第1話 劣化の傭兵、恩を返す
「退くな! ここで崩れれば、後方の村が――!」
その叫びを、霧島雷夕は、斜面を滑り降りながら聞いた。
抜き身の剣を片手に。踵で枯れ草を削り、泥を蹴散らし、転げ落ちる寸前の速さで。
(――何やってんだ、俺)
護衛していた荷馬車は、とっくに街へ引き返させた。依頼主の親父には「あんたも逃げろ」と怒鳴られた。まったくもって、正しい。
眼下の街道は、燃えていた。
黒煙の下で蠢く、鈍色の鎧の群れ。その頭上に翻る、漆黒の旗。帝国――ガルドヴァールの軍勢だ。
その波に呑まれかけているのは、ずっと数の少ない、イヴァルキアの守備隊。盾の列は歯抜けのように崩れ、分断され、小さな塊になって、かろうじて踏みとどまっているだけ。
そして、帝国軍の一番奥。
一人だけ、空気の色が違う男がいた。あの男の周りだけ、景色が陽炎のように歪んでいる。肌が、ちりちりと粟立つ。
――逃げろ。
頭の芯で、傭兵の勘がそう告げていた。
勝てない戦からは、離れる。この世界に「巻き込まれ」で放り出されて三年、その勘ひとつで食ってきた。
なのに。
「退かないで! 王都の兵が来るまで――あと少しだけ、ここに立っていて!」
銀色の髪が、戦場の真ん中で揺れていた。
若い女だ。軽装の鎧に、細身の剣。たった三十騎足らずで丘を駆け下り、崩れかけた隊列の一番大きな穴へ、迷いもなく飛び込んでいったのを、雷夕は斜面の上から見ていた。
勝て、とは言わなかった。
ただ、立っていてくれ、と。
その声ひとつで――崩れかけていた盾が、一枚、また一枚と、持ち上がっていく。
(……あーもう)
足が、止まらなかった。
(性分だから、仕方ないんだよなあ、これ)
*
ガッ――!
最初の一人は、こちらに気づいてすらいなかった。守備隊の盾に槍を突き込もうとしていた、その脇腹の継ぎ目へ、剣の腹を叩き込む。体勢を崩したところに、肩からぶつかる。帝国兵が、泥の上に転がった。
「な、何者だ!?」
盾を構えた守備隊の若い兵が、目を剥いた。
「通りすがり!」
「と、通りすが――」
「前見ろ、来るぞ!」
二人目の槍。速い。躱す。穂先が脇腹の布を浅く裂く。踏み込む。柄を掴む。引く。前のめりになった兜に、柄頭を叩きつける。
ゴツン。
三人目。四人目。
腕が重い。息が焼ける。
その視界の端で――銀髪が、走っていた。
馬を失ったのだろう。泥にまみれた足で、盾の列の外へ。倒れて動けなくなった守備隊の兵士の、その襟首を掴んで、引きずっている。
帝国兵の剣が、彼女の背中に振り下ろされた。
ギィンッ!
振り向きざまに、受けた。受けきれずに、刃が腕を掠める。赤い線が走る。
それでも、彼女は、兵士の襟首を離さなかった。
引きずって、引きずって、盾の内側へ放り込んで、それから、ようやく自分も盾の陰に転がり込む。
(――指揮官が、何やってんだよ)
呆れた。
呆れたのに、胸の奥が、妙に熱かった。
「――小僧」
その声だけが、喧騒の中で、妙に静かに耳に届いた。
「そこまでだ」
ぞわり、と。
背筋の産毛が、一本残らず逆立つ。
帝国軍の隊列が割れて、あの男が歩いてきていた。周りの兵とは仕立ての違う、磨き抜かれた鎧。戦場の泥の中で、その足元だけが汚れていない。こちらを見下ろす目には、怒りも焦りもない。足元の虫を眺めるような、ただの退屈。
その右の手のひらに、光が集まっていく。
キィィィィ――ン。
白い。
眩しいのではない。周囲の色も音も熱も吸い込んで、そこだけ世界から切り取ったような、空白の白。
見た瞬間に、分かった。
あれは、斬るものでも焼くものでもない。
――消す、ものだ。
躱せない。体のどこかが、もう理解してしまっている。どこへ逃げても、あれは届く。
ゴウッ――!
白が、放たれた。
――その、寸前。
銀色が、横切った。
*
バヂヂヂヂィッ――!!
硝子を擦り合わせたような音。
目の前に、魔法陣が咲いていた。幾重にも重なった細い線が、蜘蛛の巣のように円を描き、白い奔流を真正面から受け止めている。その中心で、小さな金属の円盤が、悲鳴を上げていた。
円盤を突き出しているのは、あの銀髪の女だった。
「大丈夫!? 動けるなら下がって――この盾、そう長くは保たない!」
振り向かない。光を睨みつけたまま。
さっき斬られた腕から、血が伝って、円盤を握る指を濡らしている。
肩が、震えていた。
膝も、声も。
小さく、彼女の唇が動くのが見えた。雷夕に向けた言葉ではなかった。たぶん、自分自身に言い聞かせるための。
「――今度は、私の番」
ピシッ。
魔法陣に、罅が走った。
ピシッ、ピシピシッ――!
