エピローグ おかえりなさい
王都の西門をくぐった瞬間、雷夕は、自分の耳を疑った。
「――帰ってきたぞおおおッ!」
誰かの野太い叫び声。
それを皮切りに、門前の通りの両脇から、わっと人の波が押し寄せてきた。
荷車を引いていた行商人が、手綱を放り出して手を振っている。洗濯物を抱えた女たちが、窓という窓から身を乗り出している。鍛冶屋の徒弟らしき少年が、煤だらけの顔のまま、樽の上に飛び乗って両腕を振り回していた。
「……なんだ、これ」
馬上で固まる雷夕の隣で、ロゼリアが、げんなりとした顔で溜め息をついた。
「砦の老将が、早馬で戦勝の報せを送ったのよ。三日も前に。――城下に広まらないわけがないでしょう」
「俺、聞いてないぞ」
「あんた、その頃まだ粥しか啜れなかったじゃない」
ぐうの音も出なかった。
*
人垣の向こうから、ひときわ大きな声が飛んできた。
「――ちょいと、どいとくれ! 通しな!」
丸太のような二の腕で人混みを掻き分けて、ハンナが、前掛けをはためかせながら飛び出してきた。
「あんたたち! よく、まあ――よく、生きて帰ってきたねぇ!」
馬の首越しに、ばしん、と雷夕の太腿が叩かれる。
加減というものを知らない一撃だった。
「――痛ってえ!」
「生きてる証拠だよ、我慢おし!」
ハンナは、それから、雷夕の顔をまじまじと覗き込んで、眉をひそめた。
「……なんだい、あんた。顔色が青いったらありゃしない。痩せたんじゃないかい」
「二日寝込んでたからな」
「二日も!? ――リタ! リタ、店に戻って一番いい肉、取っときな! この子らが来たら、何はなくとも食わせるんだよ!」
「はーいっ!」
人垣の後ろで、リタが元気よく返事をして駆け出し――三歩目で、見事に何もない石畳に躓いた。
通りじゅうから、どっと笑い声が上がった。
(――ああ)
雷夕は、手綱を握る指から、知らず知らずのうちに力が抜けていくのを感じた。
(帰ってきたんだな、本当に)
*
人混みの中を、一行はゆっくりと城へ向かって進んだ。
先頭のケインは、左腕を吊った布の上から、なぜか胴にもう一本、太い布紐を襷のように掛けられていた。
道中、何度か馬を降りて荷運びを手伝おうとしたのを、そのたびにロゼリアに見咎められた結果だった。
「――ケイン様だ! ケイン様、腕をどうなさったんですか!」
沿道の若い女が、心配そうに声を張り上げる。
ケインは、真顔のまま、律儀にそちらへ会釈を返した。
「名誉の負傷です。それと、これは」
胴の布紐を、無事な方の手で示す。
「名誉の拘束です」
「名誉なのか、それ」
「そう思わなければ、やっていられません」
最後尾では、リヴァールが、手綱を片手に、沿道の熱気など存在しないかのような無表情で馬を進めていた。
ただ――子供が一人、恐る恐る手を振った時だけ、彼は、ほんの僅かに顎を引いて、それに応えた。
(……今、会釈したよな、あいつ)
見間違いかと思って二度見した時には、もう、いつもの鉄面皮に戻っていた。
*
城の中庭に入ると、人の声は、嘘のように遠のいた。
石畳を叩く蹄の音だけが、高い城壁に跳ね返って、くっきりと響く。
井戸の脇の楡の木が、出立した時よりも少しだけ色を深めた葉を、風にさやさやと揺らしていた。
その木陰に、二つの人影が立っていた。
一人は、白髪を丁寧に撫でつけた老人。
もう一人は――。
雷夕は、思わず手綱を引いた。
アリシアだった。
公務の途中で抜け出してきたのだろう、上質な深い青の衣装に、領主の徽章を胸に留めたままの姿だった。
背筋を伸ばし、両手を体の前で静かに重ね、一行の到着を待っている。統治者として、一分の隙もない立ち姿。
――ただ。
その重ねた両手の、指先だけが。
衣装の布地を、ぎゅっと、皺が寄るほど強く握りしめていた。
*
一行が馬を降りる。
アリシアが、一歩、前に出た。
「――よく、戻りました」
凛とした声だった。中庭の隅々まで通る、領主の声だ。
控えていた衛兵たちが、一斉に姿勢を正す。
「レイフ砦の防衛、ならびにシュテルン村の奪還。守将からの報告は、全て読みました。――あなたたちの働きに、イヴァルキアを代表して、心から感謝します」
ロゼリアが、ケインが、それぞれに頭を下げる。
リヴァールも、黙って右手を胸に当てた。
雷夕も、それに倣って頭を下げようとして――。
「それで」
アリシアの声の温度が、ほんの少しだけ、変わった。
「報告書によれば、魔力の底が抜けて、二日間、目を覚まさなかった者がいるそうだけれど」
(――うわ)
顔を上げると、アリシアの目が、まっすぐに雷夕を捉えていた。
領主の顔のまま。
口元だけが、微かに笑っている。目は、少しも笑っていない。
「……書いてあったのか、そんなことまで」
「書いてあったわ。とても丁寧に。あの守将、筆まめなのね」
「あの爺さん……」
「それから、もう一人」
アリシアの視線が、すい、とケインへ移る。
「左腕を負傷した上に、安静の指示を三度破った、とも」
「――四度です」
