第16話 零れた、勝算
丘の稜線を、黒い帯が覆っていた。
老将の呟きは、短かった。
「――来た」
安堵はない、と言ったはずの声に、まだ余裕があったことを、雷夕はその数秒後に知った。
*
「数を、報告します」
伝令の声が、物見櫓に駆け上がってくる。
「斥候の見立てでは……前回の、倍以上」
「分かっている。倍の規模だと、報せは受けている」
老将が、遮った。
「それは、折り込んでいる」
「いえ」
伝令の息が、乱れたままだった。
「倍の、さらに向こう側です。丘の裏に、まだ隊列が続いています」
*
老将の目が、僅かに細くなった。
雷夕も、丘の方を見た。
黒い帯は、途切れなかった。
稜線の向こうから、次々と、新しい列が姿を現してくる。
(――終わらない)
数えようとした指が、途中で止まった。
意味が、なかった。
*
「読みを、外したか」
老将の声に、初めて、硬さが混じった。
「アルブレヒトが、増やしたか。あるいは――」
「あるいは?」
「別の部隊まで、寄せ集めたか」
拳が、物見櫓の縁を強く握った。
「どちらでもいい。来る数が、こちらの備えを超えている。それだけが、事実だ」
*
号令が、飛んだ。
「瓦礫帯、伏せたままで待て! 先頭の列を引き込むまで、動くな!」
兵たちの返事が、張った声で返る。
震えは、聞こえなかった。
震えを隠すだけの意地が、まだ残っていた。
*
雷夕は、剣を握り直した。
隣で、ロゼリアが最後の油瓶を数えていた。
「――三本」
「少ないな」
「昨日、全部使ったんだもの」
彼女の声は、努めて平静だった。
「蓄魔石は」
「残り、一つ」
「使う気か」
「使わない」
即答だった。
「一つしかないものを、今から使う理由がない。もっと、無くなってからの話よ」
*
ケインが、肩を押さえながら歩み寄ってくる。
包帯の上から、新しい布が巻かれていた。
「無理するな」
「無理は、していない」
いつもの、少し硬い声だった。
「動かせる方の肩だ。剣は、振れる」
「足は」
「止めん」
短い答えに、雷夕は、何も言わなかった。
言う必要が、なかった。
*
太鼓が、丘の向こうから響いてきた。
ドン、ドン、ドン――!
先頭の列が、崩れた外壁へ向けて進み始める。
修復の緩い箇所――わざと見せている箇所へ、迷いなく向かっていた。
(――食いついてる)
計算どおりの動きだった。
そこまでは。
*
梯子が、壁に掛かる。
一基、二基、三基――。
「――今だ!」
号令と同時に、第二防壁の上から、矢の雨が降った。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ――!
遅れて、瓦礫の陰に伏せていた兵が、一斉に立ち上がる。
剣を抜き、梯子に取り付いていた敵の側面へ、斬り込んでいった。
先頭の列が、面白いほど崩れていく。
梯子が倒れ、兵が転がり落ちる。
歓声が上がりかけた。
*
その歓声は、長くは続かなかった。
崩れた先頭の列の向こうから、次の列が、既に距離を詰めていた。
崩れた仲間を踏み越えて、進んでくる。
「――速い!」
誰かが叫んだ。
瓦礫帯に潜んでいた兵の位置は、もう隠れていなかった。
一度、姿を晒して斬り込んだ以上、二度目の奇襲は無かった。
*
「構わん、続けろ!」
老将の声が、怒鳴り声に変わる。
「隠れる利は、もう無い! 押し切る気で防げ!」
瓦礫帯の兵が、構えを変える。
奇襲の構えから、真正面の構えへ。
隠れる戦いから、立ち向かう戦いへ。
*
雷夕は、瓦礫の陰を出た。
目の前に、敵兵の一団。
数えるのは、もうやめていた。
踏み込む。
払う。
躱す。
三拍で、一人。
血の匂いが、すぐに鼻の奥を満たした。
*
「――ぐぅっ!」
ケインの呻き声が、背後から聞こえた。
振り向けば、傷ついた肩を庇いながらも、剣は止めていなかった。
倒れた敵兵の上に、彼の剣が、確かに残っていた。
「言った、とおりだ」
息を切らしながら、彼が呟く。
「足は、止めん」
*
ロゼリアの油瓶が、宙を舞う。
ボッ――!
橙色の炎が、敵の一角を舐める。
「残り、二本!」
叫ぶ声に、焦りが滲む。
「節約しろ、って、言われても――!」
節約できる状況ではなかった。
来る数が、こちらの消耗を上回っていた。
*
雷夕の胸の奥に、乾いた感触が、また近づいていた。
一度放った閃光――第36話の、あの薄い光。
魔力は、まだ尽きてはいない。
だが、確かに、削られている。
(――もたない)
数を相手にする戦いは、これまでと、質が違った。
一人を倒す力があっても、その倍の数が、すぐに次の位置を埋めてしまう。
*
「東側、崩れる! 第三の梯子が、突破された!」
伝令の声が、悲鳴に近かった。
老将の視線が、瞬時に動く。
「増援を回せ!」
「もう、回せる数が……!」
言葉が、途切れた。
*
丘の向こうから、まだ、新しい列が現れていた。
途切れることのない、黒い帯。
老将は、崩れていく外壁の向こうを見つめたまま、低く呟いた。
「――読みを、外した」
その声には、悔恨も、言い訳も、なかった。
ただ、事実だけが、乗っていた。
*
「下がれ! 瓦礫帯を捨てて、第二防壁へ!」
号令が、再び飛ぶ。
二度目の、同じ命令だった。
だが、今度は、違った。
退く先が、もう、そう遠くまで残っていなかった。
*
雷夕は、剣を握ったまま、後退する兵の列に加わった。
脇腹の、まだ塞がっていない傷が、疼く。
ロゼリアは、最後の油瓶を投げ切り、空になった手で剣を抜いていた。
ケインは、肩を押さえながらも、誰より最後まで、剣を振り続けていた。
*
第二防壁の門が、軋みながら開いていく。
駆け込む兵の列は、前回よりも、少なかった。
門の外に、まだ何人かが、取り残されていた。
「――待て!」
雷夕は、足を止めそうになった。
だが、その手を、ロゼリアが掴んだ。
「行くしかない。戻れば、二人とも、死ぬだけ」
正しい言葉だった。
正しいだけに、何も返せなかった。
*
ガコンッ――!
閂の落ちる音が、響く。
門の外で、まだ戦っていた兵の声が、やがて聞こえなくなった。
*
第二防壁の内側、崩れ落ちるように座り込んだ雷夕は、剣を握ったまま、丘の方を見ていた。
黒い帯は、まだ、動いていた。
途切れる気配は、どこにもなかった。
老将が、壁の上から、低く呟いた。
「――まだ、来るぞ」
誰も、何も言えなかった。




