第1話 北を向く剣
執務室の扉が開いて、ケインが出てきた。
背筋は、いつも通り真っ直ぐだった。吊った左腕も、胴に襷掛けにされた布紐も、昨日と寸分変わらない。
ただ、その顔だけが、ほんの少し、遠い目をしていた。
「――お、ケイン」
廊下の長椅子で待っていた雷夕が、腰を浮かせる。
「どうだった」
「……反省文を、十枚」
「十枚」
「片手で、です」
ケインは、無事な右手を、ゆっくりと開いて、閉じた。
「それと、布紐が一本、増えることになりました」
「増えるのかよ」
「お嬢様が、ロゼリア殿に直々に頼まれるそうです。――では、私は紙を貰いに行きますので」
一礼して、廊下の向こうへ歩き去っていく。その背中は、反省文十枚を前にした男のものとは思えないほど、きっちりと伸びていた。
(……あいつ、絶対また抜け出すな)
隣で、リヴァールが、小さく鼻を鳴らした。
笑ったのだと気づくのに、少しかかった。
*
「――入って」
扉の向こうから、アリシアの声がした。
執務室は、雷夕が知っているいつもの部屋だった。
壁一面の書棚。窓際の大きな机。積み上げられた書類の山と、インク壺と、羽根ペン。窓から差し込む昼前の光が、床の上に、四角い陽だまりを作っている。
ただ、今日は、机の脇にもう一つ椅子が置かれていた。
そこに、オズワルドが座っていた。
白髪は、今日もきっちりと撫でつけられている。腕を組み、しかめ面で、入ってきた二人をじろりと見上げた。
「座って」
アリシアに促されて、雷夕とリヴァールは、机の前の椅子に腰を下ろした。
リヴァールは、座る前に、一度だけ、扉の方を振り返った。
閉まっているのを、確かめるように。
アリシアは、その仕草を見逃さなかった。
「……衛兵は、廊下の端まで下げてあるわ」
「感謝する」
*
リヴァールは、懐から紙の束を取り出した。
紐で括られ、端が黒く焼け焦げた、あの束だった。
砦の治療所の夜、雷夕とケインの前で開いた時と同じように、彼はそれを、膝の上に置いた。
それから、話し始めた。
廃坑の、バルクの財宝の箱の底。
国境軍の移送記録。焼けた半分と、符牒だらけの残り半分。
騎士団時代の上官。剣を振らずに済ませる方法を考えろ、と言った人。
罪状、和平派との内通。移送先、北の要塞。
抑揚のない声だった。
砦の夜と同じ言葉を、同じ順番で、同じ平らさで。
ただ――ヨアヒム・ガルトナーという名前を口にした時だけ、やはり、ほんの僅かに、声が揺れた。
*
話が終わっても、しばらく、誰も口を開かなかった。
窓の外で、鳥が一羽、甲高く鳴いて飛び去った。
最初に動いたのは、オズワルドだった。
「――一つ、伺いたい」
組んでいた腕を解き、膝の上で両手を重ねる。
「クロネン殿。あなたは、帝国の騎士団から離反した身だと聞いている。その記録が本物だと、我々はどうやって信じればよい」
棘のある問いだった。
雷夕が口を挟もうとするのを、リヴァールが、片手で軽く制した。
「信じなくていい」
「……ほう」
「記録が本物かどうか、俺にも確かめる術はない。分かっているのは、俺がこれを読み解くのに、思っていたよりずっと手間がかかったということだけだ。――偽物を掴まされたのなら、俺が間抜けだったというだけの話だ」
オズワルドの鋭い目が、リヴァールを射抜く。
リヴァールは、目を逸らさなかった。
「ただ、もし本物なら。帝国の中には、和平を探している者がいて、強硬派はそれを罪にして閉じ込めるほどに恐れている。――それは、この国にとって、無関係な話ではないはずだ」
*
長い沈黙だった。
やがて、オズワルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
「……間抜けを自称する男は、だいたい間抜けではない」
それだけ言って、また腕を組んだ。
それ以上の追及はなかった。
(――通ったのか、今の)
雷夕は、そっと息を吐いた。
アリシアが、机の上で両手を組んだ。
「リヴァール。あなたは、この国に何を望むの」
「何も」
即答だった。
「兵を出してくれとは言わん。北の要塞は、帝国の奥だ。イヴァルキアの兵が一人でも踏み込めば、それだけで戦の口実になる。――俺一人の用件に、この国を巻き込むつもりはない」
「なら、なぜ私に話したの」
リヴァールは、少しだけ、言葉を探すように黙った。
「……砦の連中を放って行けば、連携が乱れる」
雷夕は、思わず噴き出しかけて、咳払いで誤魔化した。
アリシアが、怪訝そうに眉を寄せる。
「それは、どういう――」
「俺は、もうしばらくこの国にいるつもりだ、ということだ」
リヴァールは、膝の上の紙の束に、目を落とした。
「この国にいる以上、この国の主に、腹の中の物を隠しておくのは筋が通らん。――それだけだ」
*
アリシアは、しばらく、リヴァールの顔を見つめていた。
それから、ふっと、口元を緩めた。
