第18話 旗の色、人の顔
天幕の中に、焦げた匂いが残っていた。
卓の上の燭台は、半ばまで蝋を溶かしている。
揺れる炎が、広げられた地図の上に、歪んだ影を落としていた。
レイフ砦。
崩れた東の外壁。
その脇腹――南の林道に、新しく引かれた一本の赤い線。
「――騎兵、およそ八百」
クラウスの声は、低かった。
泥の跳ねた外套を脱ぐ間もなく、天幕に入ってきたのだろう。肩口の鎧の継ぎ目には、乾いた血がこびりついている。
「イヴァルキアの旗を掲げていました。王都からの援軍と見て、間違いありません。先頭にいた一騎が――」
言葉が、そこで一度、詰まった。
「盾の列を、剣の一振りで、まとめて」
「聞いている」
アルブレヒトは、地図から目を上げなかった。
*
白髪の交じる前髪が、一筋、額に落ちていた。
彼はそれを指先で払い、それから、鎧の肩当ての留め紐を、ゆっくりと締め直した。
戦場から戻って、まだ一度も外していない鎧だった。それでも、その留め紐は、一分の緩みもなく揃っていた。
「損害は」
「死者、百を超えました。負傷者は、その倍以上。破城槌は放棄」
「補給は」
「先日焼かれた分の穴が、まだ埋まっていません。今の兵数を養えるのは――」
クラウスが、唇を噛んだ。
「――持って、十日かと」
*
沈黙が、落ちた。
燭台の芯が、じじ、と小さく鳴る。
「――閣下」
クラウスが、一歩、前へ出た。
「一度、シュテルン村まで退くべきです。援軍が着いた以上、時は向こうの味方です。本国に増派を求め、態勢を整えてから――」
「本国の増派が、十日で届くか」
「……それは」
「届かん。届いたとしても、その頃には、あの砦の壁は塞がっている。今日開いた穴は、今日の内にしか突けん」
アルブレヒトは、地図の上に、指を置いた。
崩れた東の外壁。
その奥の、第二防壁。
「夜明けと共に、総攻撃をかける。手元に残る兵、全てでだ」
*
クラウスの顔から、血の気が引いた。
「全て、ですか」
「全てだ」
「――ならば、せめて閣下は本陣に」
「クラウス」
静かな声だった。
叱りつける響きはない。けれど、それ以上の言葉を許さない、硬い芯が通っていた。
「私は、同じ壁に、三度、兵を送った」
指先が、地図の上の一点を、とん、と叩く。
「三度とも、命じたのは私だ。三度とも、死んだのは彼らだ」
燭台の炎が、揺れた。
「四度目は、私が行く」
*
クラウスは、何かを言いかけて――結局、深く頭を下げた。
「……御意」
天幕を出ていく背中を見送ってから、アルブレヒトは、卓の脇に立てかけてあった長剣を手に取った。
鞘から、半ばまで抜く。
装飾のない、幅広の刃だった。
いくつもの戦場をくぐり抜けてきた鋼には、研いでも消えない細かな傷が、無数に刻まれている。
(――秩序の、為に)
刃に映る自分の顔を、彼はしばらく見つめていた。
それから、音もなく、剣を鞘に納めた。
*
ドン――。
ドン――。
ドン――。
夜明け前の冷えた空気を、太鼓の音が、一つずつ、重く叩いた。
レイフ砦の第二防壁の上で、雷夕は、その音で目を開けた。
壁にもたれたまま、いつの間にか眠っていたらしい。
肩に掛けられていた毛布が、ずるりと膝に落ちる。誰が掛けたのかは、分からなかった。
(――昨日までと、違う)
音が、遅かった。
行軍を急かす速い拍子ではない。一歩、また一歩と、踏みしめるような。地の底から這い上がってくるような。
