↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第2章 西の砦の篝火

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/74

第13話 同じ夜の下で

――煮炊きの煙の匂いにも、いつの間にか慣れてしまった。


避難民キャンプに流れ着いてから、幾日が過ぎただろうか。


マルタは、配給の列に並びながら、ふと自分の指先を見下ろした。


薪を割り、水を汲み、慣れない手つきで他所の子の子守りまでこなす日々の中、あれほど白く柔らかだった手のひらは、いつしか固い皮に覆われていた。


生きるということは、こうして少しずつ、自分の形を変えていくことなのかもしれない。


*


「リーゼ、こぼさないように、ゆっくり」


「うん!」


木の椀を両手で捧げ持ち、娘は誇らしげに歩いてくる。


あの日、掠れた声で「おいしい」とだけ呟いていた小さな唇は、今ではすっかり血色を取り戻していた。


天幕の合間を駆け回る足取りにも、以前ほどの怯えはない。


子供の適応力とは、時に大人の悲しみよりも早く、傷を覆っていくものらしかった。


だが――夜になると、それは違った。


寝入り際、リーゼは決まって、マルタの袖をきつく握り締める。


離せば、父の姿がまた一つ、遠くへ消えてしまうとでもいうように。


*


その夜、異変は唐突に訪れた。


――ゴオオオオン。ゴオオオオン。


西の方角、レイフ砦から響いてくる鐘の音。


一度目は、聞き慣れた見張り交代の合図だと、誰もが聞き流した。


だが、二度目、三度目と、切迫した連打に変わった瞬間、キャンプ全体の空気が凍りついた。


「――また、来たのか」


年老いた避難民の誰かが、震える声で呟く。


その一言だけで、周囲の顔という顔から、血の気が引いていくのが分かった。


シュテルン村で聞いたのと、同じ響きだったから。


*


「お母さん……」


飛び起きたリーゼが、震える手でマルタの服を掴んだ。


「また、逃げるの……?」


「大丈夫よ」


込み上げる不安を押し殺し、マルタは娘の小さな体を、力いっぱい抱き締めた。


「ここは、あの村とは違う。あんなに立派な砦が、守ってくれているもの」


自分に言い聞かせるための言葉だと、口にした瞬間に気づいた。


天幕の外、遠く西の空が、時折、赤く明滅している。


戦、というものの気配だけが、確かにそこにあった。


*


夜が明けても、砦からの正式な報せはなかなか届かなかった。


キャンプに漂う沈黙は、待つことに慣れきった避難民たちにとってさえ、耐え難いほど重かった。


昼過ぎ、ようやく荷馬車の列がやって来た。


だが、それは食糧の補給ではなかった。


負傷兵を運ぶための、簡素な担架の列だった。


*


「――手を貸してくれ! 一人でも多く、手当てを!」


引率の衛生兵が、掠れた声で叫ぶ。


固まっていた避難民たちの中から、真っ先に飛び出したのは、意外にも老婆の一人だった。


「あたしは、傷の縫合くらいはできる。あんたたちは水を!」


弾かれたように、周囲が動き出す。


気づけばマルタも、水桶を抱えて走っていた。


*


担架の上、若い兵の一人が、譫言のように呟いていた。


「――閃光が……あれで、何人、助かったか……」


熱にうかされた声には、恐怖ではなく、微かな安堵の色が滲んでいた。


味方の誰かが放った、あの光のことを言っているらしい。


「ダレル、しっかりしろ! 気を確かに持て!」


イヴァルキア軍の衛生兵が、その兵の頬を軽く叩く。


熱に浮かされたその言葉の意味を、マルタは知らない。


だが、彼の腕に巻かれた包帯から滲む赤い染みだけは、痛いほど雄弁だった。


震える指で水を含ませた布を、その口元へと運ぶ。


「……ありがとう、な」


朦朧とした目に、ほんの一瞬、光が戻る。


「――お前ら、が。無事で、いてくれるだけで……俺たちは……」