ケインが、真顔で訂正した。
「四度目は、報告書が出された後でしたので」
「……ケイン」
「は」
「後で、私の執務室へ」
「――は」
吊った左腕をそのままに、ケインの背筋が、ぴんと伸びた。
その横で、ロゼリアが、口元を押さえて肩を震わせていた。
*
「――アリシア様」
それまで黙っていたオズワルドが、こほん、と咳払いをした。
「そろそろ、皆を中へ。長旅の疲れもありましょう」
「ええ、そうね」
「それと」
老人の鋭い目が、雷夕を一瞥した。
「傭兵殿」
「ん」
「及第点だったな、以前は」
「……ああ。宴の時に」
「訂正しておく」
オズワルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
「加点だ。――少しだけな」
それだけ言うと、老人は踵を返し、さっさと城の中へ歩いていってしまった。
その背中が、心なしか、出迎えに来た時よりも軽そうに見えた。
「……今の、褒められたのか?」
「褒めてたわよ」
ロゼリアが、呆れたように言った。
「あの人、あれで最大級よ」
*
城の中へ入る直前、リヴァールが、足を止めた。
「――領主殿」
アリシアが、振り返る。
リヴァールは、彼女の前に進み出ると、低く、短く言った。
「話がある。……個人的な用件だが、この国にも、無関係ではないかもしれん」
アリシアは、リヴァールの顔をじっと見つめた。
それから、ほんの一瞬だけ、雷夕の方へ目を向けた。
雷夕は、小さく頷いて返した。
「――分かったわ。明日、改めて時間を取ります。今日は、まず休んで」
「感謝する」
リヴァールは、それだけ言って、ケインの後に続いた。
*
気づけば、中庭に残っているのは、雷夕とアリシアの二人だけになっていた。
ロゼリアは、「工房の炉が冷えてないか見てくる」と言い残して、半ば逃げるように去っていった。
去り際に、雷夕の背中を、ばしん、と叩いていった。ハンナほどではないが、加減というものを知らない一撃だった。
楡の葉が、さやさやと鳴っている。
アリシアは、雷夕の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
重ねていた両手を、ほどく。
衣装の布地に、くっきりと皺が残っていた。
「……二日、寝てたのね」
さっきまでの、領主の声ではなかった。
「ああ」
「どこか、痛むところは」
「もうない。体がちょっと重いくらいだ。――あ、いや、さっきハンナに叩かれたところは痛い」
「それは自業自得」
「なんでだよ」
アリシアが、ふっと笑った。
それから、雷夕の顔を、もう一度、上から下まで確かめるように見た。
頬の擦り傷。まだ少し落ちくぼんだ目元。腕輪の留め具に残った、砕けた石の小さな欠片。
「――手紙、届いた?」
「届いた」
雷夕は、懐を軽く叩いた。
「『無事な帰りを、待っています』。……ちゃんと持ってる」
「そう」
アリシアは、小さく息を吐いた。
「ちゃんと、無事に帰ってきたわね。――二日寝込んだのを、無事と言っていいなら、だけど」
「言っていいだろ。帰ってきたんだから」
「それは、私が決めるの」
「厳しいな、領主様は」
「ええ。厳しいの」
*
楡の木の向こうで、城の鐘が、昼を告げて鳴り始めた。
ゴォン、と。
腹に響く低い音が、中庭の石壁に跳ね返って、ゆっくりと空へ溶けていく。
「……なあ、アリシア」
「なに」
「砦の老将にさ、言われたんだ」
雷夕は、鐘の音の余韻の中で、ぽつりと言った。
「最初は、劣化は数えに入れん、って言われてた。不確かなものを芯に据えたら、作戦は賭けになるって。――でも、最後に、次からは数えてやるって。不確かなものとして、な」
アリシアは、黙って聞いていた。
「……正直、ちょっと、泣きそうになった」
照れ隠しに頭を掻きながら言うと、アリシアは、少しだけ目を見開いた。
それから。
「――そう」
柔らかく、目を細めた。
「よかったわね」
「ああ」
「でも」
アリシアは、一歩だけ、雷夕に近づいた。
楡の葉の影が、彼女の銀の髪の上で、ちらちらと揺れる。
「私は、最初から数えてたわよ」
「……え」
「最初に会った日から、ずっと」
あっさりと。
まるで、今日の天気の話でもするように、彼女はそう言った。
雷夕は、何か言い返そうとして――何も出てこなかった。
アリシアは、そんな雷夕の顔を見て、満足げに小さく頷いた。
それから、くるりと背を向けて、城の扉の方へ歩き出す。
数歩進んだところで、足を止めて、振り返った。
「雷夕」
「……ん」
前にも、こういうことがあった、と思った。
城壁の上で。朝の風の中で。当たり前のように、投げられた一言。
今度の一言は、違う言葉だった。
「――おかえりなさい」
ただ、それだけ。
年相応の娘の顔で、彼女は笑っていた。
雷夕は、懐の上から、手紙の感触を確かめた。
それから、鐘の余韻がまだ残る中庭で、精一杯の笑顔を返した。
「ただいま」
――第2章 了




