第2話 忘れた頃の恩
「――カランドが、降りたらしいぜ」
その声が耳に入ったのは、ハンナの店で、二皿目の煮込みを掻き込んでいる最中だった。
昼時の店内は、相変わらず騒がしかった。
長卓の端から端まで、職人と商人と荷運びの男たちがぎっしりと肩を並べている。鍋の湯気。焼けた脂の匂い。木の杯がぶつかる音。フィオナが涼しい顔で盆を三枚同時に運び、その後ろでリタが、空の皿の塔をぐらぐら揺らしながら厨房へ突進していく。
その喧騒の中で、隣の卓の商人二人の声だけが、妙にくっきりと聞こえた。
「降りたって、帝国にか」
「他にどこがあるってんだ。都の議会が、まるごと白旗だとよ」
「……マジかよ。あそこ、ずっと帝国とベルリアの間で、どっちつかずでやってきた国だろう」
「どっちつかずでいられなくなったってことさ」
雷夕の匙が、皿の縁で止まった。
(――カランド)
その名前を、雷夕は知っていた。
ベルリアの北。
帝国との間に挟まった、小さな国。
*
「……雷夕?」
向かいの席で、ロゼリアが顔を上げた。
匙を咥えたまま、怪訝そうに眉を寄せている。
「どうしたの。急に怖い顔して」
「いや――」
隣の卓の会話は、まだ続いていた。
「降りただけじゃ済まなかったって話もあるぜ。国境の町が一つ、丸ごと焼かれたとか」
「降伏したのにか?」
「だから噂なんだよ。逃げてきた連中が、南の街道でそう言ってたって――」
ガタン、と。
雷夕は、自分でも気づかないうちに、椅子から腰を浮かせていた。
隣の卓の二人が、ぎょっとしてこちらを見る。
「――悪い。今の話、もう少し詳しく」
*
商人たちが知っていたのは、そこまでだった。
又聞きの、そのまた又聞き。
誰が焼いたのか。どれだけ死んだのか。その先で何が起きているのか。何一つ、確かなことはなかった。
雷夕は、礼を言って席に戻った。
煮込みは、すっかり冷めていた。
「……カランドって、確か」
ロゼリアが、声を落として言った。
「あんたが前にいた国の、隣じゃなかった?」
「ああ」
雷夕は、冷めた煮込みに匙を突っ込んだまま、動かなかった。
「ベルリアの、すぐ北だ」
*
――三年。
この世界に放り出されてから、イヴァルキアに流れ着くまでの、三年。
雷夕は、その全部を、ベルリアで過ごした。
丘の上の、石の壁に囲まれた小さな町。
朝になれば市場に野菜が並び、夜になれば酒場で誰かが調子外れの歌を歌う。どこにでもある、と言えばそれまでの、ありふれた町だった。
そこに、雷夕の居場所があった。
右も左も分からない、剣もろくに振れない、おまけに固有スキルはまともに働いた試しがない――そんな、どこに出しても役に立たない若造を、拾って、鍛えて、飯を食わせてくれた人たちがいた。
(――ガストンのおっさん)
脳裏に、髭面が浮かんだ。
大斧を肩に担いで、豪快に笑う大男。
「坊主、生きてるか」と、雷夕の頭を、首がもげるほどの力で掻き回す、あの手。
傭兵団が解散した日。
「お前はお前で、どっかで食っていけ」と、背中を叩いて送り出してくれた、あの声。
――あの人は、まだ、ベルリアにいるはずだった。
*
「――ちょいと、雷夕!」
厨房の方から、ハンナの声が飛んできた。
前掛けで手を拭きながら、人混みを掻き分けてこちらへやって来る。その後ろに、見覚えのない男が一人、ついてきていた。
いや――。
見覚えは、あった。
白髪交じりの髪。痩せてはいるが、背筋の伸びた体つき。旅の埃をかぶった外套の下に、商人らしい、仕立ての良い上着が覗いている。
あの時は、荷台に横たわったまま、掠れた声で礼を繰り返していた。
手足に、縄の痕を残したまま。
「お客さんだよ。あんたを探してるって、わざわざ店まで訪ねてきたんだ」
ハンナが、男の背中をぽんと押し出す。
男は、雷夕の前に立つと、深々と頭を下げた。
「――ご無沙汰しております、霧島様」
