第6話 戦火の爪痕
白く煙る朝靄を切り裂き、駿馬が幾度目かの峠を越えていく。
ただ、乾いた蹄の音だけが、耳朶を打つようにやけに高く響き渡っていた。
(――静かすぎる)
手綱を握る雷夕の指先に、ぎり、と無意識の力が籠もる。
国境へと近づくにつれ、街道の景色は無惨に色を変えていった。
初めは、すれ違う旅人の影がぽつぽつと途絶えていくだけだった。だが、やがて視界を埋め尽くしたのは、軋みを上げて押し寄せる夥しい数の荷車。
そこに積まれているのは、売り買いされる商品などではない。泥に汚れた布団、煤けた鍋、欠けた陶器。そして――泣きじゃくる幼子を必死に抱きかかえる母親たちの姿。
誰もが一様に、生気のない顔で東へ――王都の方角へと、這うように逃れ進んでいた。
「……難民、か」
ぽつりと零れ落ちた雷夕の呟きに、轡を並べるロゼリアが痛ましげに唇を噛み締める。
「シュテルン村だけじゃない。近隣の村落からも、避難が始まってる」
すれ違う荷車の一つと、ふと視線が交錯した。
泥と土埃にまみれた、一人の幼い少女。乾ききった唇。恐怖に怯えるその瞳が、雷夕の腰に差された鋼の剣を一瞬だけ捉え――そして、すぐに諦めたように逸らされた。
(――俺たちが何とかできるなんて、これっぽっちも信じちゃいない)
胸の奥底が、鈍い音を立てて軋みを上げた。
隊列の最後尾で、ケインが静かに手綱を引く。
「見えているものが、全てじゃない。今は、先を急ぐことだ」
吐き捨てられた短い声音。だが、その頑なな横顔にも、決して隠しきれぬ硬さが張り付いていた。
*
茜色に染まり始めた空の下、荒涼たる大地に座すレイフ砦が姿を現した。
剥き出しの灰色に染まる石壁。随所に刻まれた、突貫工事で塞がれた無骨な亀裂の跡。矢避けの盾代わりに積み上げられた土嚢が、外壁を覆うように幾重にも連なっている。
遠目には天を衝く堅牢な城壁に見えたそれは、近づくにつれ、痛々しい継ぎ接ぎの傷痕を晒していた。
「――止まれッ! 何者だッ!」
城門の頭上から、見張りの兵が切迫した切っ先を突きつけてくる。
擦り切れた掠れ声。けれど、その双眸だけは血走るほどに鋭い。この男が、この砦が、ここ数日どれほどの極限状態に晒されてきたのか――その切迫した一閃だけで、痛いほどに伝わってきた。
ケインが無言のまま懐から取り出し、掲げた一通の書状。
イヴァルキア城――領主アリシア直筆の令状。
見張りの兵は血走った目で文面をなぞり、次いで、雷夕の顔を射抜くように睨みつけた。
「……"劣化"、か」
吐き捨てるような囁き。
それは侮蔑ですらなく、無論、救世主を迎える歓喜でもない。
ただ、乾ききった目で未知の異物を推し量る、冷徹な値踏みの響き。
「通れ。ただし――」
槍を引きながら、兵士は低く言葉を吐き出した。
「期待はしていない。……しすぎても、いない」
投げつけられた言葉を背中で受け止めながら、三人は重い軋みを立てて開かれた鉄門をくぐった。
*
足を踏み入れた砦の内部は、外観の威容からは想像もつかぬほど、息苦しく狭隘だった。
通路の端には、負傷兵を横たえた担架が無残な列を成している。
押し殺された呻き声。血濡れの包帯を交換する兵たちの、休まることのない手の動き。立ち込める煤けた炊煙の臭気に、鉄錆のような生々しい血と、苦い薬草の匂いが混ざり合って鼻腔を刺す。
すれ違う兵士たちの視線が、針の筵のように雷夕たちへと突き刺さった。
値踏みするような冷たい目。藁をも掴む思いで縋り付くような目。あるいは、あからさまに絶望して顔を背ける目――。
その瞳の色は様々であっても、底にあるものはただ一つ。
――余裕が、誰のどこにも残されていない。
かつて雷夕が経験してきた戦いとは、根本から何かが違っていた。
(グレンタとの決着とも、盗賊退治の泥臭さとも――違う)
一対一で魂を削り合う死闘でもなければ、刹那の火花を散らす小競り合いでもない。
ここにあるのは、底知れぬ泥沼のように、ただただ命と精神をすり減らしていくだけの果てなき消耗戦。
