第14話 反撃の形
槌の音が、朝から絶えなかった。
コン、コン、コン――。
第二防壁の上、石を積む兵たちの背中が、薄い霧の中に並んでいる。
あの夜から、四日が過ぎていた。
重傷者は後方へ送られ、ヴァルターの担架も、昨日の隊列に紛れて砦を出ていった。
残った者は、ただ黙々と、壁を積んでいる。
*
「――治りかけが、一番痒いんだよな」
脇腹の包帯を上から掻こうとして、雷夕はその手を叩かれた。
「掻くな。開くわよ」
「まだ触ってない」
「触る前に止めるのが、職人の仕事なの」
作業台から顔も上げずに、ロゼリアが言う。
その手元では、見慣れない形の何かが、布の上に転がっていた。
*
石室の戸が、無遠慮に叩かれた。
「――おられるか」
老将だった。
鎧は着けておらず、代わりに書類の束を脇に抱えている。
「三人とも、来てもらいたい」
「どこへ」
「作戦会議だ」
雷夕は、一瞬、聞き違いを疑った。
「……俺たちが?」
「席は用意した」
老将は、僅かに目を細めた。
「ただし、先に言っておくことがある」
*
渡り廊下を歩きながら、老将は前を向いたまま続けた。
「同席は許す。だが、発言は控えてもらう」
足音が、石床に反響する。
「異論を言うな、という話ではない。順序の話だ」
「……筋、ってことか」
「そうだ」
老将の歩調は、変わらなかった。
「お前たちは正規の指揮下にない。その者が作戦に口を出した、という形が一度でもつけば、他の隊長格が納得せん。納得しない命令は、戦場で必ず緩む」
「緩んだ命令で死ぬのは、兵だ」
ケインが、低く引き取った。
「分かっている口ぶりだな」
「身に染みるほど、な」
老将は、そこで初めて足を止めた。
「席を用意するのが、今の私にできる精一杯だ」
振り向いた目に、言い訳の色はなかった。
「不服か」
「――いや」
雷夕は首を振った。
四日前、廊下で待たされていた頃より、一歩だけ、扉が開いている。
それが、どれほどの重さで開いた一歩なのかは、分かるつもりだった。
*
広間に入った瞬間、空気が、僅かに固くなった。
卓を囲む隊長格の面々。その何人かが、露骨に視線を逸らす。
一人は、逸らさなかった。
「……正気ですか」
「同席のみだ」
老将が、短く断ち切る。
「意見は求めん。だが、昨夜の崩落で東側に立っていたのは、この三人だ。見ていた者を外に置いて作戦を立てる方が、私には正気に思えん」
反論は、出なかった。
納得したのではない。
今は、それより急ぐものがあると、全員が知っていた。
*
卓の上に、地図が広げられる。
レイフ砦。崩れた外壁の東側。そして、北東へ伸びる街道と、その先のシュテルン村。
老将が、脇に抱えていた書類の束を置いた。
「後方の避難民より、聞き取りが上がってきた」
紙をめくる音だけが、広間に落ちる。
「情報将校がまとめたものだ。断片ばかりだが――一つ、妙に筋の通った証言がある」
指先が、シュテルン村の東側を這った。
「村から東へ一里。涸れ川の浅瀬。石橋が半ば崩れており、荷馬車はそこを迂回して渡っているらしい」
卓の周りが、ざわりと揺れた。
「それも、毎日、ほぼ同じ刻限に」
*
(――避難民の)
雷夕は、地図の上の小さな点を見つめた。
逃げるだけで精一杯だったはずの誰かが、荷車の軋む音を、覚えていた。
その誰かの名前を、自分は知らない。
知らないまま、その一言に、今、戦の形が引っ張られている。
(戦ってるのは、俺たちだけじゃない、か)
胸の内で、そう呟くことしかできなかった。
*
「補給路だ」
隊長格の一人が、身を乗り出した。
「叩きましょう。シュテルン村に二千を抱えているなら、糧はそこを通るしかない」
「兵を割く余裕が、どこにあります」