「……トマス、さん?」
「覚えていてくださいましたか」
顔を上げたトマスは、目尻に深い皺を寄せて、穏やかに笑った。
*
ハンナが気を利かせて、奥の小部屋を空けてくれた。
在庫の木箱が壁際に積まれた、狭い部屋だった。窓は小さく、昼間でも少し薄暗い。ネルバが無言で燭台に火を灯し、ミラが帳簿を抱えたまま、湯気の立つ茶を三つ、卓の上に置いていった。
卓を挟んで、雷夕とロゼリア、そしてトマスが向かい合った。
「お元気そうで、何よりです」
トマスは、茶を一口すすってから、そう言った。
「盗賊のアジトからお救いいただいてから、しばらく療養しておりましたが――おかげさまで、また隊商を率いて、南の道を行き来できるようになりました」
「南の道?」
「イヴァルキアから、大陸の南をぐるりと回って、東の国々へ抜ける交易路です。帝国の領内を通らずに済むので、我々のような小さな隊商には、ありがたい道でして」
トマスは、そこで、一度言葉を切った。
湯気の向こうで、その目が、少しだけ硬くなった。
「――その道の途中に、ベルリアがあります」
*
雷夕の背筋が、ぴんと伸びた。
「……ベルリアから、来たのか」
「十日ほど前に、発ちました」
トマスは、外套の内側から、折り畳んだ布を一枚、取り出した。
卓の上に置いて、広げる。
焦げた布だった。
元は、旗か何かだったのだろう。縁は黒く焼け落ち、残った部分にも、煤がまだらにこびりついている。かろうじて読み取れるのは、青地に白で縫い取られた、小さな紋章の端だけだった。
「カランドの、国境の町の旗です」
トマスの声は、静かだった。
「ベルリアに逃れてきた人々の中に、これを抱えていた老人がいました。焼け跡から、これだけ拾ってきたのだと。――譲ってくれと頼んだわけではありません。持っていってくれ、と。遠くの国の人に、何があったのか伝えてくれ、と」
*
それから、トマスは語った。
カランドの都が、帝国の条件を呑んで降伏したこと。
にもかかわらず、国境の町が一つ、見せしめとして焼かれたこと。
町を焼いたのは、帝国の若い将だということ。
「町の広場に人を集めて、自ら名乗ったそうです。ディートリヒ・ヴァイス、と」
ロゼリアが、小さく息を呑んだ。
「――その男が、足で地面を踏んだだけで、炎が走った。石畳の継ぎ目を伝って、町じゅうに。……逃げてきた人々は、皆、同じことを言っていました。見たこともない火だった、と」
「固有スキル、ね」
ロゼリアの声が、低くなった。
「訓練で身につく魔法なら、詠唱か、構えか、何か予兆があるはず。踏んだだけで、っていうのは――」
「ええ。私もそう思いました」
トマスは頷いた。
「町の若い男たちは、その場で縄をかけられて、連れて行かれたそうです。征用兵として。……カランドの兵は今、帝国軍の一番前に立たされている、と」
*
雷夕は、黙って、卓の上の焦げた旗を見下ろしていた。
青地に、白い紋章の端。
炎に喰われて、半分も残っていない。
「――で」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「その、ディートリヒって奴の軍は、今どこに向かってる」
トマスは、すぐには答えなかった。
ゆっくりと、茶碗を卓に置いた。
それから、雷夕の目を、まっすぐに見た。
「ベルリアです」
*
燭台の炎が、じじ、と揺れた。
「私がベルリアを発った時には、まだ帝国軍は国境の向こうでした。ですが、カランドを呑み込んだ軍が、次にどこへ向かうのか――あの町の誰もが、分かっていました」
トマスの指が、焦げた旗の縁を、そっとなぞる。
「ベルリアの新しいご領主は、まだお若い方です。先代が急に亡くなられて、家を継がれたばかりで。……町では、ご領主が降伏に傾いているという噂が、もう流れていました。カランドのように、と」
