第15話 灯、上がる
霧が、濃かった。
足音を殺すためではなく、霧そのものが音を吸っているようだった。
沢筋を抜ける列の先頭で、老将配下の案内役が、無言で手を上げる。
止まれ、の合図だった。
*
「……静かだな」
囁くような声で、ケインが言った。
「静かすぎる、とは思わないか」
「思う」
雷夕は、腕輪に収まった二つの蓄魔石を、服の上から確かめた。
硬い感触が、確かにそこにあった。
「けど、静かな方がいい。今日だけは」
*
涸れ川の浅瀬は、マルタの証言どおりの場所にあった。
半ば崩れた石橋。迂回するための、浅く均された渡り道。
その脇の雑木林に、別働隊は伏せていた。
「――来る」
先頭の斥候が、低く告げる。
荷馬車の軋む音が、霧の向こうから聞こえてきた。
ギシッ、ギシッ――。
聞き覚えのある音だった。
誰かの逃避行の記憶の中で、幾度も繰り返された音。
その同じ音を、今、自分たちが待ち伏せている。
*
隊列は、六台の荷馬車と、護衛十数名だった。
数を、ロゼリアが指先だけで数える。
「……少ない」
「油断してる、ってことか」
「油断というより」
彼女は、首を振った。
「補給線の奥深くまで来てる自覚、ってやつよ。ここまで届かれるとは、思ってない」
その読みは、正しかった。
*
号令は、短かった。
「――今だ」
油を撒いた荷の一台目に、火矢が飛ぶ。
ボッ――!
炎が、濡れた霧を割って立ち上がった。
護衛の反応は、遅かった。
「て、敵襲――!」
叫ぶ間もなく、雷夕たちは既に動いていた。
*
剣が、鞘を離れる。
踏み込む。
払う。
躱す。
三拍で、一人。
護衛の数は少なく、統制も薄い。
数で押し切るつもりなら、この程度の兵では止められない。
「もう一台、焼くぞ!」
ロゼリアの投げた油瓶が、二台目の荷に命中する。
ボオッ――!
橙色の光が、二つに増えた。
*
(――あっさり、いく)
雷夕は、剣を振るいながら、その感触に違和感を覚えていた。
想定より、遥かに楽だった。
楽すぎることが、むしろ胸の奥を冷やした。
(――考えるのは、後だ)
今は、手を止める時ではなかった。
*
三台目、四台目と、炎が広がっていく。
護衛の半数が崩れ、残りが背を向けて散っていく。
「退くぞ! 残りは火を回すだけでいい!」
別働隊の指揮を預かる老兵が、声を張る。
全員が、その声に応じて動き始めた瞬間だった。
*
「――後ろだ!」
ケインの声が、裂帛と響いた。
雑木林の奥から、別の一団が現れていた。
数は、十数名。
先に見た護衛とは、鎧の艶が違う。
(――増援)
想定していなかった数だった。
マルタの証言には、無かった存在。
毎日の輸送には護衛がいる。だが、今日だけ――何かが違う。
*
「囲まれる前に、抜けるぞ!」
老兵の声が飛んだ瞬間、矢が降ってきた。
ヒュンッ、ヒュンッ――!
一人が、脇腹を押さえて膝をつく。
「――くそ!」
雷夕は、剣を握り直した。
退路を塞ぐ位置に立つ敵の一人。
鍬形の槍を構えている。
その穂先に、青白い光が集まっていくのが見えた。
(魔法兵――!)
*
反応は、考えるより先だった。
『劣化』が、応えようとする。
槍から放たれた雷光が、空気を灼く寸前――色が、変わった。
青から、白へ。
パアッ――!
閃光が、一帯を薄く染める。
視界を奪われた兵が数人、たたらを踏んで崩れた。
「――効いてる、けど」
ロゼリアの声に、安堵よりも緊張が先に滲んでいた。
「薄い! 前より、ずっと薄いわよ!」
*
薄い光は、長くは視界を奪わなかった。
二人、三人と、兵が立て直してくる。
(――次)
胸の奥に手を伸ばす。
いつもの、乾いた感触。
空っぽの器の底。
劣化は、もう応えなかった。
一度の閃光で、持っていかれていた。
*
「雷夕、腕輪!」
ロゼリアの叫びが、耳に飛び込んだ。
指が、留め具に触れる。
蓄魔石が、そこにあった。
二つしかない、未検証の一手。
(――ここで、使うのか)
迷う時間は、無かった。
目の前で、ケインが膝をついていた。
肩から、鮮血が噴いていた。
「ロゼリア、使う!」
叫び声に、応える余裕はなかった。
彼女が頷いたかどうかさえ、確かめられなかった。
*
石を、押し込む。
カチリ、と留め具が鳴る。
次の瞬間――
胸の奥で、何かが弾けた。
(――ッ)
空っぽだったはずの器に、流れ込む感覚。
酒を注がれたような、重く熱い流れ。
その熱が、馴染む間もなく、溢れた。
*
目の前に迫っていた敵兵の剣。
その輝きを、雷夕は確かに「見た」。
写し取る。
変質する。
次の瞬間、彼の視界は――光に、覆われた。
ドオオオンッ――!!
