第19話 数えに入る力
最初の一太刀は、見えなかった。
ガギィンッ――!!
見えないまま、雷夕の剣が、勝手にそれを受けていた。
受けたというより、たまたまそこに剣があった、と言った方が近い。
腕が、痺れる。
肘の内側から肩の付け根まで、骨という骨が、じんと鳴った。
(――重い。さっきより、ずっと)
アルブレヒトの剣は、速くなってはいなかった。
目で追える速さのまま。踏み込みも、引き戻しも、教本の図をそのまま切り抜いたように正確で。
ただ、一太刀ごとに、雷夕の逃げ道が、一つずつ消えていく。
*
二太刀目。
右へ跳ぶ。
着地した場所に、もう、切っ先が待っていた。
三太刀目。
剣を立てて受ける。
受けた衝撃で、踵が、瓦礫の上をずるりと滑った。
背中に、冷たく硬いものが当たる。
壁だった。
(――詰められた)
いつの間にか。
一歩も退いたつもりはなかったのに、気がつけば、背は第二防壁の石に押しつけられていた。
*
アルブレヒトが、剣を引いた。
構えを、変える。
両手で握った長剣を、肩の高さまで引き上げ、切っ先を真っ直ぐに雷夕の胸へ。
その構えには、もう、受け流す為の余白も、様子を窺う為の間も、何一つ残っていなかった。
次で、終わらせる。
言葉にしなくても、そう聞こえた。
*
雷夕は、剣を構え直そうとして――腕が、上がらないことに気づいた。
脇腹から流れた血が、ズボンの腿を伝い、膝の裏まで濡らしている。
指先が、冷たい。
自分の呼吸の音が、やけに遠くに聞こえた。
(――ここまで、か)
いや。
まだだ。
腰帯の内側で、捻じ込んだ革袋が、ごつりと腹を押した。
*
ゴシャァッ――!!
背後で、あの音が鳴った。
すぐ後ろ。
壁の崩れた一角で、二枚重ねの盾に足を止められたまま、リヴァールがなおも剣を振るっていた。
一枚目の盾が、吹き飛ぶ。
二枚目を構えた兵が、背後の仲間に支えられて、歯を食いしばって耐える。
リヴァールが、また振りかぶる。
――ゴシャァッ!!
重い。
ただひたすらに、重い一撃。
その音が、雷夕の耳の奥に、ずしりと沈んだ。
(――あれ、なら)
*
アルブレヒトは、スキルを持っていない。
魔法も、使っていない。
写すものが、何もない。
だから、ずっと、劣化を考えなかった。考えられなかった。
でも――すぐ後ろに、一つだけ、ある。
(重撃を、写したら)
何に化けるのかは、分からない。
重さの逆――火が冷気に、雷が光に化けたように、あれが対極に転ぶのなら。
(――重さが、消える)
ただの思いつきだった。
根拠なんて、どこにもなかった。
それでも、もう、他に手は残っていなかった。
*
雷夕は、左手で、腰帯の内側から革袋を引きずり出した。
千切れた紐が、だらりと垂れる。
袋を逆さにして、掌に石を落とす。
ひやりと、冷たかった。
乳白色の、歪んだ球。
細い溝が、指の腹にざらりと引っかかる。
アルブレヒトの目が、僅かに細まった。
雷夕の手元の、その小さな石へ。
*
「――ロゼリア!!」
叫んだ。
喉が裂けるかと思うほどの声で。
壁の上のどこかにいる、あいつへ。
「使う!!」
一拍。
壁の上から、声が降ってきた。
「――ちゃんと、見てるから!!」
それで、十分だった。
*
石を、留め具に押し込む。
カチリ。
小さな音がして――。
熱いものが、手首から、腕の中へ、流れ込んできた。
*
自分の魔力ではなかった。
それが、すぐに分かった。
乾ききっていた井戸の底へ、他所の水が、どっと注ぎ込まれていく。
冷たくも、温かくもない。ただ、ひどく重たい。腕の血管の一本一本を、内側から押し広げていくような、異物の感触。
(――暴れる)
補給路の森で、一度、味わった感覚だった。
手綱の付いていない馬に、無理やり跨がらされたような。
少しでも気を抜けば、振り落とされる。少しでも力を入れすぎれば、どこへ駆けていくか分からない。
雷夕は、歯を食いしばった。
そして、背後の音に――意識を、向けた。
*
――ゴシャァッ!!
