第9話 刃、まみえる
鐘の音が、砦を叩き起こした。
一度。二度。三度目で、跳ね起きた雷夕の手は、もう剣の柄を握っていた。
「――来たか!」
石室を飛び出すと、廊下はすでに慌ただしい足音で埋まっていた。鎧を着込みながら走る兵、松明を掲げて駆ける伝令、怒鳴るような指示の声。
昨夜、腕輪を握り締めて眠りについたばかりだった。
その余韻を、鐘の音がねじ伏せていく。
*
物見櫓に駆け上がると、ロゼリアはすでにそこにいた。
工具袋の代わりに、腰には投擲用の小瓶を並べたベルトを巻いている。
「数は?」
「多く見て五百。物見の報告だと、正規の縦列――そして、旗持ちが三本」
双眼鏡代わりの魔道具を覗き込んだまま、ロゼリアの声が硬い。
「本隊、じゃないわね。にしては、少なすぎる」
「小手調べ、ってやつか」
呟いた雷夕の隣に、遅れてケインが上がってくる。息一つ乱していないのは、さすがだった。
「老将殿の見立ても同じだ。――威力偵察。砦の守りの厚みを、測りに来ている」
*
指揮所では、老将が卓の上の地図に指を這わせていた。
深く刻まれた皺の一本一本に、何十年分もの戦場の記憶が詰まっているような顔だった。
「西の外壁、正面から来る。梯子と、恐らく――魔法兵が数名」
指先が、地図上の一点を叩く。
「お前たちには、外壁の東側を任せる」
正面ではない。
そのことに、一瞬だけ喉の奥が詰まった。
「――信用、されてないってことか」
「そう聞こえたなら、悪いが訂正はしない」
老将は顔も上げずに言った。
「未知数を、いきなり主戦線には置けん。それが、軍というものだ」
短い沈黙。
それから、老将はようやく顔を上げた。
「だが、東側が薄いのも事実だ。何もするな、とは言っていない」
その一言に、雷夕は口の端をわずかに上げた。
「――十分だ」
*
外壁に立つと、風が違った。
土埃と、鉄の匂い。それに、遠くから響いてくる、規則正しい足音。
ズッ、ズッ、ズッ。
軍靴が地面を踏み鳴らす音は、まだ姿の見えない敵の輪郭を、耳から先に描き出していく。
やがて、丘の稜線に、黒い染みのようなものが滲み出した。
染みは、見る間に形を持つ。
隊列。旗。そして、鈍く光る穂先の群れ。
「――来る」
ロゼリアの声が、掠れていた。
*
太鼓が鳴った。
ドン、ドン、ドン、ドン――!
一定の拍子が、地面を通して足の裏まで伝わってくる。
その拍子に合わせて、隊列が前進を始めた。
一糸乱れぬ動き。
盾を構えた前列、その隙間から槍先を突き出す二列目。統率された歩みは、まるで一つの巨大な生き物のようだった。
「……綺麗な行軍だな」
思わず漏れた呟きに、隣のケインが頷く。
「褒めている場合か」
「褒めてるさ。あれをぶち崩す側だからな、こっちは」
軽口の裏で、心臓が早鐘を打っていた。
これまで戦ってきたのは、盗賊であり、暗殺者であり、魔物だった。
だが、これは――軍だ。
個としての強さとは、また別の質量が、丘の向こうから押し寄せてくる。
*
弓兵の号令が飛んだ。
「――放てッ!」
ヒュン、ヒュン、ヒュンッ――!
夜明け前の空を裂いて、矢の雨が降り注ぐ。
前列の兵が盾を掲げ、乾いた音を立てて矢を弾く。
パスッ、パスッ、パパンッ――!
