プロローグ 麦の匂いのする村
――カコンッ。
乾いた薪が、斧の刃に割られて、小気味よく左右へ跳ねた。
マルタは額の汗を手の甲で拭い、割れた薪を拾い上げて、軒下の山へと積み重ねた。
腰を伸ばす。背骨の節が、ぽき、と小さく鳴る。
(――今日は、これくらいでいいかしら)
家の裏手の薪置き場は、もう軒の高さまで埋まりかけていた。
冬はまだ遠い。それでも、余分に割っておいて困ることはない。この村で暮らしていれば、誰でも自然とそういう手の動かし方を覚える。
風が、吹いた。
柵の向こうから、麦の匂いが押し寄せてくる。
陽に炙られた穂の、香ばしく甘い匂い。土の匂い。どこかの家の竈から漂う、焼きかけのパンの匂い。
シュテルン村は、そういう匂いのする村だった。
*
「――お母さぁんっ!」
柵の切れ目から、小さな影が転がるように駆け込んできた。
リーゼだった。
両手に、何かを大事そうに握りしめている。息を弾ませ、頬を真っ赤に上気させ、編んでやったばかりの栗色の髪の先が、ぴょこぴょこと背中で跳ねていた。
「見て、見て! 川のとこで見つけたの!」
突き出された小さな拳が、ぱっと開く。
掌の上に載っていたのは、白い小花だった。
細い茎の先に、爪の先ほどの花弁が五枚。走ってくる間に握りしめすぎたのだろう、茎はくたりと折れ曲がり、花弁の一枚が、少しだけ欠けていた。
「あら、綺麗ね」
「でしょ! これね、お父さんにあげるの!」
「お父さんに?」
「うん! だって、お父さん、毎日麦のお世話してるのに、誰もお花あげないんだもん。かわいそう」
真剣そのものの顔で言い切る娘に、マルタは思わず噴き出しそうになるのを、どうにか堪えた。
「……そうね。きっと、喜ぶわ」
「ほんと?」
「ほんとよ。お父さん、リーゼからもらったものなら、石ころだって大事にしまっておく人だもの」
リーゼは満足げに頷くと、折れた茎を、指先でそっと真っ直ぐに伸ばそうとした。
伸びない。何度やっても、くたりと曲がる。
小さな眉が、ぎゅっと寄った。
「……曲がっちゃった」
「水に挿しておけば、少しは元気になるわよ。ほら、こっち」
井戸の脇に置いてある、縁の欠けた素焼きの小鉢に水を汲んでやる。
リーゼは、まるで宝物を寝かしつけるような手つきで、白い小花をそこに挿した。
折れた茎が、水の中で、ほんの少しだけ、頭を持ち上げた――ような気がした。
「あ、起きた!」
「起きたわね」
「お誕生日だから、お花も元気出したんだ!」
(――そうね)
今日で、六つ。
ついこの間まで、腕の中で泣くことしかできなかった子が、もう、誰かのために花を摘んでくるようになった。
マルタは、娘の汗ばんだ前髪を、そっと指先で払ってやった。
*
昼を過ぎた頃、村の真ん中を貫く街道を、幌をかけた荷馬車が三台、ごとごとと西へ抜けていった。
荷台には、麦の詰まった袋が、ぎっしりと積まれている。
御者台の脇を、イヴァルキアの青い紋章を胸に縫い付けた兵が二人、馬に乗って並走していた。
「――レイフの砦行きかい」
井戸端で洗い物をしていた隣家の老婆が、皺だらけの手を止めて、目を細めた。
腰はとうに曲がりきって、杖なしではろくに歩けない。それでも、口だけは村の誰よりも達者な人だった。
「今月は、もう三度目ですね」
「ああ。この村の麦がなきゃ、砦の兵隊さんたちは干上がっちまうからねえ」
老婆は、どこか誇らしげに、ふん、と鼻を鳴らした。
「あたしの爺さんの、そのまた爺さんの頃から、そうさね。西の砦が腹を空かさずに済んでるのは、シュテルンの麦のおかげさ。――あの若い兵隊さんたちも、あたしらの麦で育ったパンを食べて、国境を守ってるんだよ」
荷馬車の最後尾で、並走していた兵の一人が、井戸端の二人に気づいて、軽く手を挙げた。
まだ少年の面影が残る顔だった。
老婆が、杖を振り上げて応える。兵は、照れくさそうに笑って、馬の腹を軽く蹴った。
車輪の軋む音が、街道の先へ、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……国境の方、最近どうなんでしょうね」
ぽつりと零した言葉に、老婆は、洗いかけの鍋を桶に沈めながら、肩をすくめた。
「さあねえ。帝国の連中が何を考えてるかなんて、あたしみたいな婆には分かりゃしないよ」
「そう、ですよね」
「でもね、マルタ」
老婆の濁った目が、ひたとマルタを見上げた。
「あたしは八十年、この村で麦を見てきた。戦の噂なんてのは、その間に何べんも来ては、何べんも過ぎてったよ。そのたびに若い連中は青い顔をしたけどね――麦は、毎年ちゃあんと実った」
ざぶり、と鍋が水から引き上げられる。
「だから、あんたも余計な心配はおよし。そういう顔してると、リーゼちゃんにうつるよ」
「……はい」
マルタは、小さく笑って頷いた。
その笑みが、自分でも少しだけぎこちないことには、気づかないふりをした。
*
夕方。
畑から戻ってきたヨナスは、土埃にまみれた顔のまま、家の戸口で立ち止まった。
戸口の脇の木箱の上に、縁の欠けた素焼きの小鉢が、ちょこんと置かれている。
白い小花が一輪。折れ曲がった茎を、精一杯に持ち上げて。