隣で、リヴァールが、既に立ち上がっていた。
「――起きたか」
「今の太鼓、何だ」
リヴァールの横顔は、硬かった。
「総掛かりの打ち方だ」
*
物見櫓の篝火は、もう灰になりかけていた。
その消えかけた灯りの向こう。
崩れた東の外壁の、さらに先――丘の麓に、帝国軍が並んでいた。
昨日の、途切れない帯ではなかった。
並んでいた。
一列の乱れもなく。盾の縁と縁を揃え、槍の穂先の高さまで揃えて。
まるで、丘の麓に、黒い鋼の壁がもう一枚、新しく建てられたかのように。
そして、その壁の――最前列の、ちょうど中央に。
一本の旗が、立っていた。
*
「――将旗、だな」
老将が、いつの間にか、雷夕のすぐ横に立っていた。
深い皺の刻まれた顔は、昨夜よりも、さらに一回り痩せて見えた。
それでも、目だけは、少しも濁っていなかった。
「将が、自ら前に出てきた」
「それって」
「この一戦で、終わらせる気だ」
老将は、短く息を吐いた。
「――昨日の援軍で、時はこちらに傾いた。あの男は、それを分かっている。分かっているから、傾き切る前に、全てを賭けに来た」
*
「将が前に出るってのは」
雷夕は、黒い鋼の壁の中央を見つめたまま、呟いた。
「――普通、危ないんじゃないのか。大将がやられたら、終わりだろ」
「危ない」
答えたのは、リヴァールだった。
「だからこそ、効く」
「効く?」
「将が先頭に立つ軍は、退けない。将を置いて逃げる兵はいない。――あの壁は、昨日のようには崩れない」
リヴァールの指が、剣の柄の上で、ゆっくりと握り込まれた。
「昨日のは、隊の戦だった。今日のは、あの男の戦だ」
*
ロゼリアが、階段を駆け上がってきた。
両腕に、何かを抱えている。
細い木箱が三つ。それに、麻袋が一つ。
「――油瓶、五本。夜通し、厨房の脂と灯り油をかき集めて詰め直した。質は落ちるけど、燃えはする」
「寝てないのか」
「あんたも寝てないでしょ。壁にもたれてたのを寝たとは言わない」
「寝てたって」
「いびきかいてたもの」
「――かいてねえ!」
ロゼリアは、ふん、と鼻を鳴らして、麻袋を雷夕の胸に押しつけた。
中で、楔と小槌が、がちゃりと鳴った。
「門の補強用。昨日、何本でも打たせてやるって言ったでしょ。――打たせてもらうから」
その指先が、僅かに震えているのを、雷夕は見なかったことにした。
*
ケインは、治療所に寝かされていた。
それを聞いた時、雷夕は、少しだけほっとした。
左腕を吊ったまま、最後まで「足は止めん」と言い張る男だ。誰かが力ずくで寝かせなければ、また壁の上に立っていただろう。
「縛り付けてきた」
ロゼリアが、事もなげに言った。
「……比喩だよな?」
「比喩よ。半分は」
*
ドン――。
太鼓が、止んだ。
一瞬の、完全な静寂。
風の音すら、聞こえなかった。
そして――。
――オオオオオオオオオッ!!
黒い鋼の壁が、動いた。
*
速くは、なかった。
駆けてはこない。
一歩、一歩。盾を揃えたまま、隊列を一切崩さずに、ただ、前へ。
崩れた東の外壁を越え、瓦礫帯を踏み越え、第二防壁へ。
「――射て!」
老将の号令。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ――!
壁の上から、矢が降り注ぐ。
カカカカカッ――!