数本が隙間を縫って、悲鳴を上げさせる。それでも隊列は崩れない。
「壁際まで、あと二百!」
「梯子隊、後方に控えている! 東側にも回ってくるぞ!」
伝令の声が、外壁の上を駆け抜けていく。
雷夕は剣の柄を握り直した。
掌に、汗が滲んでいる。
(――怖い、のか。俺)
否定はしなかった。ただ、震えは、握り直すたびに小さくなっていった。
*
梯子が壁に掛かったのは、それから間もなくのことだった。
ガツンッ、と鈍い音。
見上げれば、鉤爪のついた先端が、石壁の縁に食い込んでいる。
「東にも来た! 二基!」
「――上がらせるな!」
老将の指示は届かない。ここは、任された持ち場だ。
判断は、自分たちに委ねられている。
ロゼリアが小瓶を投げた。
放物線を描いて落ちたそれが、梯子の根元で弾け――ぬめった油の膜が、足場を奪う。
「滑れ、滑れ!」
叫ぶ彼女の声に、笑みが混じっていた。
登り始めていた兵の足が、面白いほど呆気なく空を切る。
ズザザッ、と滑り落ちる音が二重に響いた。
「一基、無力化!」
「もう一基は――!」
もう一基の梯子には、既に三人の兵が取り付いていた。
先頭の男が壁の縁に手をかける。
ケインが動いた。
踏み込む。
斬る。
届く。
三拍で、それだけだった。
ガキンッ、と鎧越しの一撃が火花を散らし、男の体が梯子ごと後ろへ吹き飛んでいく。
「――問題ない」
息一つ乱さず、ケインが剣を構え直した。
*
異変に気づいたのは、その直後だった。
風が、変わった。
いや――風ではない。
熱だ。
「――雷夕! 右!」
ロゼリアの声に振り向いた先。
壁の外、隊列の後方に立つ一人の男が、両手を大きく広げていた。
纏っているのは、鎧ではなく、焦げ茶の外套。
その手のひらの間で、赤い光が渦を巻いている。
魔法兵。
見た瞬間、腹の底が冷えた。
(あれを、外壁に撃ち込まれたら)
石壁がどうなるかなど、考えるまでもなかった。
「――狙いを、外壁全体に定めているつもりだろうが」
呟いたのは、独り言のようで、独り言ではなかった。
自分自身への、確認だった。
雷夕は目を、その男の手の中の炎に据えた。
(見た。捉えた。あとは――)
三年分の失敗と、幾つかの成功が、掌の熱として蘇る。
意図的に。狙って。だが、力を抜いて。
かつてのように、力任せに掴みにいくのではなく――そっと、指先で触れるように。
『劣化』が、応えた。
*
視界の隅で、赤い光がぶれる。
魔法兵の腕から放たれたそれは、渦を巻きながら壁へと殺到し――
パキン、と。
まるでガラスが罅割れるような音を立てて、色を変えた。
赤から、白へ。
炎から、氷へ。
「――は?」
魔法兵自身の困惑の声が、ここまで届いた気がした。
着弾した瞬間、外壁の一角と、その足元の地面ごと、白い霜が広がった。
ピキピキピキッ、と凍りつく音が連鎖する。
梯子にしがみついていた兵の手が、凍りついた鉄の感触に驚いて離れる。
足場ごと凍った地面に、次々と兵が滑り、転び、折り重なった。
「――やった、のか」
自分で発動させておきながら、半信半疑の声が漏れる。
初めてだった。
狙って。意図して。それでいて、これほどはっきりと成功したのは。
*
「腕輪、効いてるみたいね」
隣で、ロゼリアが小さくガッツポーズを作っていた。
「魔力の揺らぎは飛んだはずだけど――波形は、多分どこかの誰かさんのものに化けてる」
「誰かさんって」
「知らないわよ、そんなの。適当に選んだ、って言ったでしょ」
事もなげに笑う彼女の顔に、雷夕は苦笑を返すしかなかった。
だが、確かなことが一つあった。
正体を悟られず、力を振るえた。
それだけで、次からの戦い方が、一つ広がる。
*
魔法兵を失った隊列に、動揺が走った。
呼応するように、老将の号令が飛ぶ。
「――押し出せ! 今だッ!」
外壁の兵が一斉に前へ出る。矢が、石が、再び降り注ぐ。
凍りついた地面で足を取られる兵。折れた梯子にしがみつく兵。
統率された巨大な生き物のはずだった隊列が、初めて――綻びを見せた。
やがて、後方で角笛が鳴った。
低く、長く。
退却の合図だ。
*
丘の向こうへ引いていく黒い染みを、雷夕は外壁の上から見送った。
膝から、力が抜けそうになる。
だが、まだ立っていられた。
「――終わった、のか」
「終わった、というより」
老将が、いつの間にか隣に立っていた。
腕を組んだまま、遠くを見つめている。
「終わらせられた、が正しい」
「同じことじゃないのか」
「違うな」
老将の目が、初めて雷夕を見た。
「奴らは、様子見に来ただけだ。本気で落とすつもりなら、あの程度の兵数では来ない」
淡々とした声。それでも、続く言葉には、確かな重みがあった。
「――だが、その様子見を、ここまで綺麗に叩き返した部隊は、そう多くない」
*
夕刻。
外壁の修復に追われる兵たちの声を背に、雷夕たちは持ち場を離れた。
疲労が、今になって全身に染み渡ってくる。
「……腹、減ったな」
「私も。あと、手が震えてる。緊張の反動ね」
差し出したロゼリアの手のひらは、確かに小刻みに揺れていた。
ケインだけは、いつも通り涼しい顔をしている。
「お前は疲れないのか」
「疲れているとも。表に出さないだけだ」
言われてみれば、鎧の下、握った拳の関節が、白くなっていた。
*
砦の詰所に戻る道すがら、すれ違った古参の兵の一人が、足を止めた。
無精髭に覆われた顔。数日前まで、こちらを見る目には、明らかな懐疑の色があった男だ。
その男が、何も言わずに、軽く頭を下げていった。
短い、それだけの仕草。
だが、これまで一度もなかったことだった。
「――今の」
「見た」
ロゼリアが、口元を緩める。
「認められた、ってことよ。多分」
多分、でいい。
今はまだ、それで十分だった。
石畳を踏む足音が、三人分、静かに詰所へと続いていく。
明日も、また同じ丘の向こうから、何かがやってくる。
それでも――今日を、越えられた。
その事実だけを胸に、雷夕は夜へと歩を進めた。