重撃が、鳴る。
(――写せ)
それだけを、念じた。
*
世界が、軽くなった。
*
最初に消えたのは、剣の重さだった。
握っていたはずの鋼が、手の中から、ふっと抜け落ちたように感じた。
慌てて指に力を込める。剣は、確かにそこにあった。ただ、その重さが、羽根一枚ほども残っていなかった。
次に、腕が。
脇腹の痛みを抱えていた体が。
瓦礫を踏みしめていた、足が。
全部、重さを失っていった。
(――なんだ、これ)
自分の体が、自分のものではないように軽かった。
鎧も、服も、流れ続ける血さえも、どこかに置き忘れてきたように。
*
アルブレヒトが、踏み込んだ。
突き。
一分の乱れもない、教本の通りの、最短の軌道。
雷夕の胸の中心へ、真っ直ぐに伸びてくる、鋼の切っ先。
――遅い。
*
いや。
遅いのではなかった。
雷夕が、速すぎた。
*
一歩。
踏み出したつもりの一歩で、体が、切っ先の横を、すり抜けていた。
二歩目は、なかった。
気がついた時には、もう、アルブレヒトの懐の内側に立っていた。
(――え)
自分で驚く間もなく。
重さを失った剣が、腕の動きに、何の遅れもなくついてきた。
振り上げたという感覚すら、なかった。
ただ、そこに、刃があった。
*
――キィンッ!!
甲高い、澄んだ音。
アルブレヒトの長剣が、宙を舞っていた。
装飾のない、幅広の刃が、くるくると回りながら、朝の光を弾いて――。
ガシャンッ。
瓦礫の上に、落ちた。
*
アルブレヒトの右の手首から、血が噴き出していた。
剣を握っていた、その手首の内側。
籠手の継ぎ目を縫うようにして、一筋の赤い線が、深く走っていた。
彼は、膝をつかなかった。
ただ、左手で右の手首を押さえ、一歩、二歩と後ろへ退がった。
その目が、信じられないものを見るように、雷夕を見ていた。
「――今の、は」
雷夕にも、分からなかった。
自分が、何をしたのか。
*
そして――。
軽さが、一斉に、牙を剥いた。
*
ぐらり、と。
足元の地面が、傾いたように感じた。
違う。
傾いたのは、自分だった。
重さを失った体が、今度は、どこにも留まっていられなかった。
踏みしめようとした足が、瓦礫を掴めない。立とうとした膝が、上へ、上へと浮き上がろうとする。
(――止まれ、止まれ止まれ止まれ!!)
腕輪の留め具が、焼けるように熱かった。
ピシッ――。
乳白色の石に、罅が走る。
ピシッ、ピシッ、ピシピシピシッ――!
罅が、網の目のように広がって――。
パキィンッ――!
砕けた。
*
その瞬間。
全ての重さが、一度に、戻ってきた。
*
ドッ――!
膝から、崩れ落ちていた。
剣が、手から零れる。
今度は、鉛のように重かった。腕も、脚も、瞼も。体中の血という血が、急に鉄に変わったかのように。
瓦礫に、頬が当たる。
冷たい。
砂の味がした。
(――あ、これ、やばい)
視界の端が、暗く滲んでいく。
*
足音が、近づいてきた。
一つではなかった。
帝国兵だった。
盾を構えた兵が三人、四人――倒れた雷夕と、手首を押さえたアルブレヒトの間へ、雪崩れ込むように割って入ってくる。
その内の一人が、アルブレヒトの体を、肩で支えた。
別の一人が、瓦礫の上の長剣を拾い上げる。
そして、残りの二人が――。
槍を、雷夕に向けた。
*
(――動け)
動かなかった。
指一本、上がらなかった。
穂先が、振りかぶられる。
*
――ゴシャァッ!!