別の声が、即座に被せる。
「東側は三分の一が崩れたままだ。今あそこから手を割けば、瓦礫を越えられて第二防壁まで一息で届く」
「ならば、座して飢えるのを待つのか。向こうが先に満腹になるぞ」
卓の上で、声が重なり、絡まる。
老将は、しばらく黙って聞いていた。
それから、地図の一点を、節の太い指で押さえた。
「――妙だと、思わんか」
声が、止んだ。
「毎日、同じ刻限だ」
*
「効率のためなら、理に合う」
老将は、ゆっくりと続けた。
「刻限を揃えれば、荷の数も、護衛の数も、無駄なく組める。あの男は、そういう軍を作る」
「……あの男?」
「二度、同じ場所を、同じ規模で試した男だ」
指が、地図の上を、崩れた外壁へと滑っていく。
「几帳面だ。気味が悪いほどに。だからこそ――もう一つの読みが消えん」
顔を上げた目に、静かな疑いが宿っていた。
「揃えているのが、効率のためではなく。こちらに、見せるためだとしたら」
*
広間が、静まった。
「罠、ということですか」
「断じはせん。確かめる術もない」
老将は、首を振った。
「だが、こちらは一度、二段構えに嵌められている。同じ手で嵌められる間抜けを、二度続けるつもりはない」
束ねた書類を、卓の端へ押しやる。
「そこで、だ」
指が二本、地図の上に立った。
一本は、涸れ川の浅瀬。
もう一本は、崩れた外壁の東側。
「補給路は、叩く。ただし――本命にはせん」
*
「別働隊を、出す」
老将の声が、広間に落ちていく。
「少数だ。三十を超えぬ軽装。荷を焼き、荷車を潰し、長居はせずに退く」
「それでは、戦果が」
「戦果は要らん」
即答だった。
「要るのは、あの男が動くことだ」
指が、浅瀬から外壁へと一直線に引かれる。
「補給を突かれれば、几帳面な男は必ず整え直す。守りを厚くするか、報復に出るか――どちらにせよ、兵が動く」
「報復に出られれば、来るのは……」
「東側だ」
老将は、迷いもしなかった。
「あの男は、効く手を二度使った。三度目を、使わん理由がない」
*
「外壁の修復は、今日から緩めろ」
「緩める、ですか」
「見えるように、緩めろ」
老将の口の端が、僅かに吊り上がった。
「崩れたままの壁は、向こうから丸見えだ。手薄に見える場所に、兵は湧いて見えん。瓦礫の陰に伏せていても、な」
卓を囲む顔が、ようやく動いた。
「――二段構えを、返すわけですか」
「向こうが教えてくれた手だ」
老将は、短く言った。
「礼は、きっちり返す」
*
話が配置に移ったところで、雷夕の喉が、動いた。
(――劣化が、使えなかったら)
四日前の、乾いた手応えが、まだ指の先に残っている。
空っぽの器の底を覗いた、あの感触。
もし作戦の芯に自分の力を置かれて、同じことが起きたら。
その時、死ぬのは――。
口を、開きかけた。
だが、渡り廊下で聞いた言葉が、先に喉を塞いだ。
発言は、控えてもらう。
雷夕は、ゆっくりと口を閉じた。
*
「――言っておく」
その直後、老将が卓越しにこちらを見た。
「この作戦に、劣化は数えに入れん」
雷夕は、思わず顔を上げた。
「出れば儲けだ。出なければ、それで崩れる組み方はせん」
老将の声は、淡々としていた。
「不確かなものを芯に据えた瞬間、作戦は作戦ではなくなる。賭けになる。賭けで兵を死なせるのは、指揮官の怠慢だ」
卓の端で、誰かが小さく頷いた。
雷夕は、言葉を探した。
探して、見つからなかった。
(――頼られてない、ってことだよな)
胸の奥が、ちくりと痛む。
それでも。
(背負わなくていい、ってことでもある)
その二つは、不思議なほど、きれいに同じ重さだった。
*
「道具について、確認したい」
老将が、視線をずらした。
