシアは、雷夕を見た。
「座って、雷夕。――これは、あなた一人の話じゃないわ」
*
四半刻も経たないうちに、執務室には全員が揃っていた。
オズワルドは、昨日と同じ椅子に、腕を組んで座っている。
ロゼリアは、走ってきたのか、外套の裾に工房の煤をつけたまま。リヴァールは、壁際に、腕を組んで立っている。ケインは、右手の指に、インクの染みをつけていた。
「――反省文は」
「七枚目の途中です」
アリシアの問いに、ケインは真顔で答えた。
「後で続きを書きます」
「……ええ。後でね」
アリシアは、机の上に、大陸の地図を広げた。
昨日、リヴァールの前で広げたのと同じ地図だった。
*
「まず、状況を整理するわ」
アリシアの指が、地図の北から中央へ広がる帝国の版図を、ぐるりとなぞった。
「帝国は、大陸の北から中央。イヴァルキアは、その南西の端」
指が、帝国の東側の縁を、南へ下りていく。
「カランドは、ここ。帝国の南東の縁。そして、そのさらに南に――」
小さな点の上で、指が止まった。
「ベルリア」
オズワルドが、身を乗り出して地図を覗き込んだ。
「……カランドを呑み、ベルリアを呑めば、帝国は大陸の南東を押さえることになりますな」
「ええ。そうなれば、次はどこへ向かうと思う?」
オズワルドの目が、地図の上を、ゆっくりと西へ滑っていった。
南の、海沿いの交易路を伝って。
大陸の南の縁をなぞるように。
イヴァルキアの、すぐ東まで。
「――南から、回り込まれる」
*
執務室が、静まり返った。
「今まで、帝国は北と西の国境からしか来なかった。レイフ砦も、それから――」
アリシアは、そこで、ほんの一瞬、言葉を選び直した。
「――私たちが初めて出会った、あの国境の街道も。どちらも、北か西よ。南は、これまで考えなくてよかった。帝国の版図が、そこまで届いていなかったから」
指先が、トマスの隊商が通るという南の交易路の上を、軽く叩く。
「でも、ベルリアが落ちれば、話は変わる。イヴァルキアは北と西と、南の三方から挟まれることになる。……それだけじゃない。南の交易路が帝国に押さえられれば、この国の職人たちが材料を買い付けに行く道も、作った物を売りに行く道も、半分は閉ざされる」
「干上がる、ということですな」
オズワルドの声が、低く沈んだ。
「剣で斬られる前に、喉を締められる」
*
「――だから」
アリシアは、地図から顔を上げた。
その目が、まっすぐに雷夕を捉えた。
「これは、あなた一人の話じゃないの、雷夕。ベルリアが落ちるかどうかは、イヴァルキアの話でもある」
雷夕は、言葉を失っていた。
自分は、ただ、ガストンの顔を思い浮かべて、走ってきただけだった。
その足元に、こんなにも大きな地図が広がっていたことに、今さら気づかされていた。
「イヴァルキアとして、ベルリアに使者を送ります」
アリシアの声が、領主のものに変わった。
「同盟の打診よ。帝国の侵攻に対して、互いに手を取り合う用意があると。――そして、その使者に、少数の助力をつける。軍を送れば、それだけで帝国に南へ兵を回す口実を与える。でも、使者の護衛として、腕の立つ者が何人かついていくだけなら」
「……戦の口実には、ならない」
リヴァールが、壁際で、低く呟いた。
昨日、彼が使ったのと、同じ言葉だった。
アリシアは、小さく頷いた。
*
「――お待ちください」
オズワルドが、組んでいた腕を解いた。
「理屈は分かります。ですが、アリシア様。レイフ砦から戻ったばかりの者たちを、休む間もなく、また別の戦場へ送り出すおつもりか」
鋭い目が、雷夕を、ケインを、順に射抜いていく。
「傭兵殿は、魔力の底が抜けて二日寝込んだ。ケインは片腕を吊っている。――それを使者の護衛と呼ぶのは、少々、無理がありませんかな」
棘のある言葉だった。
けれど、雷夕には分かった。
この老人は、反対しているのではない。確かめているのだ。送り出す側として、その覚悟が本当にあるのかを。
アリシアは、オズワルドの目を、正面から受け止めた。
「無理はあるわ」
あっさりと、そう言った。
「でも、他に誰を送るの? 帝国の将と渡り合えて、ベルリアに顔が利いて、少人数で動ける者を。――私が知っている中で、それができるのは、この四人だけよ」
*
オズワルドは、しばらく、アリシアを見つめていた。
それから、雷夕の方へ、ゆっくりと顔を向けた。
「傭兵殿」
「……ああ」
「ベルリアに、顔が利くというのは、本当か」
雷夕は、少し考えた。
「……ベルリアの領主とは、たぶん、ほとんど面識がない。先代に雇われてた傭兵団の、下っ端の一人だったからな。今の領主は、先代の息子だって聞いた。俺のことなんか、覚えてるかどうか」
正直に答えた。