「――降伏しても、焼かれたんだろ」
「ええ」
トマスは、目を伏せた。
「だからこそ、町の人々は怯えています。戦っても勝てない。降っても焼かれる。どちらを選んでも――と」
*
狭い小部屋に、重い沈黙が落ちた。
壁の向こうから、店の喧騒が、くぐもって聞こえてくる。リタが何かを落とした音。ハンナの怒鳴り声。それに続く、常連たちのどっと沸く笑い声。
ほんの数歩先にある、いつもの昼の音。
それが、ひどく遠かった。
「……なんで、俺に」
雷夕は、ようやくそれだけを口にした。
「なんで、わざわざ俺を探して、これを」
トマスは、少しだけ、困ったように笑った。
「ベルリアの酒場で、隊の者たちに、盗賊から救われた時の話をしていたのです。イヴァルキアで、霧島雷夕という傭兵の方に命を拾っていただいた、と。――そうしたら、隣の卓から、大きな声が飛んできましてね。その名前なら知っている、三年ほど、ここで傭兵をやっていた若いのだ、と。妙な固有スキルを持っていたが、まともに使えたためしがなかった、と」
「……それ、誰が言ってた」
「大きな斧を担いだ、髭面の大男でした」
雷夕の喉が、ぐっと詰まった。
「その方は、こうも言っていましたよ。――あの坊主、今頃どこでどうしてるんだか、とね」
*
トマスは、居住まいを正した。
「霧島様。あの時、私は申し上げました。いつか必ず、この恩はお返しします、と」
「……ああ」
「私は商人です。剣も振れませんし、魔法も使えません。できることといえば、物を運ぶことと、話を運ぶことくらいです」
トマスは、焦げた旗の上に、そっと手を置いた。
「ですから、運んで参りました。あなたが三年を過ごした町が、今、どういう場所に立たされているのか。それを、一日でも早く、あなたにお伝えすることが――私にできる、精一杯の恩返しだと思いましたので」
それから、もう一つ、と付け加えた。
「私の隊商は、五日後に、またベルリアへ向けて発ちます。荷台には、まだ空きがあります。――もし、必要でしたら」
*
雷夕は、何も言えなかった。
言葉を探して、探して、何も見つからなかった。
代わりに、隣から、ロゼリアの声がした。
「――恩は、忘れた頃に返ってくるくらいが丁度いい、だったかしら」
トマスが、目を丸くした。
「おや。よくご存知で」
「荷馬車の手綱を握ってたの、私だもの。聞こえてたわ」
ロゼリアは、肩をすくめた。
それから、雷夕の脇腹を、肘で軽く小突いた。
「で。どうするの」
「……どうするって」
「顔に書いてあるわよ。行きたいって」
雷夕は、自分の顔に手をやった。
何が書いてあるのかは、分からなかった。
ただ、頬の筋肉が、ひどく強張っていることだけは分かった。
*
雷夕は、立ち上がった。
「――トマスさん」
「はい」
「ありがとう。本当に」
深く、頭を下げた。
「恩返し、確かに受け取った。……いや、受け取りすぎだ。今度は俺の方が借りを作った気がする」
トマスは、穏やかに首を横に振った。
「借りなど、とんでもない。――それより、急がれた方がよろしいかと」
「ああ」
雷夕は、卓の上の焦げた旗を、そっと畳んだ。
それを、懐にしまう。
アリシアの手紙の、すぐ隣に。
「アリシアのところに行ってくる」
扉に手をかけて、振り返った。
「――ロゼリア」
「分かってるわよ」
ロゼリアは、もう立ち上がって、外套を羽織っていた。
「工房の連中には、私から言っておく。リヴァールとケインにもね。――あんたは、先に行きなさい」
「……悪い」
「悪いと思うなら、走りなさい」
雷夕は、頷いて、扉を開けた。
店の喧騒が、どっと押し寄せてくる。
その中を、人の肩を縫うようにすり抜けて、通りへ飛び出した。
石畳を蹴る。
城の尖塔が、通りの向こうに見えていた。
懐の中で、焦げた布と、一通の手紙が、走るたびに、かさりと擦れ合った。




