プロローグ 降伏の火
鐘が、鳴っていた。
カァン、カァン、と。
間延びした、ひどく気の抜けた打ち方だった。警鐘ではない。祭りの日の鐘でもない。ただ、誰かが言いつけられた通りに、決められた数だけ叩いている――そういう音だった。
ヤンは、広場の端に立って、その音を聞いていた。
背中に、汗がじっとりと張りついている。
喉が、乾いて貼りついている。唾を呑み込もうとして、呑み込むものが何もないことに気づいた。
(――終わった、んだよな)
三日前。
カランドの都から、早馬が来た。
降伏。
たった二文字の報せだった。都の議会が、帝国の条件を呑んだ。城門を開け、兵を差し出し、帝国の旗を掲げる。その代わり、民の命は保証される。――そういう約束だと、町長は広場で、声を震わせながら読み上げた。
誰も、喜ばなかった。
それでも、誰もが、どこかで息を吐いていた。
これで、少なくとも、殺されはしない。
*
広場には、町じゅうの人間が集められていた。
石畳の上に、まばらに、身を寄せ合うように。
老人。女。子供。荷車を引いてきたままの粉屋。前掛けを外す暇もなかった鍛冶屋の親方。泣き出しそうな赤子を、必死にあやす若い母親。
その輪の外側を、帝国兵が囲んでいた。
黒地に金の紋章。
磨き上げられた鎧。
槍の穂先が、陽を受けて、等間隔にぎらぎらと光っている。
ヤンは、人の輪の中に、母と妹の顔を探した。
――いた。
井戸の脇。
母は妹の肩を抱いて、背を丸めて立っていた。妹のエマは、母の上着の裾を握りしめて、帝国兵の槍をじっと見上げている。十になったばかりの、まだ何も分かっていない顔だった。
目が合う。
母が、小さく首を横に振った。
――動くな、と。
ヤンは、拳を握った。
*
鐘が、止んだ。
蹄の音が、広場に入ってきた。
カツ、カツ、カツ、と。
急ぎもせず、緩めもせず、一定の拍子で。
帝国兵の囲みが、左右に割れる。
その間を、一頭の黒い軍馬が進んできた。
鞍の上の男は、若かった。二十と幾つか。ヤンと、十も違わないかもしれない。
赤みの強い金髪を、獣の毛並みのように短く刈り込んでいる。
着込んだ鎧は、他の兵の誰よりも上等なものだった。だが、その両の籠手だけが、ひどく汚れていた。煤だ。指の関節から手首まで、何度も炎の中に突っ込んだように、黒く焦げついている。
男は、馬の上から広場を見渡した。
ゆっくりと。
一人一人の顔を、品定めでもするように。
その目が、ヤンの上を通り過ぎた時――。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
(――なんだ、こいつ)
怒りでも、侮蔑でもない。
もっと、何もない目だった。畑の端に積まれた刈り草の山を見るのと、まるで同じ目だった。
*
「カランドの民よ」
男が、口を開いた。
よく通る声だった。軽く、明るく、ほとんど愉しげですらあった。
「私はディートリヒ・ヴァイス。ヴォルフガング様の命により、この地の接収を任された者だ」
誰も、声を上げなかった。
「まずは、礼を言おう。――君たちの都の賢明な判断に」
男――ディートリヒは、籠手の指先で、軽く手綱を叩いた。
「降伏を受け入れる。約束通り、帝国は君たちの命を奪わない。……安心したまえ」
広場のどこかで、誰かが、すすり泣くような安堵の息を漏らした。
ヤンの肩からも、知らず知らずのうちに、力が抜けかけた。
――その時だった。
「ただ」
ディートリヒが、首を傾げた。
まるで、ふと思いついた、とでも言うように。
「降伏というものは、早すぎると、あまり教訓にならない」
*
広場が、静まり返った。
「この先の国々――ベルリアだの、何だの。彼らは、カランドの判断を見て、自分たちの身の振り方を決めるだろう。降伏すれば、何も失わずに済む。そう思われては困るのだ」
ディートリヒは、ひらりと馬から降りた。
拍車が、石畳を打って、チン、と澄んだ音を立てた。
「だから、君たちには、教訓になってもらう」
「――お待ちください!」
町長が、人の輪から転がり出た。
白髪を振り乱し、膝をついて、両手を石畳についた。
「約束が、約束が違います! 命は保証すると――!」
「保証するとも」
ディートリヒは、町長を見下ろして、にこりと笑った。
「命は、奪わない。――殺すのは、町だけにしておいてやる」
*
ディートリヒの右足が、石畳を踏んだ。
ダンッ。
ただ、それだけだった。
それだけで――。
足元の石の継ぎ目から、赤い光が、噴き出した。
ゴォッ――!!
炎だった。
地を這う炎の筋が、男の足元から、蛇のようにうねりながら走り出す。一本。二本。五本。十本。石畳の継ぎ目を、路地の溝を、家々の軒下を伝って、広場の四方へ。人の輪の、隙間という隙間を縫って。
「――ひッ……!」
誰かが、悲鳴を上げた。
それを合図に、広場が爆ぜた。
逃げ惑う足音。押し合い、倒れ、踏みつけられる音。泣き叫ぶ子供の声。炎の筋は人を避けるように走りながら、その先にある全てを舐め尽くしていく。
粉屋の軒先の、干した麦藁。
鍛冶屋の、積み上げた炭の山。
宿屋の、二階の窓辺に吊るした洗濯物。
バリバリバリッ――!