その隣で、リーゼが、両手を後ろに組んで、ぴんと背筋を伸ばして立っていた。
「――お父さん、おかえりなさい!」
「お、おう。ただいま」
ヨナスは、日に焼けた大きな手で、首の後ろを掻いた。
がっしりとした肩。節くれだった指。麦の穂先で引っ掻いたらしい細い傷が、前腕に幾筋も走っている。
娘の不自然なほどの姿勢の良さに、何かを察したのだろう。マルタの方へ、ちらりと助けを求めるような目を向けてくる。
マルタは、素知らぬ顔で、鍋をかき混ぜ続けた。
「……あー、リーゼ。それは?」
「お父さんに! お花!」
リーゼが、両手で小鉢を持ち上げて、ずい、と父親の前に突き出した。
「毎日麦のお世話してるのに、誰もお花あげないから! だから、リーゼがあげるの!」
ヨナスは、しばらく、目の前の白い小花を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。
娘と目の高さを合わせて、土に汚れた指先で、欠けた花弁の縁に、ほんのかすかに触れる。
壊れ物に触れるような、ひどく慎重な手つきだった。
「――そうか」
声が、少しだけ掠れていた。
「お父さん、花なんてもらったの、生まれて初めてだ」
「ほんと!?」
「ほんとだ。……ありがとうな、リーゼ」
大きな手が、娘の頭の上に、ぽん、と載った。
リーゼが、くすぐったそうに首をすくめて、それから、満面の笑みで父親の首に飛びついた。
「わっ――こら、お父さん、泥だらけだぞ」
「いいの!」
「よくない、お母さんに怒られる」
「怒らないわよ」
鍋の前から、マルタは振り返らずに言った。
「今日だけはね」
背中越しに、ヨナスが小さく笑う気配がした。
*
夕餉の卓には、いつもより一品多く皿が並んだ。
刻んだ香草を練り込んだ、平たい焼き菓子。蜂蜜を、ほんのひと匙だけ垂らしてある。
この村では、子供の誕生日に母親が焼くものと、昔から決まっていた。
「――六つ、おめでとう」
ヨナスが、木の杯を軽く掲げる。
中身は、ただの井戸水だ。それでも、リーゼは父親を真似て、自分の小さな杯を、精一杯の高さまで持ち上げた。
かつん、と。
木と木が触れ合う、丸く鈍い音。
焼き菓子を頬張ったリーゼの口の周りが、蜂蜜でべたべたになる。それを拭ってやろうとしたマルタの指を、リーゼが嫌がって首を振る。その拍子に、焼き菓子の欠片が、ヨナスの膝の上に落ちる。
「あ」
「――あー」
「ごめんなさーい」
少しも悪いと思っていない顔で笑う娘に、夫婦は顔を見合わせて、どちらからともなく噴き出した。
卓の真ん中には、あの縁の欠けた小鉢が置かれていた。
蝋燭の灯を受けて、白い小花が、淡く、柔らかく光っている。
*
夜が更けた。
リーゼは、蜂蜜の匂いを口の端に残したまま、寝台の上で丸くなって眠っている。
小さな胸が、規則正しく上下する。時折、むにゃむにゃと何事か寝言を呟いては、また深い寝息に戻っていく。
マルタは、戸口の外に出て、夜気を吸い込んだ。
ひんやりとした風。
虫の音。
遠くで、どこかの家の犬が、一声だけ吠えて、また静かになる。
隣に、ヨナスが並んだ。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
「……今日、砦行きの荷馬車が通ったわ」
「ああ。畑からも見えた」
「今月、三度目ですって」
ヨナスは、すぐには答えなかった。
闇の向こう、西の方角へ、じっと目を凝らしている。
そこには何も見えない。ただ、夜の底に沈んだ麦畑が、風に撫でられて、さわさわと波打っているだけだ。
「――なあ、マルタ」
「なに」
「もし、何かあったら」
夫の声は、低く、静かだった。
「その時は、お前はリーゼを連れて、先に行け。振り返らずにだ。俺は、後から必ず行く」
マルタは、夫の横顔を見上げた。
冗談を言っている顔ではなかった。
かといって、何か確かなことを知っている顔でもない。ただ、この村で生まれて、この村で麦を育ててきた男が、風の匂いの中に、何か小さな違和感を嗅ぎ取っている――そういう顔だった。
「……縁起でもないこと、言わないで」
「悪い」
ヨナスは、苦笑して頭を掻いた。
「お隣のばあさんに聞かれたら、杖で叩かれるな」
「叩かれるわよ。八十年、戦の噂は何べんも来ては過ぎてったんだから、って」
「ああ。あの人なら、そう言う」
二人で、小さく笑った。
笑い声は、すぐに夜の静けさに吸い込まれていった。
*
家の中に戻ると、卓の上の小鉢が、月明かりの中にぽつんと残っていた。
折れていた白い小花の茎は、いつの間にか、ほとんど真っ直ぐに伸びていた。
欠けた花弁はそのままに、それでも、精一杯に頭を持ち上げて、窓の外の夜を見上げている。
マルタは、その小鉢を、そっと窓辺へ移した。
明日の朝、一番に陽が当たる場所へ。
(――おやすみなさい)
眠る娘の髪を、もう一度だけ撫でて、マルタは寝台に横たわった。
隣で、ヨナスの寝息が、ほどなく深くなっていく。
麦の匂いのする風が、窓の隙間から、静かに吹き込んでいた。
――それが、シュテルン村の、最後の穏やかな夜だった。