槍が、兵ごと、横へ吹き飛んだ。
雷夕の視界の上に、影が落ちた。
見上げる力もなかった。
それでも、分かった。
「――立てるか」
素っ気ない声。
「……無理」
「そうか」
リヴァールは、それ以上何も言わず、雷夕の前に立った。
長剣を、低く構える。
二枚重ねの盾を、ようやく叩き割ってきたのだろう。その肩は大きく上下し、額からは汗が滝のように流れていた。
それでも、一歩も、退かなかった。
*
帝国兵たちが、たじろいだ。
その背後で。
「――退け」
低い声が、した。
*
アルブレヒトだった。
部下の肩に支えられ、右の手首を押さえたまま。
血の気の引いた顔で、それでも、背筋だけは、少しも曲がっていなかった。
「全軍、退け。――退き太鼓を、打たせろ」
「閣下、しかし――!」
「聞こえなかったか」
静かな声だった。
「将が剣を落とした。それを、この場の全ての兵が見た。――この戦は、終わった」
*
兵が、息を呑んだ。
それから、深く頭を下げ、駆けていく。
アルブレヒトは、部下に支えられたまま、もう一度だけ、こちらを振り返った。
倒れた雷夕を。
その前に立つ、リヴァールを。
そして、壁の上から身を乗り出している兵たちを。
順に、見た。
「――霧島雷夕」
名前を、呼ばれた。
「お前の言う、今日の子供とやらが」
一度、言葉が切れる。
「――十年後も、笑っていればいいがな」
それが、皮肉なのか。
それとも、別の何かなのか。
雷夕には、分からなかった。
分からないまま、アルブレヒトの背中は、盾を揃えた兵の列の中へ、静かに消えていった。
*
ドン、ドン、ドン、ドン――!
退き太鼓が、鳴り響いた。
昨日と同じ、隊ごとに順に下がらせる、整った拍子。
黒い鋼の壁が、ゆっくりと、後ろへ動き始める。
崩れはしなかった。
最後の一兵が丘の向こうへ消えるまで、その隊列は、一度も乱れなかった。
*
「――追うな」
老将の声が、壁の上から降ってきた。
いつもの怒声ではなかった。
ひどく掠れた、疲れ果てた声だった。
「……追わなくて、いい」
壁の上で。
門の内で。
瓦礫帯で。
誰かが、剣を取り落とした。
誰かが、その場に座り込んだ。
誰かが、声を上げて泣き出した。
そして――。
――ワアアアアアアアアッ!!
声が、上がった。
勝鬨と呼ぶには、あまりに不揃いで、あまりに掠れていて。
それでも、砦じゅうの喉という喉から絞り出された、生き残った者たちの声だった。
*
雷夕は、その声を、瓦礫に頬をつけたまま聞いていた。
足音が、また近づいてくる。
今度は、帝国兵のそれではなかった。せわしなくて、軽くて、少しよろけている足音。
「――雷夕!!」
ロゼリアだった。
膝をつき、雷夕の体を仰向けに返す。
煤だらけの顔が、すぐ目の前にあった。
「生きてる!? 生きてるわね!? 返事!」
「……生き、てる」
「よし!」
ロゼリアは、大きく息を吐いた。
それから、雷夕の左の手首――砕けた石の欠片がこびりついた腕輪の留め具を、ひっつかんで、睨みつけた。
「――で、何をどう写したの。全部、見てたけど、全部、意味が分からなかった」
(――今、それ聞くか)
雷夕は、笑おうとした。
笑う前に、意識が、すとんと落ちた。
*
目を覚ましたのは、天井の梁の木目が、やけにはっきり見える昼だった。
治療所の寝台だった。
薬草を煎じる苦い匂い。窓の外から聞こえる、槌の音と、人の笑い声。
体が、重い。
指を一本動かすのにも、水の中で藻掻くような手間がかかった。
(――重さ、戻りすぎじゃないか)
「起きたか」
寝台の脇の椅子に、リヴァールが座っていた。
膝の上で、剣の手入れをしていた。
「……どれくらい、寝てた」
「二日だ」
「二日!?」
跳ね起きようとして、背中が寝台から一寸も浮かなかった。
「――動けん」
「だろうな。治療師の話では、魔力の底が抜けているそうだ。しばらくは、粥を啜る以外の仕事はない」
*
隣の寝台から、声がした。
「――目が覚めたか、雷夕」
ケインだった。
左腕を吊ったまま、寝台の上に、きちんと背筋を伸ばして座っている。
その胴には、なぜか、寝台の柱ごと、太い布紐がぐるぐると巻きつけられていた。
「……なんだ、それ」
「縛り付けられている」
ケインは、真顔で言った。
「比喩ではなかった」
「半分って言ってなかったか」
「昨日、壁の修復を手伝いに抜け出そうとしたら、もう半分も足された」
