第12話 崩れた後で
血の匂いが、まだ抜けていなかった。
第二防壁の内側、急ごしらえの治療幕には、呻き声が絶えなかった。
横たわる兵の列。足りない包帯。すり切れた薬瓶。
雷夕は、その光景を、少し離れた場所から見つめていた。
*
「――被害、まとめました」
伝令の兵が、老将の前に紙片を差し出す。
受け取った老将の目が、文字の上を滑っていく。
「戦死、十七。重傷、四十二。……外壁の東側、三分の一が崩落」
読み上げる声に、抑揚はなかった。
抑揚をつける余裕が、もうなかった。
「二度、同じ場所を、同じ規模で。にも関わらず、被害はこちらが上回っている」
紙片を握り締めたまま、老将は目を閉じた。
「――試されている、というより。何もかも、見透かされている気分だな」
*
雷夕は、脇腹の包帯に手を当てた。
痛みは、鈍く続いている。
だが、それよりも重いものが、胸の奥に居座っていた。
(――使えなかった)
肝心な時に。皆が、こちらを頼りにした瞬間に。
三日前の成功が、まるで嘘のように。
「……ロゼリア」
「なに」
作業台に向かったまま、彼女は振り返らなかった。
「もし、あの時――劣化が使えてたら」
「使えなかった。それが、今の話でしょ」
素っ気ない声だった。
「たられば、数えたって、死んだ人は戻らない。だったら、次に使えるようにする方が、まだ意味がある」
*
作業台の上には、分解された撹乱腕輪が、部品ごとに並べられていた。
小さな鑿。虫眼鏡。焦げた跡の残る羊皮紙に、細かな数式のような書き込み。
「――魔力の消費量、って要は個人差の激しい変数なのよ」
指先で、腕輪の内部機構をなぞりながら、ロゼリアが呟く。
「感知を誤魔化す機能はもうある。次に要るのは――」
言葉を切り、彼女は顔を上げた。
「消耗そのものを、外から補う仕組み」
「そんなの、できるのか」
「分からない。でも」
拡大鏡を額に押し上げ、ロゼリアは初めて、雷夕の方を見た。
「工夫の余地がない、なんてことは、まだない」
*
夜、割り当てられた石室で、ケインは肩の包帯を巻き直していた。
矢傷は浅くはなかったが、命に関わるものでもない。
「――情けない話だ」
呟いた声に、自嘲が滲む。
「護衛の身でありながら、真っ先に足を止められるとはな」
「足止められただけマシだろ。あの状況で」
雷夕は、壁に寄りかかったまま答えた。
「俺だって、劣化が使えなかった。似たようなもんだ」
「似ていない」
ケインは、包帯を結び終え、剣を膝の上に置いた。
「お前は、力を失っても、剣を握って戦った。私は――一時、それすらできなかった」
沈黙が落ちる。
石壁を伝う、小さな水音だけが響いていた。
「アリシア様のもとを離れてまで、ここに立っている」
やがて、ケインが口を開いた。
「それが無駄だったとは、思いたくない。だから」
言葉を探すように、一拍置く。
「次は、足を止めん」
その声に、迷いはもうなかった。
*
翌朝、詰所には重い空気が漂っていた。
古参兵たちが、小声で言葉を交わしている。
「――結局、あの三人組も、頼りにならんかったな」
「二度目、劣化とやらが使えなかったんだろう。ならただの厄介者だ」
聞こえよがしの声に、雷夕は足を止めそうになった。
だが、止まらなかった。
止まれば、それを認めることになる気がした。
*
「――気にするな」
背後から、老将の声がかかった。
振り向くと、彼は崩れた外壁の修復作業を見渡す位置に立っていた。
「兵の不安は、口さがない噂になる。いつの時代も、そうだ」
「気にしてない、と言えば嘘になる」
雷夕は、正直に答えた。
老将は、僅かに口の端を上げた。
「それでいい。気にしないような奴は、二度目を防ぐ工夫もしない」
視線が、崩れた石壁へと向く。
「昨夜の失態は、失態のままにはしておかん。次は、同じ手には乗らん」
「――どうするつもりだ」
「まずは、体制を立て直す。持ち場の見直し、伝令の増強、負傷者の後送」
淡々と、しかし着実に、老将は指を折っていく。
「地味な仕事だ。派手な逆転劇にはならん。だが――こういう積み重ねでしか、崩れた士気は戻らん」
*
その日の夕刻、修復作業に加わっていた若い兵の一人が、雷夕に声をかけてきた。
「……あんたが、劣化、ってやつを使う人か」
「ああ」
「昨日は、頼りにならなかったな」
素直すぎる物言いに、雷夕は苦笑するしかなかった。
「悪かったな」
「でも」
兵は、言葉を探すように、一度俯いた。
「一波目、俺、梯子の三段目まで登られてた。目の前まで、剣先が来てたんだ」
声が、微かに震えている。
「あの光がなかったら、今頃ここにいない。……ずっと、礼を言うタイミングを、逃してた」
差し出されたのは、修復に使う石の一つだった。
「これくらいしか、返せるもんがなくて悪いんだが」
石を受け取ろうとした雷夕の手が、途中で止まった。
(――ああ)
喉の奥が、急に熱くなる。
昨夜からずっと、失敗した記憶ばかりを数えていた。
守れなかったものの重さにばかり、目を向けていた。
守れたものが、確かにあったことを、忘れかけていた。
「……悪くなかった、って、思っていいのか。俺」
掠れた声で、それだけ言うのが精一杯だった。
「思っていいも何も」
兵が、照れたように笑う。
「あんたのおかげで、生きてる奴が、ここに一人いるんだ。それだけは、確かだろう」
込み上げてくるものを堪えるように、雷夕は一度、強く瞼を閉じた。
「――なら、次も。何とかしてみせる」
差し出された石を、両手でしっかりと受け取る。
「なら、次もある、ってことだな」
兵の言葉に、雷夕は今度こそ、迷いなく頷いた。
石を受け取った手に、思いのほか重みがあった。
*
夜、詰所の隅で、三人は久しぶりに顔を揃えた。
包帯だらけの体。乾いた携行食。
それでも、誰も、諦めの言葉は口にしなかった。
「――ロゼリア。腕輪の改良、手伝わせろ」
「上等よ。人手はいくらあっても足りない」
「私も、加われるか」
「もちろん」
崩れた壁の向こうから、風に乗って、修復の槌音が響いてくる。
コン、コン、コン――。
一晩で崩れたものを、また一つずつ、積み直していく音だった。
雷夕は、その音を聞きながら、静かに拳を握った。
崩れたのは、壁だけじゃない。
だが、積み直せないものでもない。
そう、信じたかった。




