第3話 城下の風、噂の芽
「――『れっか』ぁーっ!!」
甲高い声が、路地に響いた。
棒切れを振りかざした小さな男の子が、仁王立ちになって、手のひらを突き出している。その前で、帝国兵役らしい三人の子供たちが、「うわあぁ、体が浮くぅー!」と叫びながら、わざとらしく両手をばたつかせて、ぴょんぴょん跳ねていた。
「次、おれが傭兵やる番!」
「やだ、まだおれ!」
「ずるいぞ、さっきもやったじゃん!」
霧島雷夕は、路地の入口で、そっと回れ右をした。
(……なんだ、あれ)
あの国境の戦いから、三日。
城下を歩けば、どこからともなく、こういうものが耳に入ってくるようになった。
*
イヴァルキアの城下町は、雷夕が知っているどの街とも、少しずつ違っていた。
石畳の通りの角ごとに、腰の高さほどの真鍮の箱が据えつけてある。主婦が取っ手を数回回すと、箱の口から、こぽこぽと澄んだ水が溢れ出す。井戸まで汲みに行かなくていいらしい。
軒先に吊られたランプは、油ではなく、掌ほどの青白い石を芯にしている。荷運びの男が引いているのは、小さな車輪がいくつもついた木箱で、坂道でも、からからと軽い音を立てて登っていく。
どれも、派手な仕掛けではない。
ただ、毎日の暮らしの、ちょっとした重さを、少しずつ肩代わりしてくれるような道具ばかりだった。
(技術だけで、帝国相手に粘ってる国、か)
雷夕は、この国の空気が、嫌いではなかった。
「――聞いたかい、例の話」
通りの角の雑貨屋の前で、店主らしき老人が、常連客と額を寄せ合っていた。
「バルトレン卿の魔法を、まるごと無効にしちまった傭兵がいるって」
「聞いた聞いた。何でも、見た力をそっくりそのまま盗んじまうんだと」
「おっかない話さね。それで帝国兵を百人まとめて空に吹っ飛ばしたって」
「わしは、二百人と聞いたぞ」
雷夕は、足を止めずに、通り過ぎた。
(増えてる。三日で、倍に増えてる)
実際には、盾で押したのは守備隊の兵たちだし、吹っ飛んだ帝国兵は、せいぜい数十人だ。そもそも『劣化』は、盗むどころか、まともに写すことすらできない力なのだが。
居心地が悪い。
この三年、名前が売れないように、目立たないように、端っこを歩いて生きてきた身としては、ひどく落ち着かない。
――なのに。
さっきの子供の、得意げな顔を思い出すと。
口の端が、勝手に緩んでしまうのも、事実だった。
(……悪い気は、しないんだよな。困ったことに)
城へ戻る道すがら、兵舎の練兵場の脇を通りかかった。
剣を打ち合う音。号令の声。その中に混じって、遠くから、聞き覚えのない怒鳴り声が飛んできた。
「――違うッ! そこの支給品、また調整無視で使ってるでしょう! 壊れても知らないわよ!」
声の主の姿は見えない。ただ、練兵場の兵士たちが一斉に首をすくめたのが見えた。
「また"工房の主"が怒ってるな」
「魔道具をぞんざいに扱うと、あの人、本当に怖いからなあ……」
雷夕は、特に気にも留めずに、その場を通り過ぎた。
*
夜。
アリシアに呼ばれていた時刻に、執務室の前まで来た。
扉が、細く開いていた。
隙間から、ランプの灯が、廊下の床に一筋の光を落としている。ノックしようと上げた手が、中の音に気づいて、止まった。
カリ、カリ、と。
羽根ペンが、紙を引っ掻く音。
それから、長い沈黙。
また、カリ、カリ。
雷夕は、扉の隙間から、そっと中を覗いた。
思っていたより、狭い部屋だった。
壁一面の書棚には、背表紙の擦り切れた帳簿がぎっしりと詰まっている。暗がりの奥から、歴代の当主らしき肖像画が何枚も、黙ってこちらを見下ろしていた。一国の領主の部屋にしては、飾りというものがほとんどない。床の絨毯も、端の方が擦れて、糸がほつれかけている。
アリシアは、大きな執務机に向かっていた。
机の上には、書きかけの便箋が一枚。その脇に、封をされた手紙が、いくつも重ねてある。さらにその横に、名前の書き連ねられた一枚の紙。
ペンを握る右腕には、袖口から手首まで、白い包帯が巻かれていた。
一行書いて、手が止まる。
包帯の上から、そっと腕を押さえる。
痛むのだろう。それでも、また、ペンを取る。
「……入っていいわよ」
顔も上げずに、彼女は言った。
「足音で、分かったから」
雷夕は、頭を掻きながら、扉を押し開けた。
「悪い。盗み見するつもりじゃなかった」
