第1話 進軍の理由
国境沿いの駐屯地に、伝令の馬が駆け込んできたのは、夜明け前のことだった。
蹄の音が、まだ眠りの残る陣営に響き渡る。天幕の間を縫うように駆け抜けた馬は、指揮官用の大きな天幕の前で、ようやく止まった。
「アルブレヒト様! バルトレン様より、至急の書状です!」
声を聞きつけ、天幕の垂れ布を払って出てきたのは、既に軍装を整えた壮年の男だった。
白髪の交じり始めた髪を、一分の乱れもなく後ろへ撫でつけている。着込んだ鎧は年季こそ感じさせるが、傷一つなく磨き上げられていた。眼光は鋭く、しかし荒々しさはない。長年、規律という枠の中で己を律してきた者特有の、静かな威圧感があった。
アルブレヒト・フォン・リンデン。帝国軍、国境守備の一角を預かる指揮官である。
「――もう届いたか」
差し出された書状を、彼は静かに受け取った。蝋で封をされた紋章に、一瞬だけ目を落としてから、封を切る。
薄明かりの中、文字を追う目が、僅かに細まった。
「クラウス」
名を呼ばれ、天幕の奥から現れたのは、まだ若さの残る副官だった。片手に地図の束を抱え、寝不足なのか、目の下に薄く隈が浮いている。
「はっ」
「レイフ砦周辺の拠点――シュテルン村を、制圧せよとのことだ」
クラウスの表情が、僅かに強張った。
「あの"劣化"を持つ傭兵を退けた、あのグレンタという女が、しくじった件を受けてのことでしょうか」
「そうだろうな」
アルブレヒトは、書状を丁寧に折り畳みながら答えた。
「バルトレン殿は、賞金稼ぎ一人に任せた自らの判断の甘さを、正規の兵で埋め合わせるおつもりだ」
その声に、皮肉の色は薄い。ただ、事実を淡々と述べているだけだった。
天幕の中央、粗末な卓の上に、クラウスが地図を広げる。国境線と、その先に点在するいくつかの村や砦が、細かく書き込まれていた。
「シュテルン村は、レイフ砦を支える補給の要所です。ここを落とせば、砦そのものの機能も、大きく削がれるかと」
「うむ」
アルブレヒトは、地図の上、村の位置を指先でなぞった。
「――兵の数は」
「こちらで動かせるのは、二千。対するイヴァルキア側の駐屯戦力は、精々が数百かと」
「十分すぎる差だな」
クラウスが、地図から顔を上げた。
「では、村ごと」
「いや」
アルブレヒトは、即座にそれを遮った。
「民間人には、手を出すな。抵抗する兵のみを制圧すればいい。それ以上は、不要な殺生だ」
「――しかし、時間がかかれば、それだけこちらの被害も」
「言った通りにしろ」
静かだが、有無を言わせぬ声だった。
クラウスは、一瞬だけ何かを言いかけ、それを飲み込むと、深く頭を下げた。
「――畏まりました」
アルブレヒトは、天幕の入り口へと歩み寄り、垂れ布を払った。
整然と並んだ天幕の群れ。燃え尽きかけた焚き火の残り火。武具を手入れする兵たちの、規則正しい金属音。
その全てを、静かに見渡す。
(――帝国の版図が広がることは、その地に、秩序と繁栄をもたらす)
それが、アルブレヒトの信じる理だった。奪う為の戦ではない。導く為の戦だと、彼は本気でそう思っていた。
だからこそ、無意味な殺生は許さない。奪う土地の民もまた、いずれ帝国の民となるのだから。
「クラウス」
「はっ」
「兵を集めよ。夜明けと共に、出立する」
「――御意」
クラウスが、天幕を飛び出していく。
残されたアルブレヒトは、もう一度、手の中の書状に目を落とした。
紙面に記された「シュテルン村」の文字を、指先でそっと撫でる。
(――穏便に済むことを、祈るがな)
誰に聞かせるでもないその呟きは、燃え尽きた焚き火の煙に紛れて、静かに消えていった。