爆発にも似た衝撃波が、半径数十歩を薙ぎ払った。
木々が軋み、枝葉が散る。
敵兵の悲鳴が、あちこちから上がった。
*
静寂が、戻るまで数秒だった。
雷夕自身、立っているのがやっとだった。
膝が、震えている。
手のひらが、焼けたように熱かった。
「……な、なにを」
ロゼリアの声が、掠れていた。
「剣の一振りを写しただけ、よ、ね? それが、なんで――こんな」
答えは、彼にも分からなかった。
(――馬鹿な。これのどこが、"ただの剣の一振り"だ)
ただ、分かっていることは一つだった。
敵は、崩れている。
退路が、開いている。
*
「今だ――! 走れ!」
老兵の声に、全員が応じた。
ケインを支え、血を流す仲間を担ぎ、別働隊は雑木林を駆けた。
背後で、炎がまだ荷馬車を舐めていた。
橙色の光が、霧を赤く染め上げていく。
*
安全な距離まで退いたところで、ロゼリアが信号筒を取り出した。
震える手で、空へ向ける。
シュッ――。
白い光の尾が、一度。
続けて、もう一度。
二つの光が、夜明け前の空に、並んで消えていった。
――荷を、焼いた。
その意味を、砦の誰かが、きっと読み取っている。
*
砦へ戻る道中、ケインの傷は深くはなかったが、出血は多かった。
「――すまん」
息も絶え絶えに、彼は呟いた。
「足を、止めると言ったのに」
「止めてない」
雷夕は、肩を貸しながら答えた。
「お前は、膝をついた。でも、立とうとしてた。それは、止まったんじゃない」
「屁理屈だな」
「ロゼリアに、習った」
掠れた笑いが、二人の間に、短く交わされた。
*
一方――
シュテルン村、帝国軍の駐屯地。
夜明けの報告は、短かった。
「――補給隊、襲撃を受けました」
クラウスの声には、抑揚がなかった。
卓の上に、一枚の荷札が置かれる。
端が、黒く焦げていた。
「荷馬車六台、全焼。護衛は十二名中、七名が負傷。増援に出した別隊からは、死者二名、重傷四名の報告が」
「増援、だと」
アルブレヒトの眉が、僅かに上がった。
「護衛だけで片付く規模ではなかった、ということか」
「恐らくは」
クラウスの声が、硬くなる。
「生き残った兵の話では、森の中で、爆発じみた何かが起きたと。原因は分かっていません」
「狡猾な手だ」
アルブレヒトは、荷札を一度、指先でなぞった。
「読みを外させる気か、あるいは――手の内が、まだ尽きていないか」
クラウスの眉が、僅かに歪む。
「いずれにせよ、こちらに損を押し付けてきているのは確かです。補給を見捨てれば他部隊への示しがつかず、報復に出れば兵が動かされます」
*
アルブレヒトは、地図の上、涸れ川の浅瀬を見つめた。
それから、視線を、東へ――崩れた外壁へと滑らせた。
「――クラウス」
「はっ」
「お前なら、どちらを選ぶ」
問われたクラウスは、一度、言葉を探した。
「……補給を見捨てれば、他の部隊にも示しがつきません。しかし、報復に動けば――」
「向こうの、思惑通りかもしれん、とでも言うつもりか」
「はい」
アルブレヒトは、小さく頷いた。
「分かっている上で、聞いた」
静かな声だった。
「兵站を軽んじる指揮官は、長くは戦えん。それに――」
一度、言葉を切る。
「二度、同じ場所で勝った壁だ。向こうの手札が、尽きていないとは限らんが。三度目を避ける理由も、無い」
*
「東側へ、部隊を出す」
卓上の地図に、指が落とされた。
崩れた外壁、その一点。
「規模は、今までの倍だ」
クラウスが、息を呑んだ。
「それは――」
「二度で終わらせる気は、向こうにも無いだろう」
アルブレヒトの声に、迷いはなかった。
「ならば、こちらも終わらせにいく。三度目は、手加減せん」
*
陽が、ようやく昇り始めた頃。
レイフ砦、崩れた外壁の内側。
瓦礫に伏せた兵たちの間に、戻ってきた別働隊が紛れ込んでいた。
老将が、雷夕たちの元へ歩み寄る。
「――首尾は」
「焼きました。死人は、出してません」
「出血は」
「ケインが、肩を」
「手当てに回せ」
短い指示が、矢継ぎ早に飛んだ。
それから、老将は、一瞬だけ、雷夕の腕輪に目を留めた。
「――使ったか」
「使いました」
「結果は」
雷夕は、答えに迷った。
「……報告すべきだと思いますが、自分でも、何が起きたのか分かってません」
老将は、それ以上は聞かなかった。
「後で、詳しく聞く。今は、持ち場に戻れ」
*
瓦礫の陰、崩れた石の隙間に身を潜めながら、雷夕は息を整えた。
脇に、ロゼリアが並ぶ。
「――あれ、何だったんだ」
囁くように、彼は尋ねた。
「分からない」
彼女の答えは、短かった。
「でも、分かったことは一つある」
「なんだ」
「蓄魔石で注いだ魔力は、あんたの中でそのまま収まるわけじゃない」
拡大鏡の奥、彼女の目が、硬く光っていた。
「暴れる。多分、注いだ分以上に」
その言葉の重さが、雷夕の背筋を、冷たく撫でた。
*
物見櫓から、低い声が降りてきた。
「――動きがあります」
全員の視線が、丘の稜線へ向く。
霧は、既に晴れていた。
晴れた視界の先、丘の向こうに、見覚えのある隊列が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
数は、前の二度より、明らかに多い。
老将が、静かに拳を握った。
「――来た」
その一言に、安堵はなかった。
読みが当たったことへの、苦い確信だけがあった。




