第3話 笑顔の下で
軍議から三日が経っていた。
工房の作業台には、いつも通り、依頼された魔道具の部品が、大小いくつも並んでいる。歯車、巻きバネ、小さく削られた魔石の欠片。ロゼリアは拡大鏡を額に固定し、その一つひとつを丁寧に磨き上げていた。だが、鑢を動かす手は、いつもより明らかに遅い。
「――手、止まってるぞ」
雷夕が声をかけると、ロゼリアは、はっとしたように顔を上げた。拡大鏡の奥、その目に一瞬、焦点の合わない色があった。
「……分かってる」
鑢を握り直し、また動かし始める。だが、こすれる音は、いつもより明らかに硬く、ぎこちなかった。
窓の外、城内の廊下を、兵たちが行き来している。表向きは、いつもと変わらない光景だった。巡回の足音、文官同士の挨拶、遠くから聞こえる炊事場の物音。だが、注意深く見れば、すれ違う兵たちの顔つきに、隠しきれない硬さが滲んでいる。誰もが、口には出さないまま、何かを待っている――そんな空気が、埃っぽい工房の隅々にまで、薄く染み込んでいるようだった。
*
昼過ぎ、雷夕は気晴らしを兼ねて、城下の市場へと足を運んだ。
石畳の坂道を下るにつれ、いつもなら威勢のいい呼び込みで賑わうはずの通りが、今日はどこか声を潜めているのに気づく。露店に並んだ野菜も果物も、色鮮やかさは変わらないのに、その前に立つ商人たちの表情だけが、妙に薄暗かった。時折、彼らの視線が、示し合わせたように西の空――国境の方角へと流れていく。
「兄さん、聞いたかい」
声をかけてきたのは、顔なじみになった八百屋の女将だった。日に焼けた腕で山盛りの芋を並べ直しながら、雷夕の方へ、値踏みするような目を向けてくる。
「国境の方、随分と物々しいらしいじゃないか」
「――噂は、耳にしてる」
「うちの息子も、予備兵として駆り出されるかもしれないんだ。物騒な話だよ、まったく」
女将は、そう言いながらも、口の端に、いつもの人懐こい笑みを浮かべていた。それが却って、彼女の抱える不安の大きさを物語っているようで、雷夕は、かける言葉を見つけられなかった。
「――何かあれば、すぐに知らせてくれ」
それだけ言い残し、雷夕はその場を後にした。足は、自然と、ハンナの店へと向いていた。
*
扉を押し開けると、いつもの油と香辛料が入り混じった匂いが、鼻先を掠めた。だが、店の中は、いつもより明らかに客がまばらだった。空いた席の方が多い店内は、どこか寒々しくすら見える。
「あら――雷夕さん。いらっしゃいませ」
カウンターの奥から顔を出したのは、フィオナだった。エプロンの裾で手を拭いながら、いつもの物腰柔らかな一礼をする。だが、その口元に浮かんだ微笑みには、いつものような弾みが、心なしか欠けていた。
「ハンナは」
「奥で、備蓄の確認をしています。……こういう時のために、色々と溜め込んでいるみたいで」
フィオナは、そう言うと、困ったように、けれど少しだけ悪戯っぽく、片方の眉を上げた。
「みんな、不安なんですよ。表には、出さないようにしていますけど」
カウンターの端では、リタが、いつものように大皿を抱えて配膳に走り回っていた。声を張り上げる元気さは変わらないが、その笑い声は、今日はどこか、いつもより控えめに聞こえた。
雷夕は、注文もそこそこに、店の隅の椅子に腰を下ろし、しばらく行き交う客たちの様子を眺めていた。
常連らしき老人たちが、声を潜めて何やら囁き合っている。若い夫婦は、幼い子供の手を固く握りながら、早々に会計を済ませて出ていった。誰もが、いつもと変わらない顔をしようとして、うまくいっていない。
(――みんな、待ってるんだな。俺たちと、同じように)
その事実が、なぜか、少しだけ気持ちを軽くした。
*
夕刻、城へ戻ると、廊下の向こうから、見知った足音が近づいてきた。硬質な靴音が、規則正しく石畳を叩いている。
「――ケイン」
「雷夕」
ケインは、いつもの生真面目な顔で、足を止めた。鎧の下、その頬には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。目の下には、薄く隈もできていた。
「国境は、どうなってる」
「――申し訳ありませんが」
ケインは、一瞬だけ言葉に詰まり、視線を僅かに逸らした。
「正式な情報は、まだ外には出せません。私の立場でも」
「分かってる。聞いて悪かった」
雷夕が引き下がろうとすると、ケインが、珍しく自分から口を開いた。
「――ただ」
「?」
「アリシア様は、この三日、ほとんど眠っておられません。将軍たちからの報告を、一つ残らず、ご自身の目で確認しておいでです」
その一言に、雷夕は、僅かに目を見開いた。脳裏に、地図を睨むアリシアの横顔が浮かぶ。
「そうか」
「雷夕たちのことも、決して忘れてはおられません。……それだけは、お伝えしておきたく」
ケインは、それだけ言うと、深く一礼し、来た時と同じ規則正しい足音を残して、去っていった。
*
その夜、雷夕は、自室の窓辺で、一人、剣の手入れをしていた。
卓上に置いた燭台の灯りが、鞘から抜いた刃に、鈍く反射している。布で刃を拭う、単調な作業。だが、その手つきは、いつになく丁寧だった。刃の根元から切っ先まで、一寸の油汚れも残さぬよう、何度も同じ動きを繰り返す。
砥石に刃を滑らせるたび、しゃり、しゃりと、乾いた音が、静かな部屋に規則正しく響いた。
(――いつ呼ばれてもいいように)
誰に言われたわけでもない。それでも、雷夕は、そうせずにはいられなかった。
扉を叩く音がしたのは、剣を鞘に収め、それを壁に立てかけた、ちょうどその時だった。
「――入るぞ」
断りもなく入ってきたのは、ロゼリアだった。片手に、小さな道具箱を抱えている。夜も遅いというのに、作業着のまま、髪も無造作に一つに束ねただけの姿だった。
「こんな時間に、何の用だ」
「暇だったから」
素っ気ない答えとともに、彼女は、断りもなく雷夕の向かいの椅子に腰を下ろした。
「――それに、一人で抱え込んでる顔してたから」
「そんな顔、してたか」
「してた」
ロゼリアは、道具箱の蓋を開けると、中から、見慣れた腕輪を取り出した。金属の飾りが、燭台の灯りを受けて、鈍く光る。
「調整、もう少しで終わりそうなの。付き合ってくれる?」
「今からか」
「今からよ」
有無を言わせぬ口調に、雷夕は、思わず苦笑した。
窓の外、城下の灯りが、まばらに揺れている。工具箱から取り出された小さな鑢の音が、また一つ、部屋に加わった。
いつ動き出すとも知れない戦を前に、二人は、できることを、ただ静かに積み重ねていった。




