第2話 名乗りと、決意と
キィィィィィ――ン。
音が、違った。
高く、細く、耳の奥を錐で抉るような響き。男の手のひらの上で、空白の白が、拳ほどから、人の頭ほどへと膨れ上がっていく。
(――動け)
膝に、力を込める。
泥の中で、指が滑った。立ち上がれない。
その雷夕の前に、また、銀色が立った。
罅だらけの円盤を、それでも前へ突き出して。魔法陣が、弱々しく明滅しながら、どうにか花を開く。さっきの半分の大きさもない。蜘蛛の巣の線が、あちこちで途切れている。
「……おい、それ、もう」
「分かってる」
振り向かずに、彼女は言った。
「分かってるから、黙ってて」
――その、両脇から。
ガシャン、と。
盾が、並んだ。
さっき雷夕に「何者だ」と叫んだ、若い守備隊の兵。その隣に、もう一枚。さらに、もう一枚。泥だらけの兵たちが、肩で息をしながら、震える腕で盾を掲げ、彼女と雷夕の前に壁を作っていく。
「お、お下がりください、領主様……!」
誰かが、上擦った声で言った。
あの光の前では、盾など紙一枚にもならない。ここにいる全員が、それを知っている。
それでも、誰も、退かなかった。
男の目が、すうっと動いた。
盾の壁へ。
その向こうで、ようやく起き上がりはじめた自分の兵たちへ。
押し飛ばされて折り重なった兵の山。絡まった槍。泥の中を這い回る、さっきまでの最前列。隊列と呼べるものは、もう、どこにも残っていなかった。
一瞬。
手のひらの白が、揺らいだ。
男は、盾の壁の隙間から、膝をついた雷夕を見た。
値踏みする目だった。
帳簿に載っていない品物を見つけた商人のような――冷たい、計算の目。
白い光が、すうっと、手のひらに吸い込まれて消えた。
「――退け」
短い命令が、戦場を渡った。
「陣を立て直す。動けぬ者は引きずってでも連れ戻せ」
ブォォォォ――……。
角笛が、黒煙の間に低く長く響く。帝国兵たちが、這うように、転がるように、後退を始めた。
男は、最後に一度だけ振り返った。
「覚えておけ、小僧」
口元が、僅かに歪む。笑ったのではない。獲物の匂いを覚えた獣が、牙を見せただけだ。
「バルトレン・ガイアー。――その名を、忘れるな」
磨き抜かれた鎧の背中が、退いていく兵の波の向こうへ、消えていった。
*
最後に聞こえたのは、からん、という小さな音だった。
宙に舞い上がっていた誰かの兜が、ようやく落ちてきて、麦畑の畝に転がったのだ。
戦場に、静けさが戻っていた。
雷夕は、泥の上に、尻から座り込んだ。
「……勝った、のか?」
「勝ってないわ」
銀髪の女が、静かに訂正した。
「退いてくれた。――それだけよ」
掠れた声だった。
彼女は、周りに集まってきた兵たちに向き直る。
「負傷者を街道の後ろへ。動ける者は手を貸して。帝国が戻ってくるかもしれない――見張りを、丘の上に二人」
短い指示に、兵たちが、はっとしたように散っていく。
その背中を、最後の一人まで見送ってから。
彼女は、剣を、鞘に納めようとした。
カチ、と。
切っ先が、鞘口の縁に当たって、滑った。
もう一度。
カチ。カチ、カチ。
入らない。
細かく、止めようもなく、その手が震えていた。
彼女は、自分の手を見下ろした。それから、ちらりと、散っていった兵たちの方を振り返った。誰も見ていないのを、確かめるように。
――そして、雷夕と、目が合った。
「……」
「……」
彼女の頬に、さっと朱が差した。
雷夕は、ゆっくりと立ち上がった。膝はまだ笑っていたが、どうにかなった。彼女と、街道の方との間に――兵たちの視線を遮る位置に、何気なく立つ。
「手、貸そうか」
「……見なかったことにして」
「何を?」
しれっと返すと、彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、小さく、息を吐いた。
雷夕が鞘口に手を添えてやると、震える切っ先は、今度こそ、するりと中に収まった。
カチン。
「――ありがとう」
ほとんど、聞き取れないくらいの声だった。
近くで見ると、思っていたよりずっと若い。煤と返り血に汚れた頬。半分ほど解けて、肩に落ちた銀の髪。籠手の隙間から、まだ滲み続けている血。
(……さっきの、あれ)
――今度は、私の番。
あの光の前で、震えながら呟いていた言葉。
何の「番」なのか、雷夕には分からない。分からないけれど、あれが、誰かに聞かせるための台詞じゃなかったことだけは、分かった。
怖くて、怖くて、それでも前に出るために。自分の背中を、自分で押すための言葉だ。
彼女は、すっと背筋を伸ばした。
さっきまでの震えが嘘のように、片手を胸に当てる。
「名乗りが遅れたこと、詫びるわ。――私は、アリシア・クレイン・レーヴァルト。このイヴァルキアを、預かっている者よ」
