第10話 彼の正義
篝火が、燃え尽きかけていた。
夜明け前の駐屯地に、戻ってきた兵の数は――出て行った時より、明らかに少なかった。
アルブレヒトは、天幕の前に立ち、その光景を黙って見渡していた。
泥にまみれた鎧。担架で運ばれていく者。誰も、大声を上げない。
静かすぎる帰還だった。
*
「――報告します」
天幕に入るなり、クラウスが片膝をついた。
「威力偵察隊、五百のうち、生還は四百二十一。負傷者を除いた実働可能な兵は、三百に届きません」
「レイフ砦を、落とせたか」
「いいえ」
クラウスの声に、初めて感情の色が滲んだ。
「外壁の東側――手薄と見て狙った箇所です。そこで、想定外の抵抗に遭いました」
「想定外?」
アルブレヒトの片眉が、僅かに上がる。
「詳しく」
*
呼び入れられたのは、生き残った魔法兵の一人だった。
外套の袖が焦げ、右手には包帯が巻かれている。
膝をついたまま、男は俯いた。
「――外壁に、火炎を放ちました。狙いは正確でした。届く直前まで、確かに」
言葉が、そこで一度途切れる。
「届く直前、色が変わりました。赤が、白に。炎が――氷に」
「氷?」
クラウスが、思わず口を挟んだ。
「馬鹿な。属性の反転など、並の魔法では起こり得ない」
「私も、そう思います」
男の声は、震えを隠せていなかった。
「あれは、魔法の失敗ではありません。誰かが――私の術を、奪って、作り変えた」
*
沈黙が、天幕の中に落ちた。
アルブレヒトは、卓上の地図に目を落としたまま、指先で古い書簡の束をなぞった。
その中の一枚。
半月ほど前、バルトレンより回された通達文書。
『国境戦線各部隊指揮官へ――未確認の異能保持者に関する注意喚起』
読んだ時は、正直、眉唾だと思っていた。
奪った力を、まるで別物のように変質させる。効果は完全に予測不能。捕捉すれば速やかに排除せよ、さもなくば深追いを避けよ――そう書かれていた。
賞金稼ぎ一人が、たかが傭兵崩れに手こずった程度の話だろう、と。
「――クラウス」
「はっ」
「バルトレン殿の通達を、覚えているか」
クラウスの顔が、みるみる強張っていく。
「まさか――あれが、この戦線に?」
「断定はできん。だが」
アルブレヒトは、書簡を静かに閉じた。
「火を氷に変える魔法など、少なくとも私は知らん。奪い、作り変える――通達の内容と、符合しすぎている」
*
魔法兵を下がらせたあと、天幕には二人だけが残った。
「――どうされます」
クラウスの問いに、アルブレヒトはすぐには答えなかった。
視線は、地図の上、シュテルン村からレイフ砦へと続く道筋に注がれている。
「一つ、確かなことがある」
「はい」
「あれは、正規軍を相手にした、初めての戦だ。奴らにとっても」
クラウスが、僅かに眉を寄せる。
「――ならば、次はもっと大きな数を投じれば」
「早計だ」
低く、しかし断固とした声だった。
「未知の力を持つ者を相手に、数だけを増やして押し潰そうとするのは、愚者のやることだ。まずは――知ることが先だ」
「知る、とは」
「奴らの手の内を、もう少し見せてもらう」
アルブレヒトの目に、静かな光が宿った。
「今回は威力偵察に過ぎん。次も、同じ規模でいい。ただし今度は、退く前にもう少し粘らせろ。どういう条件で、どれだけの頻度で、あの力が使えるのか――見極める」
「兵の損耗が、増えます」
「分かっている」
アルブレヒトは、初めて僅かに目を伏せた。
「だが、無策で本隊を送り、同じ壁の前で何倍もの兵を失うよりは、よほど安い代償だ」
*
クラウスが天幕を出たあと、アルブレヒトは一人、燃え尽きかけた燭台の炎を見つめていた。
(――秩序、か)
若い頃を思い出す。
彼の生まれた辺境の村は、帝国に併呑される以前、名も知れぬ小領主たちが互いに争う土地だった。
今年の年貢を巡って隣村と刃を交え、翌年には別の領主に鞍替えを強いられ、また争う。
繰り返される、意味のない争い。
その果てに焼け落ちた家々の記憶は、今でも鮮明だった。
帝国の旗が、その地に立ったのは、彼が十二の年だった。
争いは、止んだ。
道が敷かれ、水路が引かれ、税は定められた掟の下で公平に取り立てられるようになった。
奪われた、とは思わなかった。
与えられた、と思った。
だからこそ、彼は帝国の剣であることを選んだ。
奪う為ではない。
無意味な争いを、終わらせる為に。
その先に、秩序があるのなら――どれほどの犠牲を払ってでも、成し遂げる価値がある。
そう、信じてきた。
*
だが。
炎を見つめる目に、ふと影が差す。
(――シュテルン村を追われた民は、今、何を思っている)
道を、水路を、掟をもたらす前に、まず村を焼いた。
それもまた、事実だった。
矛盾していないと、言い切れるか。
自問は、いつも同じところで止まる。
答えは、出ない。
出ないまま、彼はいつも、次の命令書に手を伸ばす。
*
「――アルブレヒト様」
天幕の外から、伝令の声がかかった。
「本国より、追加の書状が」
「入れ」
差し出された封書を受け取り、封を切る。
短く目を通したあと、彼は静かに、それを卓の上へ置いた。
「クラウスを、呼べ」
「はっ」
一人残った天幕の中、アルブレヒトは、地図の上のシュテルン村――そして、その先のレイフ砦を、もう一度見つめた。
未知なる敵。
未知なる力。
それでも、成すべきことは変わらない。
彼は静かに、燭台の炎を吹き消した。
暗がりの中、次の一手だけが、確かな輪郭を持って浮かび上がっていた。