(――ロゼリア、容赦ねえ)
雷夕は、寝台に沈んだまま、声を殺して笑った。
笑うと脇腹が痛んだ。痛んでも、笑いは止まらなかった。
*
治療所の戸が、勢いよく開いた。
「――起きたって!?」
ロゼリアだった。
両腕に、紙の束と、帳面と、何やら得体の知れない計器を抱えている。
目の下には、くっきりと隈が刻まれていた。それなのに、その目は、獲物を見つけた猫のようにらんらんと光っていた。
「よし、起きたなら聞くわよ。重撃を写したのよね? 写した瞬間、何を感じた? 重さが消えたのは体だけ? 剣も? 血は? 戻った時の順番は? 石が割れたのは戻る前、後?」
「――待て待て待て、一個ずつ」
「一個ずつ聞いてたら日が暮れる!」
「病人だぞ、俺!」
「だから今聞いてるの! 元気になったら、あんた絶対どっか行くでしょ!」
*
ロゼリアの後ろから、もう一人、入ってきた。
老将だった。
鎧は脱いでいた。
簡素な上着に身を包むと、壁の上で見た時よりも、ずっと小柄に見えた。深い皺の刻まれた顔には、まだ色濃く疲れが残っている。
ロゼリアが、慌てて口を閉じた。
老将は、ケインの胴に巻かれた布紐を一瞥し、何も言わずに視線を外した。
それから、雷夕の寝台の脇に立った。
*
「帝国軍は、シュテルン村からも退いた」
前置きは、なかった。
「今朝、斥候が戻った。村は空だ。焼けた家は焼けたままだが――残った家の戸は、どれも閉められていた。荒らされた跡は、無かったそうだ」
(――閉めていったのか)
退く時まで、一分の乱れもなく。
あの男らしい、と思った。
「補給が尽きかけていたところへ、将が手傷を負った。国境の向こうまで退いて、立て直すつもりだろう。――少なくとも、しばらくは来ない」
「村の人たちは」
「避難民のキャンプには、もう報せをやった。数日のうちに、戻れる者から戻り始める」
雷夕は、目を閉じた。
荷車の上で、諦めたように目を逸らした、あの少女の顔が浮かんだ。
あの子の村が、シュテルン村だったのかどうかは、分からない。
それでも。
(――よかった)
*
老将は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「作戦の前に、言ったな。この作戦に、劣化は数えに入れん、と」
「……ああ」
「不確かなものを芯に据えた瞬間、作戦は賭けになる。――その考えは、今も変わらん」
雷夕は、黙って聞いていた。
老将の声は、変わらず平らだった。
「だが」
一拍。
「不確かなものに、二度、三度と救われておいて、それを数えに入れんのは――それはもう、筋ではなく、ただの意地だ」
老将の目が、真っ直ぐに、雷夕を見下ろしていた。
「次からは、数えてやる。不確かなものとしてな。――それで、構わんか」
*
喉の奥が、熱くなった。
軍議の扉の外で、廊下に立たされていた日のこと。
手薄な東の壁を、正規の兵ではないからと任された夜のこと。
作戦会議の隅で、口を開くことすら許されなかった日のこと。
全部、間違っていなかったのだと思う。
この人は、ずっと、筋を通していただけだった。
その筋の上に、今、自分の名前が載った。
「――構わない」
声が、少し、震えた。
「十分すぎる」
老将は、小さく頷いた。
それだけだった。踵を返し、何事もなかったように治療所を出ていく。
戸口で、一度だけ、足を止めた。
「――病人への聞き取りは、日が落ちるまでにしておけ」
「……はい」
戸が、閉まった。
ロゼリアが、雷夕を見た。
雷夕も、ロゼリアを見た。
「――日が落ちるまでは、いいってことよね」
「そうじゃねえだろ!」
*
その夜。
治療所の灯りが、一つ、また一つと落とされていった。
ロゼリアは、雷夕の寝台の脇の椅子で、帳面を抱えたまま眠り込んでいた。
書きかけの頁には、矢印と、走り書きの数字と、「重撃→?」「軽? 速?」「戻り=一斉」という文字が、びっしりと踊っていた。
隣の寝台で、ケインが、低く言った。
「――リヴァール殿」
窓際の椅子で、剣の手入れを続けていたリヴァールが、顔を上げた。
「一つ、聞いてもいいか」
「何だ」
「あなたが探していたものは、見つかったのか」
*
研ぎ石の音が、止まった。
雷夕は、寝台の上で、目だけをリヴァールに向けた。
廃坑で。
初めて会った夜に、「個人的な用件だ」とだけ言った男。