だが、その音は、肉を穿つ音ではなかった。
揃えて掲げられた盾の屋根が、矢の雨を、乾いた音を立てて弾いていく。
数人が倒れた。
倒れた穴は、すぐに後ろの兵が埋めた。
黒い壁は、止まらなかった。
*
「――南、騎兵! 出せ!」
援軍の騎兵隊が、昨日と同じ南の林道から、帝国軍の側面へ回り込もうと駆け出していく。
だが。
帝国軍の側面が、ぐるりと向きを変えた。
長槍。
地面に石突きを突き立て、斜めに構えた穂先が、林道の出口に向けて、針の山のように並んでいた。
(――読まれてる)
昨日、裂かれた場所だった。
同じ場所を、二度、裂かせる気はない――そう言われている気がした。
騎兵の先頭が、手綱を引く。
突っ込めば、馬ごと串刺しになる。止まった騎兵の列へ、帝国軍の弓が向けられた。
*
「――リヴァール!」
雷夕が振り返った時には、もう、彼は階段を駆け下りていた。
「門の内で待つ。壁を越えてくる奴は、俺が叩き落とす」
「騎兵の方は!」
「あれは、俺一人が行っても崩れん」
振り返りもせず、言い捨てる。
「――昨日の手は、もう一度は通らない。そういう相手だ」
*
梯子が、掛かった。
一基。
二基。
十基。
数えるのを、やめた。
雷夕は、剣を抜いて、梯子の一つへ走った。
最初に顔を出した兵の盾を、蹴り落とす。
二人目の槍を、払う。
三人目――。
ザンッ――!
肩口を斬られた兵が、悲鳴を上げて、梯子ごと仰け反っていく。
(――次!)
隣の梯子では、ロゼリアが、詰め直した油瓶の口に火を移していた。
「――どいて!」
投げる。
ボッ――!
脂の焦げる、重く甘ったるい匂い。
炎は、昨日の油瓶よりも、ずっと小さかった。それでも、梯子の上の兵を一人、怯ませるには十分だった。
「残り、四本!」
*
壁の、少し離れた場所で。
ゴシャァッ――!!
あの音が、響いた。
門の脇。壁の一角が崩れかけて低くなっていた場所から、帝国兵が雪崩れ込もうとしていた。
その最前列が、まとめて、外へ向かって吹き飛んでいた。
リヴァールだった。
崩れた石の上に、一人、立っている。
長剣を振り抜いた姿勢のまま、肩で息をしていた。
――ゴシャァッ!!
二振り目。
雪崩れ込もうとしていた兵の第二列が、また、瓦礫ごと弾き飛ばされる。
だが、三列目は――。
盾を、二枚重ねにしていた。
*
ゴッ――!
鈍い音。
吹き飛んだのは、二枚の盾の、前の一枚だけだった。
後ろの一枚を構えた兵は、膝をつき、ずるずると後ろへ押し戻されながらも――倒れなかった。
その兵の背中を、さらに後ろの兵が、両手で支えていた。
(――受け方まで、もう覚えさせてやがる)
一晩で。
たった一晩で、リヴァールの重撃を「受ける」ための並び方を、兵に叩き込んできたのだ。
雷夕の背筋を、冷たいものが這い上がった。
*
その時だった。
帝国兵の列が、左右に割れた。
割れた隙間を、一人の男が、ゆっくりと歩いてきた。
*
鎧は、他の兵と、さして変わらなかった。
飾りの羽根もない。金の縁取りもない。
ただ、その鎧は――どこにも、乱れがなかった。
戦場の只中を歩いてきたはずなのに。
留め紐の一本、肩当ての角度一つ、何一つ、ずれていなかった。
白髪の交じった短い髪。
深く刻まれた眉間の皺。
右手に提げた、装飾のない、幅広の長剣。
周りの兵たちが、その男の背中を見た瞬間、目の色を変えた。
怯えていた目が、据わる。
退きかけていた足が、止まる。
――この男が、ここに立っている。
ならば、自分たちも、退くわけにはいかない。
言葉にしなくても、そう聞こえた。
*
男は、崩れかけた壁の一角――リヴァールが守っていた場所の、すぐ手前で、足を止めた。
リヴァールが、剣を構え直す。
男は、リヴァールを一瞥した。
それから、その後ろ――壁の上から身を乗り出していた雷夕へと、視線を移した。
目が、合った。
静かな目だった。
怒りも、憎しみも、そこにはなかった。ただ、測っていた。秤の皿に、何かを載せるように。
*
「――東の壁で」
低い声だった。
戦場の喧騒の中で、不思議なほど、はっきりと通った。
「火を、氷に変えたのは――お前か」
雷夕の喉が、ひくりと鳴った。
(――こいつが)
聞いたことのない声だった。
見たことのない顔だった。
それでも、分かった。
二度、同じ壁を、同じように試した手。
