第13話 同じ夜の下で
――煮炊きの煙の匂いにも、いつの間にか慣れてしまった。
避難民キャンプに流れ着いてから、幾日が過ぎただろうか。
マルタは、配給の列に並びながら、ふと自分の指先を見下ろした。
薪を割り、水を汲み、慣れない手つきで他所の子の子守りまでこなす日々の中、あれほど白く柔らかだった手のひらは、いつしか固い皮に覆われていた。
生きるということは、こうして少しずつ、自分の形を変えていくことなのかもしれない。
*
「リーゼ、こぼさないように、ゆっくり」
「うん!」
木の椀を両手で捧げ持ち、娘は誇らしげに歩いてくる。
あの日、掠れた声で「おいしい」とだけ呟いていた小さな唇は、今ではすっかり血色を取り戻していた。
天幕の合間を駆け回る足取りにも、以前ほどの怯えはない。
子供の適応力とは、時に大人の悲しみよりも早く、傷を覆っていくものらしかった。
だが――夜になると、それは違った。
寝入り際、リーゼは決まって、マルタの袖をきつく握り締める。
離せば、父の姿がまた一つ、遠くへ消えてしまうとでもいうように。
*
その夜、異変は唐突に訪れた。
――ゴオオオオン。ゴオオオオン。
西の方角、レイフ砦から響いてくる鐘の音。
一度目は、聞き慣れた見張り交代の合図だと、誰もが聞き流した。
だが、二度目、三度目と、切迫した連打に変わった瞬間、キャンプ全体の空気が凍りついた。
「――また、来たのか」
年老いた避難民の誰かが、震える声で呟く。
その一言だけで、周囲の顔という顔から、血の気が引いていくのが分かった。
シュテルン村で聞いたのと、同じ響きだったから。
*
「お母さん……」
飛び起きたリーゼが、震える手でマルタの服を掴んだ。
「また、逃げるの……?」
「大丈夫よ」
込み上げる不安を押し殺し、マルタは娘の小さな体を、力いっぱい抱き締めた。
「ここは、あの村とは違う。あんなに立派な砦が、守ってくれているもの」
自分に言い聞かせるための言葉だと、口にした瞬間に気づいた。
天幕の外、遠く西の空が、時折、赤く明滅している。
戦、というものの気配だけが、確かにそこにあった。
*
夜が明けても、砦からの正式な報せはなかなか届かなかった。
キャンプに漂う沈黙は、待つことに慣れきった避難民たちにとってさえ、耐え難いほど重かった。
昼過ぎ、ようやく荷馬車の列がやって来た。
だが、それは食糧の補給ではなかった。
負傷兵を運ぶための、簡素な担架の列だった。
*
「――手を貸してくれ! 一人でも多く、手当てを!」
引率の衛生兵が、掠れた声で叫ぶ。
固まっていた避難民たちの中から、真っ先に飛び出したのは、意外にも老婆の一人だった。
「あたしは、傷の縫合くらいはできる。あんたたちは水を!」
弾かれたように、周囲が動き出す。
気づけばマルタも、水桶を抱えて走っていた。
*
担架の上、若い兵の一人が、譫言のように呟いていた。
「――閃光が……あれで、何人、助かったか……」
熱にうかされた声には、恐怖ではなく、微かな安堵の色が滲んでいた。
味方の誰かが放った、あの光のことを言っているらしい。
「ダレル、しっかりしろ! 気を確かに持て!」
イヴァルキア軍の衛生兵が、その兵の頬を軽く叩く。
熱に浮かされたその言葉の意味を、マルタは知らない。
だが、彼の腕に巻かれた包帯から滲む赤い染みだけは、痛いほど雄弁だった。
震える指で水を含ませた布を、その口元へと運ぶ。
「……ありがとう、な」
朦朧とした目に、ほんの一瞬、光が戻る。
「――お前ら、が。無事で、いてくれるだけで……俺たちは……」
言葉は、最後まで紡がれなかった。
だが、その途切れた響きだけで、十分だった。