「でも、町の人間なら、何人か知ってる。自警団をまとめてるのが、元の団長だ。――その人なら、俺の話を聞いてくれる」
「領主に顔が利かんのに、使者が務まるか」
「務まらないかもしれない」
雷夕は、オズワルドの目を見返した。
「でも、務めさせてくれるなら、やる。……あの町の人たちが、どっちを選んでも焼かれるって怯えてるなら、少なくとも、一緒に戦う奴がいるってことだけは、伝えたい」
*
オズワルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
「――及第点だ」
「前は、加点って言ってなかったか」
「加点した分は、今ので相殺した。使者が『務まらないかもしれない』などと言うな」
「……すみません」
「謝るな。正直なのは、悪くない」
老人は、アリシアに向き直り、深く頭を下げた。
「親書の文面は、私がお作りいたします。ベルリアの先代とは、何度か書簡を交わしたことがございます。……若いご領主が、どのような方かは存じませんが、少なくとも、父君の名で通じる言葉の選び方は心得ております」
「お願いするわ」
アリシアの声が、ほんの僅かに、柔らかくなった。
*
「――それで」
ロゼリアが、ずい、と前に出た。
「行くのはいいとして。相手は、踏んだだけで炎を走らせる固有スキル持ちなのよね」
「ああ。トマスさんの話じゃ、石畳の継ぎ目を伝って、町じゅうに走ったって」
「なら、準備が要るわ」
ロゼリアの目が、すでに工房の方を向いていた。
「火を消す道具。燃え広がるのを止める道具。それから、雷夕の腕輪――蓄魔石は、もう一つも残ってない。新しいのを詰めるには、炉を半日、私も半日潰れる」
「トマスさんの隊商は、五日後に発つ」
「五日」
ロゼリアは、指を折って数えた。
「……二つは無理。一つなら、なんとか。火の対策は、今ある材料で作れるものを片っ端から。――雷夕、あんた、暇でしょう。手伝いなさい」
「暇じゃないだろ」
「暇よ。使者の仕事は、親書を届けるまで何もないもの」
ぐうの音も出なかった。
*
「――お嬢様」
ケインが、静かに口を開いた。
吊った左腕を、右手でそっと押さえている。
「私も、同行してよろしいでしょうか」
アリシアが、ケインを見た。
「……その腕で?」
「五日あれば、吊る必要はなくなります。治療師にも、そう言われています。剣は、右で振れます」
ケインは、背筋を伸ばしたまま、続けた。
「使者に、領主の護衛が一人ついているというのは、形として悪くないかと。イヴァルキアが、本気でベルリアと手を結ぶつもりだと、向こうにも伝わります」
理屈だった。
筋の通った、護衛としての、真っ当な具申だった。
アリシアは、しばらくケインの顔を見つめていた。
それから、ふっと、息を吐いた。
「――許可します」
一拍。
「ただし、反省文は出発までに、残りを全部書き上げること」
「……は」
ケインの背筋が、ぴんと伸びた。
その横で、ロゼリアが、口元を押さえて肩を震わせていた。
*
「リヴァール」
アリシアが、最後に、壁際の男へ目を向けた。
「あなたは――」
「行く」
言い終わる前に、答えが返ってきた。
「帝国の将の戦い方は、俺が一番知っている。強硬派のやり方なら、なおさらだ」
それから、少しだけ、間を置いて。
「……それに、四人で動くと決まったなら、一人欠ければ、連携が乱れる」
雷夕は、今度こそ、堪えきれずに噴き出した。
「五回目!」
「数えるな」
アリシアが、きょとんとして二人を見比べていた。
*
全員が出ていった後の執務室で、雷夕は、一人残っていた。
アリシアに、呼び止められたからだった。
彼女は、机の上の焦げた布を、丁寧に畳み直していた。
「――これ、持って行くのでしょう」
「ああ。トマスさんが、遠くの国の人に伝えてくれって託されたものだから」
「なら、あなたが持っているべきね」
畳んだ布を、雷夕の手に載せる。
その指先が、ほんの一瞬だけ、雷夕の手の甲に触れて、離れた。
「雷夕」
「ん」
「さっき、あなた、『俺一人でいい』って言ったわね」
「……言った」
「勝手なのは分かってる、とも」
「言った」
アリシアは、雷夕の顔を、まっすぐに見上げた。
「――勝手じゃないわよ」
静かな声だった。
「あなたが三年過ごした町を、助けに行きたいと思うのは。……それを勝手だなんて言う領主に、私はなりたくない」
雷夕は、何も言えなかった。
手の中の焦げた布が、やけに温かく感じた。
「その代わり」
アリシアは、少しだけ、口の端を上げた。
「一人で行かせるつもりは、最初からなかったの。それだけは、覚えておいて」
「……ああ」
雷夕は、布を懐にしまった。
アリシアの手紙の、すぐ隣に。
「覚えとく」