補給路を焼かれても揺らがず、倍の兵を、さらにその先まで送り込んできた手。
負けた時の引き方まで、一分の乱れもなかった、あの軍の――。
「……だったら、何だ」
答えた声が、思ったより、掠れていた。
男は、僅かに顎を引いた。
「アルブレヒト・フォン・リンデン。この軍を預かっている」
*
雷夕は、壁から飛び降りていた。
脇腹の傷が、着地の衝撃で、焼けるように疼いた。
構わなかった。
リヴァールの隣に、並ぶ。
「――霧島雷夕。傭兵だ」
「傭兵」
アルブレヒトの眉が、ほんの僅かに動いた。
「イヴァルキアの兵ではないのか」
「違う。どこの国の兵でもない」
「では、何の為に、ここに立っている」
*
問いと同時に、アルブレヒトが、踏み込んでいた。
速くはなかった。
リヴァールの剣と同じ。目で、十分に追える速さ。
だが。
(――どこに、避けても)
逃げ場が、なかった。
右へ躱せば、二の太刀が待っている。左へ躱せば、壁に追い詰められる。退けば、間合いを詰められる。
ただ真っ直ぐに振り下ろされる一太刀が、全ての逃げ道を、先に塞いでいた。
ガギィンッ――!!
受けるしかなかった。
両手で握った剣に、ずしりと重い衝撃が落ちてくる。
リヴァールの重撃のような、桁外れの重さではない。それでも、腕の骨の芯まで、じんと痺れた。
(――何年、剣を振ったら、こうなるんだよ)
*
「――雷夕!」
リヴァールが、横から斬りかかろうとした。
その前に、帝国兵が三人、割って入った。
二枚重ねの盾。その後ろで、槍を構えた兵。
「――ちッ!」
ゴシャァッ――!!
重撃が、盾を一枚、吹き飛ばす。
二枚目が、軋みながら、それを受け止める。
リヴァールの足が、止められていた。
アルブレヒトは、そちらを見もしなかった。
部下が、そうすると、知っていたのだ。
*
鍔迫り合いの向こうで、アルブレヒトの目が、雷夕を見下ろしていた。
「答えろ」
静かな声のまま。
剣にかかる重さだけが、じわじわと増していく。
「国の兵でもない者が、何の為に、他人の国の壁を守る」
「――恩だよ」
歯を食いしばりながら、雷夕は吐き出した。
「この国の領主に、命を救われた。だから、返してる。……それだけだ」
「恩か」
アルブレヒトの目に、何かが揺れた。
嘲りではなかった。むしろ、何かを確かめるような。
「ならば、聞け。恩を返すべき相手は、その領主一人か」
剣が、押し込まれる。
雷夕の膝が、僅かに折れた。
*
「――私の生まれた村は」
鍔と鍔が擦れ合う、耳障りな音の中で。
アルブレヒトは、まるで天幕の中で地図を前にしているかのような、平らな声で語った。
「帝国に併呑されるまで、名も知れぬ小領主どもの奪い合いの場だった。毎年のように隣村と刃を交え、毎年のように家が焼けた。誰も、それを終わらせなかった。終わらせる力を持つ者が、いなかった」
ギ、ギギ――。
「帝国の旗が立った年に、それは終わった」
剣が、さらに重くなる。
「道が通り、水が引かれ、税は掟の下に定められた。――私の村に、二度と、隣村の兵は来なかった」
*
「お前の言う領主が、この国を守り切ったとしよう」
アルブレヒトの目が、すぐ目の前にあった。
「その先に、何がある。小国が小国のまま、隣と睨み合い、また次の戦を待つだけだ。十年後か、二十年後か。――その時に焼かれるのは、今日お前が守った壁の向こうの、子供たちだ」
雷夕は、何も言い返せなかった。
言い返す言葉を、持っていなかった。
(――そういう考え方も、あるのか)
この男は、嘘をついていなかった。
本気で、そう信じていた。本気で、自分の剣が、誰かの未来の家を焼かせない為にあると――そう信じて、今、ここに立っていた。
*
だが。
雷夕の頭に、浮かんだ顔があった。
*
砦へ向かう、街道の途中。
軋みを上げて東へ逃れていく、荷車の列。
泥と土埃にまみれた、一人の幼い少女。
雷夕の腰の剣を、一瞬だけ見て――。
すぐに、諦めたように、目を逸らした。
*
「――じゃあ」
雷夕は、歯を食いしばった。
膝に、力を込める。
押し込まれていた剣を、ほんの僅か、押し返す。
「その秩序ってやつの為に――シュテルン村を、焼いたのか」
*
アルブレヒトの剣が。
一瞬だけ、止まった。
ほんの、一瞬。
鍔迫り合いの重さが、針の先ほど、緩んだ。
雷夕は、それを見逃さなかった。
――ギィンッ!!