火が、家を、喰った。
*
「エマッ! 母さんッ!」
ヤンは、人波を掻き分けて井戸の方へ走った。
煙が、目を刺す。熱が、頬を炙る。誰かの肘が脇腹にめり込み、誰かの背中に弾き飛ばされる。
井戸の脇に、二人はいなかった。
(どこだ――どこに――)
「――ヤンッ!」
声。
振り返る。広場の東の出口。炎の筋がまだ届いていない、狭い路地の入り口で、母が、妹を抱えたまま、こちらへ手を伸ばしていた。
「こっちよ、早く――!」
走り出そうとした。
その腕を、誰かが、後ろから掴んだ。
*
鉄の籠手だった。
帝国兵だ。二人。一人がヤンの腕をねじり上げ、もう一人が、首の後ろを押さえつける。
「――離せッ! 離せよッ!」
「若い男は、こっちだ」
感情のない声だった。
「十五から四十までの男は、全員、征用兵として徴発する。閣下の命令だ」
「ふざけ――家族が、そこに――!」
藻掻く。暴れる。
踵で、兵の脛を蹴りつける。
ゴッ、と。
槍の石突きが、腹に叩き込まれた。
息が、止まった。
膝から、力が抜けた。石畳に崩れ落ちる。熱い。石が、焼けるように熱い。
霞む視界の向こう。
路地の入り口で、母が、こちらへ駆け戻ろうとしていた。
それを、妹のエマが、泣きながら引き止めていた。
――行って。
ヤンは、声にならない声で、そう叫んだ。
――行ってくれ。頼むから。
母の顔が、くしゃりと歪んだ。
それから、妹の手を引いて、煙の向こうへ消えていった。
*
広場の端に、若い男たちが、一列に並ばされていた。
誰もが煤にまみれ、誰もが腕を縛られ、誰もが、燃えていく自分の町を見ていた。
ヤンも、その中にいた。
生まれ育った家が、燃えていた。
父が遺した小さな作業場の屋根が、ゆっくりと内側へ崩れ落ちていく。母が毎朝水を撒いていた戸口の鉢植えが、炎に呑まれて、黒い影になって、消えた。
熱風が、頬を叩く。
涙は、出なかった。
出す前に、熱で乾いてしまうのだと思った。
*
「――閣下」
列の前で、帝国の士官が、ディートリヒに何かを報告していた。
「征用兵、三百十二名。町の住民は、ほぼ全員が東の街道へ逃れました。死者は、今のところ、十数名かと」
「少ないな」
ディートリヒは、燃え盛る町を眺めながら、退屈そうに言った。
「まあいい。数は問題ではない。――燃えた、という事実が届けば、それでいい」
煤けた籠手で、額に落ちた前髪を払う。
その仕草だけが、妙に、若者らしかった。
「リンデンの爺さんは、国境で手こずっているそうじゃないか」
「は。イヴァルキアの砦を落としきれず、後退したと」
「民間人には手を出すな、だったか」
ディートリヒは、喉の奥で、くっくっと笑った。
「甘いんだよ、あの爺さんは。秩序だの、民もいずれ帝国の民になるだの。――怖がらせればいいんだ。怖がらせて、膝をつかせればいい。燃えた町一つで、十の町が戦わずに門を開く。その方が、よほど人が死なずに済む」
本気で、そう言っているのだと分かった。
だからこそ。
ヤンの奥歯が、ぎり、と鳴った。
*
ディートリヒが、征用兵の列の前を、ゆっくりと歩いた。
一人一人の顔を、覗き込むようにしながら。
ヤンの前で、足が止まった。
「――いい目だ」
煤けた籠手が、ヤンの顎を掴んで、持ち上げた。
熱い。
籠手そのものが、まだ炎の熱を孕んでいた。
「憎んでいる目だな。いいよ。存分に憎むといい」
ディートリヒは、楽しげに目を細めた。
「次の戦では、君たちが一番前を歩く。ベルリアの連中は、まず君たちを斬らなければ、私には届かない。――君たちが帝国を憎めば憎むほど、ベルリアは君たちを斬りにくくなる。同じ顔をした、哀れな隣人だからね」
籠手が、離れた。
「生き残りたければ、前の敵を斬れ。逃げる者は、後ろから焼く。――簡単な話だろう?」
答えを待たずに、ディートリヒは踵を返した。
拍車が、焼けた石畳を打って、チン、と鳴った。
*
その夜。
征用兵たちは、町外れの野営地で、縄を解かれないまま転がされていた。
町は、まだ燃えていた。
夜の底を、赤く、赤く染めながら。ぱち、ぱち、と木の爆ぜる音が、風に乗って届いてくる。
隣で、鍛冶屋の徒弟だった少年が、声を殺して泣いていた。
反対側では、粉屋の息子が、ただ黙って、燃える町を見つめていた。
ヤンは、縛られた手首を、そっと動かした。
縄が、皮膚に食い込む。
血が滲む。
痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれた。
(――母さん。エマ)
東の街道へ。
二人は、無事に逃げられただろうか。
東の、その先には――。
ベルリアがある。
(……俺は、そこへ、剣を持って行かされるのか)
母と妹が、逃げていった先へ。
炎の照り返しの中で、ヤンは、強く、強く目を閉じた。
閉じても、赤い光は、瞼の裏から消えなかった。