「レーヴァルト……って」
この国に入る前に聞いた名だ。国境沿いの小さな技術国の、領主の家の名。
「まさか、領主……?」
「ええ。現当主。今は"辺境の小娘領主"なんて呼ばれているけれどね」
(――マジか)
一国の領主が。最前線で。倒れた兵士の襟首を掴んで、引きずっていた。
「……俺は、霧島雷夕。ただの、流れの傭兵だ」
「ただの、ではないでしょう」
アリシアの目が、まっすぐに雷夕を捉えた。
「バルトレン卿の『滅光』を、丸ごと別物に変えた。それだけじゃない。変わったものを見て、すぐに兵たちに押させた。――あれは、あなたが考えて、やったことよね」
「……まあ、な」
雷夕は、がしがしと頭を掻いた。
「俺のは『劣化』っていう固有スキルでさ。見た力を、劣化させてしか写せない。しかも、何に化けるかは毎回でたらめ。正直、まともに形になったのは、今のが初めてだ」
「初めて」
「初めて。――だから、何が出るかに賭けるのは、やめた」
雷夕は、自分の手のひらを見下ろした。まだ、じんと痺れている。
「出たもんを、どう使うか。そっちなら、俺が決められる」
アリシアは、少しの間、黙って雷夕を見ていた。
それから、表情を改めた。
「率直に聞くわ。――あなたの力を、私たちに貸してもらえないかしら」
手当てをしていた兵たちが、はっと息を呑む気配がした。
「イヴァルキアには、帝国と正面から張り合えるだけの兵はない。技術と結束だけで、どうにか食いつないでいる小さな国よ」
アリシアは、街道の向こうを見た。
黒煙の、その先。まだ煙の上がっていない遠い麦畑と、点々と見える、小さな家々の屋根。
「それでも。この土地に生きる人たちを、私は、守りたい」
飾らない声だった。
(守りたい、か)
三年。色々なものを見てきた。金のために国を裏切る将も、仲間を盾にして逃げる傭兵も。
――こんなにも迷いなく、それを口にできる人間には、会ったことがない。
「……一つだけ、確かめていいか」
「何かしら」
「今の頼みは、さっきの力を見たからだよな」
「ええ。それは、否定しない」
即答だった。
「じゃあ――その前は」
雷夕は、アリシアの右腕を見た。
「俺の前に飛び込んできた時。あんた、俺の何を見て、ああしたんだ」
アリシアは、きょとんとした。
問われた意味が、本当に分からない、というように。
「何も」
当たり前のことを言うように、続ける。
「誰かが死にかけていた。だから、前に出た。――それ以外に、理由が要る?」
雷夕は、思わず笑った。
笑うしかなかった。
あんなに震えていたくせに。剣ひとつ、鞘に戻せないくせに。
「……いや。要らない」
一歩、前へ出る。
「霧島雷夕。――あんたに、借りを返させてもらう」
言ってから、付け足した。
「それと。次に、あんたがああいう顔して前に出る時は――隣に、俺がいる」
アリシアの目が、丸くなった。
それから、ふっと、口元が緩んだ。煤だらけの頬が、ほんの少しだけ、年相応にほどける。
「……ええ。頼りにするわ」
差し出された手は、細くて、冷たくて、剣だこだらけだった。
雷夕は、その手を、しっかりと握り返した。
「ようこそ、イヴァルキアへ。――歓迎するわ、霧島雷夕」
*
そこから半日ほど離れた、帝国軍の野営地。
天幕の中で、バルトレン・ガイアーは羽根ペンを走らせていた。
「バルトレン卿。負傷者の数がまとまりました」
入口で、副官が背筋を伸ばす。
「死者は、思いのほか少なく。……ほとんどが、押し飛ばされた際の打ち身と、捻挫です」
「だろうな」
バルトレンは、顔も上げずに言った。
「あれは、人を殺す力ではなかった」
「は……」
「人を殺す力なら、対処はたやすい。より強い力で潰せばいい」
ペン先が、止まる。
「――あの小僧は、殺す力でもないものを、その場で兵の武器に変えた。厄介なのは、力ではない。使った頭の方だ」
カリカリと、紙を引っ掻く音が、再び天幕に満ちる。
やがて、ペンが置かれた。
『イヴァルキア国境にて、特定不能の異能を確認。保持者はイヴァルキア軍に協力する傭兵と思われる。当方の魔法を別種の効果へと変質させ、これを即座に戦術へ転用、我が隊の陣形を崩壊させた。看過すれば、今後の作戦行動に重大な支障をきたす恐れあり――早期の排除を、進言する』
「それと」
バルトレンは、副官を見た。
「あの傭兵の顔を、近くで見た者がいるはずだ。探して、描かせろ」
「は。――既に、一枚」
副官が、懐から折り畳んだ紙を差し出した。
広げる。
木炭で走り描きされた、若い男の顔。どこか気の抜けた、締まりのない目元。
バルトレンは、しばらく、それを眺めていた。
それから、机の上の小刀を、無造作に取り上げた。
ダンッ――!
刃が、似顔絵の眉間を貫いて、机に突き立った。
「写しを作れ。十枚だ」