*
戦火の中で戦っているのは、剣を振るう兵士たちだけではない。
その言葉を、マルタは幾度も胸の内で繰り返してきた。
だが今、震える兵の手を握りながら、その言葉の続きに、初めて気づいた気がした。
守られているだけの存在など、どこにもいない。
自分たちが恐怖に震えて逃げ延びたその道の先で、名も知らぬ誰かが、同じだけの恐怖と共に剣を握っていた。
そして今、その誰かを支えているのは――他でもない、自分たちの手だった。
*
翌日、キャンプに、見慣れぬ一団が訪れた。
イヴァルキア軍の徽章をつけた、情報将校だという。
「――シュテルン村から逃れてこられた方々に、伺いたいことがあります」
丁寧だが、有無を言わせぬ響きだった。
集められた避難民の一人一人に、将校は根気強く問いを重ねていく。
村を発った時刻。目にした部隊の規模。進軍の方角。
多くは、恐怖に急かされるあまり、断片的な記憶しか持ち合わせていなかった。
自分の番が来た時も、大した話はできないだろうと、マルタは半ば諦めていた。
「……荷馬車の、音が」
だが、口をついて出たのは、自分でも意外な記憶だった。
「逃げる途中、何度も同じ音を聞きました。重い車輪が、いつも同じ場所で――軋むような、独特の音です」
将校の目に、微かな光が宿る。
「場所は、覚えていますか」
「シュテルン村から、東へ一里ほどの――涸れ川の浅瀬です。石橋が半分崩れていて、荷馬車は皆、そこを迂回して渡っていました」
記憶を辿りながら、マルタは続けた。
「毎日、同じ刻限に。まるで、決まった時間があるみたいに、規則正しく」
将校が、広げた地図の上、指先で一点を示す。
「――ここ、ですね」
「はい……多分」
「補給の要になっている場所かもしれません。貴重な証言、感謝します」
深々と頭を下げられ、マルタは戸惑った。
逃げるだけで精一杯だったあの記憶が、まさか誰かの役に立つとは、思ってもいなかった。
*
夕刻、水桶を置いて一息ついたマルタの元へ、リーゼが駆け寄ってきた。
小さな手には、しおれかけた一輪の野花が握られている。
「これ、あのお兄さんに」
「――そう。優しいのね」
「お父さんも、どこかで誰かに、お花もらってるといいな」
屈託のない声に、マルタの喉が、不意に詰まった。
夫の生死を、誰も知らない。
それでも、娘のその一言が、胸の奥で凍りかけていた何かを、そっと溶かしていく。
*
その晩、担架の列に紛れて到着した一人の避難民が、マルタの耳に、ある噂を運んできた。
「……シュテルン村の、南の外れで拾われた男がいる、って話は聞いたか」
「え……」
「歳の頃も、身なりも詳しくは分からんが。隣のばあさんを背負って逃げてた、とかで――今は、別のキャンプにいるらしい」
心臓が、大きく跳ねた。
隣のばあさんを、背負って。
それは確かに、あの日、夫が最後に口にした言葉と、重なっていた。
だが、噂は所詮、噂でしかない。
無闇に喜んで、後でまた崩れ落ちるくらいなら――。
そう己を戒めながらも、マルタの中で、小さな灯が、確かに揺れ始めていた。
*
夜風に揺れる篝火の向こう、まだ硝煙の名残が漂う西の空を見上げながら、マルタは眠るリーゼの頬を、そっと撫でた。
砦の向こうで戦う者たちも、この火のそばで身を寄せ合う自分たちも――同じ夜の下で、同じだけの恐怖と、同じだけの願いを抱いている。
剣を持つ者と、持たざる者。
その境界線は、思っていたよりずっと、薄いものなのかもしれない。
明日もまた、鐘は鳴るかもしれない。
それでも今夜だけは、この小さな温もりを、失わずに済んだ。
その事実だけを胸に、マルタは静かに、瞼を閉じた。