「いいの。座って」
机の前の椅子に、腰を下ろす。
近くで見ると、その一枚の紙に並んでいる名前が、読めた。
七つ。
どれも、知らない名前だった。
「……それ」
「あの日、街道で亡くなった、守備隊の人たち」
アリシアは、書きかけの便箋に、ペンを走らせながら答えた。
「ご家族に、手紙を書いているの」
「全部、自分で?」
「ええ」
「その腕で」
「ええ」
短い答えの間にも、ペン先は止まらない。
「……代筆させりゃいいだろ。文官くらい、いくらでもいるんじゃないのか」
「いるわ」
アリシアは、そこで、ようやく顔を上げた。
目の下に、薄く隈が浮いていた。
「でも、あの街道で『ここに立っていて』と言ったのは、私だから」
雷夕は、言葉に詰まった。
――退かないで。あと少しだけ、ここに立っていて。
あの戦場で、確かに聞いた声だ。その声で、崩れかけた盾が持ち上がっていくのを、この目で見た。
立っていてくれた人たちの、名前。
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
アリシアは、また便箋に目を落とした。
カリ、カリ。
雷夕は、少しの間、ただ黙って、その音を聞いていた。
それから、立ち上がった。
机の端に置かれたランプの芯が、短くなって、炎が頼りなく揺れている。その硝子の覆いを外して、芯を少しだけ繰り出してやる。
ぼう、と。炎が、一回り大きくなった。
ついでに、インク壺の蓋を開けておく。ペン立ての脇に転がっていた、先の潰れた羽根ペンを取り上げて、腰の小刀で、すっと削り直す。
「……何してるの」
「傭兵の特技。夜番の暇つぶし」
削り終えたペンを、アリシアの手元に置いた。
「手紙は書けないけど、これくらいなら」
アリシアは、置かれたペンを、しばらく見つめていた。
それから、ふっと、肩の力を抜いて、笑った。
「……ありがとう」
あの戦場で聞いたのと、同じくらい、小さな声だった。
ふと、机の隅に、見覚えのあるものが置かれているのに気づいた。
掌に収まるほどの、小さな金属の円盤。
あの日、白い光を受け止めた、盾の魔道具だ。表面の細かな紋様は、蜘蛛の巣のように走った罅で、ずたずたに断ち切られていた。
「それ、もう使えないのか」
「ええ。あの一撃を受けた時点で、もう寿命だったみたい」
アリシアは、円盤を指先でそっと撫でた。
「明日、これを作った人に見せに行かなきゃいけないの。……きっと、ものすごく怒られるわ」
「怒られる? 領主が?」
「領主でも、よ」
苦笑めいた顔だった。けれど、どこか、懐かしいものを思い出すような。
「それで、今日呼んだ用件だけれど――あなたの力のこと。正式な部隊への編入の前に、こちらでも性質を把握しておきたいの。イヴァルキアには、そういうことを専門にしている人がいるから」
「専門?」
「工房の管轄者よ。腕は確かだけど、興味を持ったものには見境がなくなる性分でね。あなたの噂を聞いて、もう、えらく張り切っているらしいわ」
アリシアは、円盤を見下ろしたまま、付け足した。
「……近いうちに、きっと訪ねてくると思う。覚悟しておいた方がいいわ」
「覚悟って、そんな大げさな」
雷夕は笑って受け流した。
アリシアは、笑わなかった。
ただ、ものすごく真剣な顔で、もう一度だけ言った。
「――覚悟、しておいた方がいいわ」
*
その夜、宛がわれた部屋の寝台に転がって、雷夕は天井を見上げていた。
(七つ、か)
知らない名前ばかりだった。あの日、同じ街道で、同じ帝国兵を相手にしていたはずの、誰か。
もし、もっと早く『劣化』を使っていたら。
もし、あの斜面で、もう少し早く足を踏み出していたら。
(……考えても、仕方ないって分かってんだけどな)
寝返りを打つ。
机の上の羽根ペンの音が、まだ耳の奥に残っていた。
――次は。
次は、あの紙に、名前を一つでも増やさせない。
そう思いながら、雷夕は、目を閉じた。
*
翌朝。
ドンッ!
ドンドンドンッ!!
扉が、叩かれた。
ノック、と呼ぶには、あまりにも乱暴だった。蝶番が、悲鳴を上げて軋んでいる。
「起きてる!? 起きてなくても起きて! 開けないなら、蝶番ごと外すわよ!」
――そして、がちゃり、と。
鍵を掛けたはずの扉の取っ手が、外から、勝手に回りはじめた。