剣を、跳ね上げる。
アルブレヒトが、半歩、退いた。
初めて、自分から間合いを開けた。
*
「――焼いた」
アルブレヒトの声は、変わらなかった。
平らで、静かで、揺るがなかった。
けれど、その答えが出てくるまでに――ほんの僅か、間があった。
「命じたのは、私だ。それを、否とは言わん」
「来る途中で、見たんだよ」
雷夕は、剣を構え直した。
肩で息をする。
脇腹の傷が、また開いたのが分かった。生温かいものが、服の内側を伝っていく。
「荷車に乗せられて逃げてく子供を。……俺の剣を見て、すぐに目を逸らした。こんな奴らが来たって、どうせ何も変わらないって顔で」
*
「俺は、どこの国の人間でもない」
自分でも、何を言おうとしているのか、よく分からなかった。
ただ、言葉が、勝手に喉を押し上げてきた。
「だから、旗の色なんかで、どっちが正しいかは決められない。あんたの国の旗が立ったら、あんたの村は救われたんだろ。それは、本当なんだろ。――でもな」
剣先が、震えた。
疲れのせいではなかった。
「俺が決めるのは、旗の色じゃない。目の前で泣いてる奴の、顔だ」
*
「十年後の子供の為に、今日の子供の家を焼くってんなら」
雷夕は、真っ直ぐに、アルブレヒトを見た。
「――俺は、今日の子供の方に立つ」
*
風が、吹いた。
戦場の煙が、二人の間を、細く流れていった。
アルブレヒトは、しばらく、何も言わなかった。
その目が、雷夕の顔を、じっと見ていた。
測っていた目ではなかった。何か、遠くのものを――ずっと昔に置いてきた何かを、見ているような目だった。
やがて。
「――そうか」
短く、それだけを言った。
*
「お前の言うことは、間違ってはいない」
アルブレヒトは、ゆっくりと、長剣を構え直した。
両手で握り、切っ先を、真っ直ぐに雷夕の喉元へ。
一分の乱れもない、教本のような構えだった。
「だが、私の言うことも、間違ってはいない」
「……ああ」
「ならば、どちらが立っているかで、決めるしかない」
静かな声だった。
その声に、迷いは、もうなかった。
*
雷夕は、剣を握り直した。
汗と血で、柄が滑る。
脇腹から流れる血が、ズボンの腿まで染みていく。
腰帯の内側で、捻じ込んだ革袋の中の石が、ごつりと腹に当たった。
(――まだ、だ)
使わない。
まだ、使わない。
この男に、劣化が通じるのかどうかも、分からない。
化けた結果が、この男を止めるのか、それとも自分ごと壁を吹き飛ばすのかも、分からない。
分かっているのは、ただ一つ。
ここで退けば、この男の後ろにいる何千という兵が、壁を越えてくる。
*
背後で、ゴシャァッ、と重撃の音が鳴った。
壁の上で、ロゼリアの叫び声が聞こえた。
遠くで、援軍の角笛が、もう一度、鳴った。
その全てが、遠かった。
目の前にいるのは、一人だけだった。
*
「――来いよ」
雷夕は、低く構えた。
アルブレヒトの切っ先が、ほんの僅かに、沈んだ。
二人の間の、たった数歩の距離に。
戦場の全ての音が、吸い込まれていった。