「ガルシア殿」
ロゼリアの肩が、僅かに跳ねる。
「……私、発言は控えろと言われたんだけど」
「道具の仕様は、作った者しか知らん」
老将は、表情を変えなかった。
「それは意見ではない。報告だ」
卓の周りから、咎める声は上がらなかった。
ロゼリアは、一拍置いて立ち上がった。
「――なら、報告します」
*
布に包まれた何かが、卓の上に置かれる。
解かれた布の中から現れたのは、乳白色の、拳の半分ほどの石だった。
歪んだ球形。表面に、細い溝が幾筋も走っている。
「蓄魔石。魔力を溜めておく石です」
ざわめきが、広がった。
「溜める、と言われたか」
「正確には、押し込めて、蓋をするだけです」
ロゼリアの指が、溝の一本をなぞる。
「この溝が、漏れの逃げ道。魔力は本来、器から出れば散ります。散る速さを、溝の数と向きで殺してあるだけ」
「それで、どうなる」
「腕輪に嵌めれば、彼の器に流し込めます」
彼女は、雷夕の方を見なかった。
卓の上の石だけを見ていた。
「空になった器に、一回分だけ注げる。――それだけです」
*
「数は」
「二つ」
短い答えに、隊長格の何人かが唸った。
「増やせんのか」
「無理です」
ロゼリアは、きっぱりと言った。
「一つ充填するのに、炉を半日潰します。それと、私が半日潰れます」
「お前が?」
「押し込める魔力は、どこかから持ってくるしかない。私の分では、一つで打ち止め。残りは工房の予備炉から絞り出しました」
拡大鏡を額に押し上げ、彼女は初めて顔を上げた。
「作戦前までに、三つ目は間に合いません」
*
「砕けるのか」
老将が、短く問う。
「砕けます。一度使えば、終わりです」
「試したか」
「――いいえ」
ロゼリアの声が、わずかに硬くなった。
「試せば、一つ消えます。二つしかないものを、一つ減らして確かめる価値があるとは思えませんでした」
広間に、沈黙が落ちた。
「つまり、未検証のものを前線に出す、ということですな」
「そうです」
彼女は、言い逃れをしなかった。
「仕組みは間違っていません。溜まっていることも、測って確かめました。でも――注いだ魔力が、彼の中でどう振る舞うかは、分かりません」
ようやく、ロゼリアは雷夕を見た。
「あんたの器に、他人の酒を注ぐようなものよ。量は足りる。味は保証しない」
「……それ、劣化が今より暴れるかもって話か」
「かもしれない、としか言えない」
嘘のない答えだった。
「大人しくなるかもしれないし、派手に化けるかもしれない。この場で綺麗な見通しを言えたら職人として立派だけど、言えないものを言うのは、職人じゃなくて詐欺師よ」
*
老将は、しばらく石を見つめていた。
それから、顎を引いた。
「結構だ」
「……いいんですか」
「分からんものを、分からんと言える者の道具だ」
老将は、石を布に戻させた。
「分かったふりをする者の道具より、よほど信用できる」
ロゼリアが、何か言いかけて、やめた。
代わりに、短く頭を下げて座った。
耳の先が、少し赤かった。
*
配置が、読み上げられていく。
本隊は、崩れた外壁の内側、瓦礫帯に伏せる。弓兵は第二防壁の上。修復作業は日中だけ、数を減らして見せる。
別働隊は、夜明け前に砦を出て、街道を外れた沢筋を抜ける。
「――別働隊に、この三人を加える」
老将の声に、雷夕は眉を上げた。
「本隊じゃないのか」
「正規の隊列に未知数は置けん。それは、前に言ったな」
老将は、言い直さなかった。
「だが、少数の奇襲に未知数を混ぜるのは、話が別だ。向こうも読めん。読めんもので構わんのは、こちらが読まれて困らん場所だけだ」
理屈は、通っていた。
通っている分だけ、文句の言いようがなかった。
「合図は」
ケインが問う。