砦の深奥、薄暗い詰所で三人を出迎えたのは、この拠点を預かる年配の老将だった。深く刻まれた無数の皺に、滲み出る色濃い疲労の色。
「よくぞ参られた。……正直に言えば、複雑な心境だがな」
自嘲気味にそう前置くと、老将は机上に広げられた地図の皺を、骨張った指でなぞった。
「シュテルン村を喪失したことで、この砦を支える補給路の半分が断たれた。残された細道も、いつ寸断されてもおかしくはない。加えて――兵の数は、日を追うごとに削り取られていく一方だ」
「増援は」
雷夕の問いに、老将は苦渋の笑みを浮かべるばかりだった。
「来る。だが、間に合うかは神のみぞ知る、だ」
老将の視線が、地図の向こう――国境線のさらに先、昏い闇の領域を睨みつける。
「帝国は、一戦で勝敗を決するつもりなど毛頭ない。じわじわと、こちらの首を絞め、体力を削り切る算段だ」
長期戦――。
その重苦しい三文字が、鉛のようにずしりと肚の底へ沈み込んでいく。
一度の決死の奮戦で、奇跡のように勝利をもぎ取って終わる話ではないのだ。これから何日も、何十日も――血を吐くような消耗を、この最前線で耐え続けねばならない。
「……"劣化"の噂は、この僻地にも届いている」
不意に、将の声音が低く沈んだ。
「頼りにしたいという脆い希望と、不確定な異物に命運を委ねたくないという兵の意地――正直、その両方がある。買いかぶりもせず、侮りもせん。まずは……その力、この老いぼれの目で見せてもらおう」
冷たく突き放すでもなく、無条件に迎え入れるでもない。
ただ、極限の戦場で兵を預かる指揮官としての、厳格で公平な宣告。
雷夕は逃げることなく、その視線を真っ向から受け止めた。
「上等だ」
*
案内された仮設の天幕――血と膿の匂いが立ち込める治療所で、雷夕はヴァルターの姿を認めた。
若き隊長は、粗末な寝台の上で瞳を固く閉ざし、消え入りそうな浅い呼吸を繰り返していた。晒された痛々しい肩には、幾重にも分厚い包帯が巻かれている。だが、その純白を汚すように、じわりと赤黒い血が滲み出していた。
傍らでは、憔悴しきった顔の衛生兵が、機械のような手つきで黙々と血濡れの布を取り替えている。
「……この人が」
「ああ。三百の精鋭を率い……二百しか連れ帰れなかった男だ」
背後で、ケインが重く押し殺した声で応じた。
雷夕は立ち尽くし、苦悶に歪むその寝顔をただじっと見下ろしていた。
(俺たちが、もっと早くこの地に駆けつけていれば――)
詮無き繰言だと、頭では分かっている。それでも、胸の奥から湧き上がってくる苦い悔恨を止めることはできなかった。
トン、と。
隣に立ったロゼリアが、そっと優しく雷夕の袖を引いた。
「今、それを考えても仕方ないわ。それより――」
彼女の射抜くような眼差しが、天幕の隙間から夕暮れの外へと向けられる。
残光に赤黒く炙られた、国境の荒涼たる稜線。その彼方に、牙を研ぐ帝国の大軍が潜んでいる。
「私たちにできることを、探しましょう」
雷夕は胸中の澱を吐き出すように、深く、重く息を吐いた。
(――そうだな)
脳裏に、あの気丈な少女の凛とした声が蘇る。
――『彼らの力が、この戦況を変えうることも、また事実』。
その覚悟の言葉に、無様な姿を晒すわけにはいかない。
*
夜の帳が下り、あてがわれた狭小な石室の中で、三人は膝を突き合わせていた。
弱々しく爆ぜる、火の気の乏しい暖炉。無骨な木製の寝台が二つと、冷たい石床に広げられた薄い毛布が一枚きり。
「……長くなりそうだな、これは」
雷夕がぽつりと落とした呟きに、返す言葉を持つ者はいなかった。
ただ、ケインは寡黙に腰の剣を抜き放ち、砥石を当てて鋼を研ぎ澄まし始める。
ロゼリアは無言のまま工具袋を開き、繊細な手つきで自らの獲物を調整していく。
誰一人として言葉を交わさずとも、それぞれが、それぞれの流儀で、明日から始まる過酷な日々に魂を研ぎ澄ましていた。
窓の外を見遣れば、砦の城壁に等間隔で灯された無数の篝火が、夜の闇を睨みつけるように赤々と揺らめいている。
その光の届かぬ漆黒の彼方に――いつ牙を剥くとも知れぬ敵の影が息を潜めていることを、誰もが痛いほどに悟っていた。