「――分かったわ」
背筋を伸ばす。
声の調子が、領主のものに変わった。
「まず、この話は、この部屋の中だけに留めます。ヨアヒム・ガルトナーという名前も、和平派という言葉も、外には出さない。強硬派に、記録が漏れたと気づかれれば、その人の命が危ない」
オズワルドが、黙って頷く。
「次に。イヴァルキアとして、今すぐ北へ兵を出すことはできない。あなたの言う通りよ。――でも」
アリシアは、机の引き出しを開けて、一枚の地図を取り出した。
大陸全図だった。
北から中央を覆う、帝国の広大な版図。その南西の端に、小さく描かれたイヴァルキア。
「この国は、小さいけれど、人と物の行き来だけは多いの。職人の国だから。道具を売りに出る商人、材料を買い付けに行く商人。帝国の中にまで足を伸ばす隊商も、少なくない」
指先が、地図の上の交易路を、そっとなぞる。
「兵は出せない。でも、耳は貸せる。――北の要塞について、何か聞こえてきたら、あなたに必ず伝えるわ。それくらいなら、戦の口実にはならないでしょう?」
*
リヴァールは、何も言わなかった。
ただ、椅子から立ち上がり、右手を胸に当てて、深く、頭を下げた。
騎士の礼だった。胸に手を当てるところまでは、凱旋の日の中庭でも見た。
だが、この男がここまで深く頭を垂れるのを、雷夕は初めて見た。
「――感謝する、領主殿」
「アリシアでいいわ」
「……領主殿」
「頑固ね」
アリシアが、呆れたように笑った。
その横で、オズワルドが、何かを堪えるように口元を歪めていた。
笑いを噛み殺しているのだと、雷夕にも分かった。
*
執務室を出て、廊下を歩きながら、雷夕は隣のリヴァールを横目で見た。
「――なあ」
「何だ」
「今の、『しばらくこの国にいる』ってやつ」
「ああ」
「連携が乱れるから、か?」
「そうだ」
「それ、もう四回目だぞ」
「数えていたのか」
「数えるだろ、そりゃ」
リヴァールは、前を向いたまま、ほんの少しだけ、歩調を緩めた。
「……気に入っている、と言っただろう」
「知ってるよ」
雷夕は、笑って、リヴァールの肩を軽く叩いた。
鎧越しの肩は、思っていたよりも、ずっと硬かった。
*
工房の扉を開けた瞬間、雷夕は回れ右をしたくなった。
「――来たわね」
作業台の向こうで、ロゼリアが、拡大鏡を額に押し上げたまま、にんまりと笑っていた。
工房の中は、出立前よりもさらに散らかっていた。
棚から溢れた瓶。床に転がる金属の部品。壁一面に貼られた紙には、矢印と数字と、「重撃→?」「軽→速?」「戻り=一斉?」という、見覚えのある走り書きがびっしりと並んでいる。
作業台の上には、砕けた蓄魔石の欠片が、布の上に丁寧に並べられていた。
その横に――なぜか、大きな秤が、二台。
「……何だ、それ」
「秤よ」
「見りゃ分かる。なんで二台もあるんだって」
「一台は、あんた用」
ロゼリアの視線が、雷夕から、その後ろへ――ゆっくりと移った。
「もう一台は、そっちの人用」
*
リヴァールが、無表情のまま、一歩後ずさった。
「――断る」
「まだ何も言ってないけど」
「言わなくても分かる。重撃を測りたいんだろう」
「話が早くて助かるわ」
ロゼリアは、作業台を回り込んで、リヴァールの前に立った。
「雷夕が写したのは、あんたの重撃。で、写した結果、重さが消えた。――元の重撃がどれくらいの重さなのか分からないと、どれくらい消えたのかも分からないの。比べる物差しがないのよ」
「……理屈は分かる」
「でしょう?」
「だが、断る」
「なんで」
「秤が壊れる」
真顔だった。
一拍。
ロゼリアの目が、きらりと光った。
「――壊れるくらいの重さってこと?」
「…………」
「ねえ、今の、もう一回言って。どれくらい? 鉄床何個分?」
「言っていない」
「言ったわよ、壊れるって! 雷夕、聞いたわよね!?」
「聞いた聞いた」
「お前は黙っていろ」
*
結局。
日が傾く頃まで、工房の中には、ロゼリアの質問と、リヴァールの「断る」と、雷夕の笑い声が、交互に響き続けた。
秤は、一台、壊れた。
リヴァールが、根負けして、剣の柄頭でほんの軽く――本当に、軽く、皿の上を小突いた結果だった。
ガシャンッ、と。
鉄の皿が、台座ごと、真っ二つに折れて床に落ちた。
「――――」
ロゼリアは、しばらく、折れた秤を見下ろして固まっていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、怒っていなかった。
むしろ、とびきりの宝物を見つけた子供のように、らんらんと輝いていた。
「……もう一台、用意するわ。今度は鉄床で作る」
「作るな」
リヴァールの声が、ほんの僅かに、上擦った。
雷夕は、作業台に突っ伏して、腹を抱えて笑った。
笑いすぎて、まだ治りきっていない脇腹が痛んだ。
それでも、止まらなかった。




