第7話 名もなき道
――足の裏が、焼けるように痛い。
擦り切れ、豆の潰れた皮を破る鈍い激痛。けれど、それを口から零すだけの気力すら、もはや残されてはいなかった。
マルタは、背骨を軋ませる荷の重みにただ耐え忍び、ひたすらに東へ――東へと、鉛のように重い足を擦り出していた。
泥に汚れた右手を引かれているのは、娘のリーゼ。
六つになったばかりの小さな足は、小石を踏むたびに幾度も縺れ、崩れ落ちそうになっては、母の温もりだけにすがって必死に持ち直す。
(あと、どれだけ歩けばいいの……?)
分からない。分かるはずもなかった。
ほんの三日前まで、確かにそこにあったはずの、慎ましくも温かな日常のすべてが――今はもう、世界のどこを探しても見当たらなかった。
*
――シュテルン村が、燃えているッ!!
その凶報が村を裂くように駆け抜けた瞬間、マルタは薪割りの斧を取り落とし、ただ呆然と空を仰いだ。
不吉な黒煙が、遠い西の青空を無慈悲に汚していく。
「逃げろッ! 全速力で逃げるんだッ!」
耳を劈く村長の怒号。狂ったように鳴り響く警鐘の乱打。蜘蛛の子を散らすように走り惑う人々の影。
夫のヨナスは、荷馬車へ最低限の家財を投げ込みながら、蒼白な顔で、震える声を絞り出した。
「先に行け! 俺は……隣のばあさんを背負って、後から必ず行く!」
「――あなたッ!」
「大丈夫だ! すぐに追いつく、すぐにだッ!」
あの時、強く背中を押した夫の言葉を、マルタは今も信じている。
信じるより他に、己の心を保つ術などなかった。
だが――あれから、悪夢のような三日が過ぎた。
どれほど振り返り、どれほど目を凝らしても、ヨナスの姿はどこにもない。
*
逃避行の道中で網膜に焼き付けられた地獄を、マルタは生涯忘れることはないだろう。
爆ぜ、崩れ落ちる見知った家々。無惨に踏み躙られた黄金の麦畑。
そして――漆黒の帝国旗を風に翻し、大地を埋め尽くすように行軍する、圧倒的な兵の群れ。
殺される。
命の終わりを、魂の底から覚悟した瞬間が確かにあった。
逃げ惑う最中、荷車の車輪が尖った敷石に乗り上げ、激しく傾いだ拍子に積み荷が道端へと崩落した時のことだ。
砂煙の向こう、居合わせた帝国兵の巨躯が、腰の剣の柄に指をかけたまま、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
(――ああ、終わりだ)
幼いリーゼの頭を胸元へ掻き抱き、マルタはただ、ぎゅっと瞼を閉じた。
だが。
「――手を出すなッ!」
鋭く硬質な一喝が、その緊迫を両断した。
現れたのは別の兵――肩に豪奢な階級章を帯びた、酷く怜悧な貌の若い将校だった。
「民間人には指一本触れるなと、閣下の厳命だ。……おい、積み荷を戻すのを手伝ってやれ」
抜刀しかけていた兵士が、忌々しげに舌打ちを鳴らす。
――それでも。男は軍律に逆らうことなく、佩刀から手を離した。
道に散らばった粗末な荷物を無造作に、けれど確かに荷車の上へと戻し終えると、二人の兵は一切の言葉を交わすことなく、背を向けて去っていった。
礼を口にする隙すら与えられなかった。
それでも――マルタの胸には、あの刹那の光景が、まるで焼き印のように鮮烈にこびりついて離れない。
殺されても、決して文句など言えぬ戦火の最中。
なのに――自分たちは、生かされた。
その抗いようのない事実だけが、喉の奥に刺さった小骨のように、痛烈に胸を締め付け続ける。
(敵、のはずなのに……ッ)
情けをかけられたからと、許せるほどお人好しではない。
彼らは間違いなく、自分たちの故郷を焼き、穏やかな暮らしを奪い去った略奪者なのだから。
それでも――あの鋼の兵士たちの中に、獣に堕ちることを拒む、頑ななまでの『一線』が存在した。
それだけは、紛れもない真実だった。
*
「……お母さん」
衣擦れの音に混じり、足元から掠れた声が零れ落ちる。
「お腹、すいたよ……」
「――もう少しよ。もう少しだけ、頑張って……!」
すがるような我が子を励ましながら、マルタの胸は張り裂けんばかりに軋んだ。
もう、この子に与えてやれる糧など何一つ残っていない。
背負い続けてきたわずかな干し肉もパンの耳も、途中で力尽きかけた他の避難民たちと分け合い、とうの昔に底をついていた。
(何のために、私たちはここまで泥を啜って逃げてきたの――?)
胸中で幾度叫んでも、返ってくる答えはない。
それでも、立ち止まることだけは許されなかった。ここで膝を屈すれば、二度と立ち上がれないことを知っていたから。
*
赤黒い落日が大地を染め抜く頃、うねる街道の彼方に、幾重にも連なる天幕の影が視界に飛び込んできた。
「――こっちだッ! 怪我人と子供を優先しろッ!」
イヴァルキアの青き紋章を身に纏った兵たちが、喉を涸らして避難民の列を誘導している。
煮え滾る大鍋からは、濛々と白い湯気が立ち上っていた。
震える肩に毛布を掛けて回る老婆。泥まみれの傷口を手早く縛っていく若い衛生兵。
誰もが疲労困憊で、野戦場のように殺伐としながら――けれど、その粗雑な振る舞いの底には、凍えた肌を溶かすような確かな体温が宿っていた。
「押さないで、順に並んで! 大丈夫、全員分行き渡るように煮込んであるから!」
目の前に差し出された、木製の椀。
具のほとんどない、粗末極まりない麦粥。
それでも――掌に伝わるその温もりに触れた瞬間、マルタの瞳から、堪え続けていた涙の堤防が決壊した。
リーゼが泥に汚れた両手を震わせ、おずおずと椀を口に運ぶ。
「……おいしい」
掠れた、けれど確かに生を取り戻したその一言。
それだけで、流した涙のすべてが報われた気がした。
*
夜の帳が落ち、粗末な天幕の片隅で、安らかな寝息を立てるリーゼの髪を撫でながら――マルタは一人、外の暗がりを見つめていた。
風に揺れる篝火の向こう、遥かなる西の彼方には、今なお黒々とした硝煙の名残が、夜空の星々を呑み込んでいるように見えた。
(ヨナス……)
必ず、追いついてきてくれる。
胸の前で固く指を組み、信じることだけが、今のマルタに許された唯一の戦いだった。
薄い布一枚を隔てた隣の天幕から、泣き叫ぶ赤子を必死にあやす、見知らぬ母親の掠れた子守唄が漏れ聞こえてくる。
この地獄のような苦しみは、決して自分だけのものではない。
この血塗られた道を歩き通した者。
今まさに、闇の中を血を流しながら歩いている者。
そして、明日にでも故郷を追われ、この道を歩むことになる者――。
名も知らぬ無数の命が、同じ暗夜の下で、引き裂かれるような痛みを抱えながら蹲っている。
戦火の中で戦っているのは、決して、剣を振るう兵士たちだけではないのだ。
家を焼かれ、奪われ、それでも明日へ向かって泥濘の道を歩き続ける名もなき人々もまた――この残酷な戦争を、抗うように生き抜いている。