「ガルシア殿が持ってきた信号弾を使う」
老将が、地図の浅瀬を指した。
「荷を焼いたら、白を二発。退くだけなら、白を一発」
「赤は、使わんのですか」
「赤は、砦の中で増援を呼ぶ色だ」
老将は、短く首を振った。
「意味を二つ持たせた合図は、必ずどこかで取り違えられる。――本隊は、白の二発を見てから伏せに入る」
*
広間を出ると、廊下の空気が冷たかった。
「……発言権、三回くらい奪われたわね」
ロゼリアが、布に包んだ石を抱え直しながら呟く。
「一回は喋ってたぞ」
「報告は発言じゃないんだって。屁理屈よ」
「助かる屁理屈だ」
雷夕が笑うと、彼女は鼻を鳴らした。
「そりゃ、屁理屈でも道が通ればいいのよ。職人なんだから」
*
中庭では、修復作業が、昼前に打ち切られていた。
石を積みかけた足場が、途中で放り出されている。
その前に、見覚えのある若い兵が立っていた。
「……これ、わざとなんだよな」
「らしいな」
「変な気分だ」
兵は、積みかけの壁を見上げた。
「崩れたままにしておくのが、仕事になるなんてさ」
「ちゃんと積み直す。後で」
雷夕は言った。
「俺が、積み直すのに加わる。約束する」
「約束って」
兵が、少し笑った。
「帰ってこなきゃ、守れないやつだぞ、それ」
「だから、帰るんだよ」
言ってしまってから、自分の言葉の軽さに気づいた。
それでも、取り消す気にはならなかった。
*
夜。
割り当てられた石室で、三人は装備を並べていた。
剣。革帯。油の瓶。信号弾の筒が二本。
そして、布に包まれた石が、二つ。
「――ケイン」
雷夕は、肩の包帯を見た。
「肩、大丈夫か」
「振れる」
ケインは、剣を鞘に収めた。
「次は足を止めん、と言ったはずだ」
「言ったな」
「なら、聞くな」
素っ気ない返しに、雷夕は口の端を上げた。
*
ロゼリアが、腕輪の留め具に、一つ目の石を嵌め込んだ。
カチリ、と小さな音が鳴る。
「嵌めるだけなら、私がいなくてもできる。覚えて」
「覚えた」
「割れるから、投げないで」
「投げない」
「落とさないで」
「落とさない」
「――あと」
彼女の指が、留め具の上で一度止まった。
「使うとき、一言言って」
「なんで」
「結果を、見ておきたいから」
拡大鏡を外しながら、ロゼリアは目を伏せた。
「どう化けたか、誰かが見てないと、次に活かせない。あんたの体感だけじゃ、記録にならないのよ」
雷夕は、腕輪に収まった石を見下ろした。
乳白色の、歪んだ球。
半日分の炉の熱と、半日分の誰かの魔力が、その中で蓋をされている。
「……重いな、これ」
「重さは、測ったわよ。目方なら、革帯の留め具と変わらない」
「そういう意味じゃない」
ロゼリアは、何も言わなかった。
言わないまま、工具を布にしまった。
*
石室の窓から、崩れたままの外壁が見えた。
修復の槌音は、止んでいる。
わざと、止めてある。
その静けさが、こちらの仕掛けた罠の、最初の一手だった。
(数えに入れん、ってさ)
雷夕は、腕輪の上に指を置いた。
(言われて、ほっとしたんだよな。俺)
肝心な時に空振りする自分を、作戦の芯から外してもらえたこと。
あの乾いた感触を、もう一度、誰かの命の上で味わわずに済むこと。
――そのことに、確かに、安堵した。
だから。
(次は、数えてもらえるようにする)
安堵したままでは、終わりたくなかった。
*
夜明け前、砦の裏門が、音を殺して開いた。
三十に満たない影が、霧の中へ滑り出していく。
その列の後ろから三番目に、雷夕はいた。
腕には、二つの石。
胸には、数えに入れられていない力。
吐いた息が、白く散って、すぐに消えた。
――行こう。
崩れた壁を、積み直すために。