蜘蛛の巣が、端から崩れていく。彼女の踵が、泥を削って、じり、と後ろへ押される。
――見ず知らずの。名前も知らない傭兵の前から、それでも、退かない。
(ふざけんなよ)
雷夕は、奥歯を噛んだ。
(そんな震えてる奴に、守られっぱなしでいられるか)
手は、ある。
『劣化』。
見た力を、劣化させてしか写せない、雷夕だけの固有スキル。しかも、写した力が何に化けるかは、完全な運任せ。この三年、まともに形になった試しは一度もない。
――だが。
何に化けるかは、選べない。
何を写すかは、選べる。
写すなら――この戦場で一番でかいやつだ。
あの白い光。全てを消すほどの力。それが劣化して、元の何分の一になったとしても。
でたらめに化けても、元がでかけりゃ、何かは起きる。
雷夕は、彼女の隣に、並んだ。
「悪い。礼は、後で言う」
「え――」
右の手のひらを、白い奔流へ。
「『劣化』――ッ!!」
ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
手のひらの奥から、何かがずるりと引き抜かれていく。体中の熱が、一気に吸い出される。
生まれたのは――白くない光だった。
淡い、薄紫。夜明け前の空気をそのまま固めたような、頼りない色。
それが渦を巻いて、崩れかけた魔法陣を抜け、白い奔流に、触れた。
――しん、と。
白が、勢いを失った。
水の底に沈む木の葉のように、ゆっくりと。速さが、重みが、抜け落ちていく。
そして、ふわり、と。
全てを消すはずの光の塊が、宙に浮いた。
薄紫の渦は、止まらずに広がっていく。
渦の縁に触れた帝国兵の槍が、すっぽ抜けて、くるくると舞い上がった。踏み込もうとした兵士の足が、地面を蹴った勢いのまま浮き上がり、仰向けにひっくり返る。
(――軽く、なってる?)
重いものが。重いはずのものが。
鎧も、槍も、人間も。
雷夕の頭が、一瞬で、冷えた。
軽くなる。
だったら――押せば、飛ぶ。
「――盾を構えろッ!!」
喉が裂けるほどに、叫んだ。
盾の陰で呆然としていた守備隊の兵たちが、びくりと肩を跳ねさせる。
「全員でだ! 前の連中、今は紙みたいに軽い――押せ! 押し込めッ!!」
両の手のひらを、前へ突き出す。
薄紫の渦が、その動きに引かれるように、ぐうっと前へ流れた。帝国軍の最前列を、まるごと呑み込む。
鈍色の兵たちの足が、一斉に、地面から浮いた。
一拍の、間。
「――お、押せぇえええッ!!」
さっきの若い兵が、真っ先に飛び出した。
盾ごと、ぶつかる。
ドンッ――!
帝国兵が、飛んだ。
盾に押された勢いのまま、木の葉のように宙を舞い、後ろの隊列へ背中から突っ込む。浮いた兵が後ろの兵を巻き込み、その兵がまた浮いて、さらに後ろを巻き込む。
ドンッ。ドンッ、ドドドッ――!
守備隊の盾が、次々にぶつかっていく。押すたびに、鈍色の兵が、面白いように吹き飛んでいく。
あれほど分厚かった帝国の隊列が、将棋倒しのように、崩れていった。
「――っ」
帝国軍の奥で、男が、再び手のひらをかざした。
キィィィ――ン。
白い光が、放たれる。
まっすぐに――銀髪の女へ。
雷夕は、考えるより先に、彼女の前へ飛び出していた。
さっきと、逆に。
光が迫る。
そして――雷夕の胸に届く寸前、薄紫の渦に呑まれて、ふわりと浮いた。
しゃぼん玉のように。
鼻先で、ふわふわと揺れて。
ぱちん、と。
弾けて、消えた。
「……は?」
男の間の抜けた声が、やけに大きく響いた。
背中の後ろで、彼女が、息を呑む気配がした。
「今の、は……」
「さあ。何が出るかは、俺にも分からん」
雷夕は、振り向かずに、肩をすくめた。
「――けど、使い道は、俺が決める」
*
――その言葉の、直後だった。
ずるり、と。
薄紫の渦が、手のひらの中へ、吸い込まれるように縮んだ。
消える。
広がっていた光が、ほつれた糸のように薄れ、端から溶けていく。宙を漂っていた泥の飛沫が、ぱらぱらと地面へ落ちはじめる。
(え――)
膝が、かくん、と折れた。
泥に片膝をつく。手のひらの痺れが、肘を越えて肩まで這い上がってくる。体の中の熱を、根こそぎ持っていかれたような寒気。
もう一度、と手のひらに力を込める。
何も、起きない。
手のひらの奥は、空っぽの井戸のように、しんと冷えていた。
顔を上げる。
崩れた隊列の向こうで、男が、自分の手のひらを見下ろしていた。握って、開く。
それから、ゆっくりと、こちらを見た。
さっきまでそこにあった退屈は、もう、どこにもなかった。
「――貴様」
低い声。
「今、何をした」
男の手のひらに、三度、白い光が集まりはじめる。
さっきよりも大きく。
さっきよりも、ずっと白く。
雷夕の手のひらは――空っぽのままだった。