言葉は、最後まで紡がれなかった。


だが、その途切れた響きだけで、十分だった。


*


戦火の中で戦っているのは、剣を振るう兵士たちだけではない。


その言葉を、マルタは幾度も胸の内で繰り返してきた。


だが今、震える兵の手を握りながら、その言葉の続きに、初めて気づいた気がした。


守られているだけの存在など、どこにもいない。


自分たちが恐怖に震えて逃げ延びたその道の先で、名も知らぬ誰かが、同じだけの恐怖と共に剣を握っていた。


そして今、その誰かを支えているのは――他でもない、自分たちの手だった。


*


翌日、キャンプに、見慣れぬ一団が訪れた。


イヴァルキア軍の徽章をつけた、情報将校だという。


「――シュテルン村から逃れてこられた方々に、伺いたいことがあります」


丁寧だが、有無を言わせぬ響きだった。


集められた避難民の一人一人に、将校は根気強く問いを重ねていく。


村を発った時刻。目にした部隊の規模。進軍の方角。


多くは、恐怖に急かされるあまり、断片的な記憶しか持ち合わせていなかった。


自分の番が来た時も、大した話はできないだろうと、マルタは半ば諦めていた。


「……荷馬車の、音が」


だが、口をついて出たのは、自分でも意外な記憶だった。


「逃げる途中、何度も同じ音を聞きました。重い車輪が、いつも同じ場所で――軋むような、独特の音です」


将校の目に、微かな光が宿る。


「場所は、覚えていますか」


「シュテルン村から、東へ一里ほどの――涸れ川の浅瀬です。石橋が半分崩れていて、荷馬車は皆、そこを迂回して渡っていました」


記憶を辿りながら、マルタは続けた。


「毎日、同じ刻限に。まるで、決まった時間があるみたいに、規則正しく」


将校が、広げた地図の上、指先で一点を示す。


「――ここ、ですね」


「はい……多分」


「補給の要になっている場所かもしれません。貴重な証言、感謝します」


深々と頭を下げられ、マルタは戸惑った。


逃げるだけで精一杯だったあの記憶が、まさか誰かの役に立つとは、思ってもいなかった。


*


夕刻、水桶を置いて一息ついたマルタの元へ、リーゼが駆け寄ってきた。


小さな手には、しおれかけた一輪の野花が握られている。


「これ、あのお兄さんに」


「――そう。優しいのね」


「お父さんも、どこかで誰かに、お花もらってるといいな」


屈託のない声に、マルタの喉が、不意に詰まった。


夫の生死を、誰も知らない。


それでも、娘のその一言が、胸の奥で凍りかけていた何かを、そっと溶かしていく。


*


その晩、担架の列に紛れて到着した一人の避難民が、マルタの耳に、ある噂を運んできた。


「……シュテルン村の、南の外れで拾われた男がいる、って話は聞いたか」


「え……」


「歳の頃も、身なりも詳しくは分からんが。隣のばあさんを背負って逃げてた、とかで――今は、別のキャンプにいるらしい」


心臓が、大きく跳ねた。


隣のばあさんを、背負って。


それは確かに、あの日、夫が最後に口にした言葉と、重なっていた。


だが、噂は所詮、噂でしかない。


無闇に喜んで、後でまた崩れ落ちるくらいなら――。


そう己を戒めながらも、マルタの中で、小さな灯が、確かに揺れ始めていた。


*


夜風に揺れる篝火の向こう、まだ硝煙の名残が漂う西の空を見上げながら、マルタは眠るリーゼの頬を、そっと撫でた。


砦の向こうで戦う者たちも、この火のそばで身を寄せ合う自分たちも――同じ夜の下で、同じだけの恐怖と、同じだけの願いを抱いている。


剣を持つ者と、持たざる者。


その境界線は、思っていたよりずっと、薄いものなのかもしれない。


明日もまた、鐘は鳴るかもしれない。


それでも今夜だけは、この小さな温もりを、失わずに済んだ。


その事実だけを胸に、マルタは静かに、瞼を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。