帰り道で、「まだ、何も掴めていない」と言い残して、雑踏に消えた男。
リヴァールは、しばらく、手の中の研ぎ石を見つめていた。
それから、懐に手を入れた。
*
取り出されたのは、紙の束だった。
紐で括られ、端が黒く焼け焦げている。
何度も開いては閉じたのだろう。折り目は擦り切れ、角は丸く潰れていた。
「――あの廃坑で、見つけた」
リヴァールは、束を膝の上に置いた。
「バルクの溜め込んでいた財宝の箱の、底にあった。あいつが国境軍を抜ける時に、金になると思って持ち出した書類だろう。軍の移送記録だ」
「移送記録?」
「誰を、どこへ送ったか。――半分は焼けていた。残りは、国境軍の符牒だらけだった」
研ぎ石を、脇に置く。
「あの時、何も掴めていないと言ったのは、嘘じゃない。読めなかった。読めるようになるまで、思ったより、手間がかかった」
*
「何が、書いてあった」
雷夕が、掠れた声で聞いた。
リヴァールは、束の一枚を、指先でめくった。
焼け焦げた端。
その横に、かろうじて読み取れる、数行の文字。
「――ヨアヒム・ガルトナー」
その名前を口にする時だけ。
抑揚のない、あの低い声が、ほんの僅かに、揺れた。
「俺が、騎士団にいた頃の、上官だ」
*
「剣の振り方より先に、剣を振らずに済ませる方法を考えろ、と言う人だった」
リヴァールは、窓の外を見ていた。
「騎士団の中で、あの人だけが、そう言っていた。……帝国の中にも、戦を終わらせたいと思っている者がいる。武力で全てを呑み込むやり方とは、別の道を探している者がいる。――あの人は、その一人だった」
ケインが、静かに息を呑んだ。
「ある日、あの人は消えた。任地を移ったとだけ聞かされた。どこへ、とは誰も言わなかった。――言えなかったんだろう」
「だから、あんたは」
「探した。騎士団を抜けてからも、ずっと」
*
リヴァールの指が、焼け焦げた紙の上の、一行をなぞった。
「罪状、和平派との内通。――移送先、北の要塞」
声は、もう揺れていなかった。
「帝国の北にある、監獄だ。強硬派が、邪魔な者を放り込む場所だと、騎士団にいた頃に噂だけは聞いていた」
「和平派との、内通……」
雷夕は、その言葉を、口の中で転がした。
「――つまり」
「つまり、帝国の中に、和平派と呼ばれる連中が、確かにいる。強硬派が、わざわざ罪状にして人を閉じ込めるほどにはな」
リヴァールは、紙の束を、ゆっくりと括り直した。
「そして、あの人は――少なくとも、この記録が書かれた時には、生きていた」
*
治療所の中に、静けさが落ちた。
ロゼリアの寝息だけが、小さく続いていた。
雷夕は、天井を見ていた。
(――あの男も)
アルブレヒトの顔が、浮かんだ。
秩序の為に、村を焼いた男。
それを否とは言わずに、それでも、剣を構えた男。
退く時に、焼け残った家の戸を、一つ残らず閉めていった男。
あの男もまた、帝国の中にいる。
帝国は、一枚岩じゃない。
旗の色一つで、敵と味方を分けられるほど、単純なものではないのだ。
*
「――で」
雷夕は、首だけを、リヴァールの方へ傾けた。
「助けに行くんだろ」
リヴァールが、こちらを見た。
「北の要塞にいるって分かってて、あんたが黙って剣を研いでるわけない」
「……すぐには行かん」
リヴァールは、括り直した束を、懐へ戻した。
「要塞の場所も、まだ正確には分からん。一人で乗り込んで、どうにかなる場所でもない。――それに」
僅かに、口の端が動いた。
「この砦の連中を放って行けば、連携が乱れる」
*
雷夕は、吹き出した。
吹き出して、脇腹の痛みに呻いた。
「――それ、もう三回目だぞ」
「気に入っている」
「知ってるよ!」
隣の寝台で、ケインが、低く笑った。
縛り付けられた布紐が、ぎしりと鳴った。
「その時が来たら、声をかけてくれ、リヴァール殿。――片腕でも、足は止めん」
「……覚えておく」
リヴァールは、また、研ぎ石を手に取った。
しゃり、しゃり、と。
規則正しい音が、夜の治療所に、静かに戻ってきた。
*
雷夕は、目を閉じた。
体は、まだ、鉛のように重かった。
それでも、不思議と、嫌な重さではなかった。
(――数えに、入れてもらえたしな)
窓の外では、修復の槌の音が、夜になっても、まだ途切れずに続いていた。
その音を聞きながら、雷夕は、ゆっくりと眠りに落ちていった。




