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レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第2章 西の砦の篝火

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プロローグ 麦の匂いのする村

――カコンッ。


乾いた薪が、斧の刃に割られて、小気味よく左右へ跳ねた。


マルタは額の汗を手の甲で拭い、割れた薪を拾い上げて、軒下の山へと積み重ねた。

腰を伸ばす。背骨の節が、ぽき、と小さく鳴る。


(――今日は、これくらいでいいかしら)


家の裏手の薪置き場は、もう軒の高さまで埋まりかけていた。

冬はまだ遠い。それでも、余分に割っておいて困ることはない。この村で暮らしていれば、誰でも自然とそういう手の動かし方を覚える。


風が、吹いた。


柵の向こうから、麦の匂いが押し寄せてくる。

陽に炙られた穂の、香ばしく甘い匂い。土の匂い。どこかの家の竈から漂う、焼きかけのパンの匂い。


シュテルン村は、そういう匂いのする村だった。


*


「――お母さぁんっ!」


柵の切れ目から、小さな影が転がるように駆け込んできた。


リーゼだった。


両手に、何かを大事そうに握りしめている。息を弾ませ、頬を真っ赤に上気させ、編んでやったばかりの栗色の髪の先が、ぴょこぴょこと背中で跳ねていた。


「見て、見て! 川のとこで見つけたの!」


突き出された小さな拳が、ぱっと開く。


掌の上に載っていたのは、白い小花だった。

細い茎の先に、爪の先ほどの花弁が五枚。走ってくる間に握りしめすぎたのだろう、茎はくたりと折れ曲がり、花弁の一枚が、少しだけ欠けていた。


「あら、綺麗ね」


「でしょ! これね、お父さんにあげるの!」


「お父さんに?」


「うん! だって、お父さん、毎日麦のお世話してるのに、誰もお花あげないんだもん。かわいそう」


真剣そのものの顔で言い切る娘に、マルタは思わず噴き出しそうになるのを、どうにか堪えた。


「……そうね。きっと、喜ぶわ」


「ほんと?」


「ほんとよ。お父さん、リーゼからもらったものなら、石ころだって大事にしまっておく人だもの」


リーゼは満足げに頷くと、折れた茎を、指先でそっと真っ直ぐに伸ばそうとした。

伸びない。何度やっても、くたりと曲がる。


小さな眉が、ぎゅっと寄った。


「……曲がっちゃった」


「水に挿しておけば、少しは元気になるわよ。ほら、こっち」


井戸の脇に置いてある、縁の欠けた素焼きの小鉢に水を汲んでやる。

リーゼは、まるで宝物を寝かしつけるような手つきで、白い小花をそこに挿した。


折れた茎が、水の中で、ほんの少しだけ、頭を持ち上げた――ような気がした。


「あ、起きた!」


「起きたわね」


「お誕生日だから、お花も元気出したんだ!」


(――そうね)


今日で、六つ。


ついこの間まで、腕の中で泣くことしかできなかった子が、もう、誰かのために花を摘んでくるようになった。


マルタは、娘の汗ばんだ前髪を、そっと指先で払ってやった。


*


昼を過ぎた頃、村の真ん中を貫く街道を、幌をかけた荷馬車が三台、ごとごとと西へ抜けていった。


荷台には、麦の詰まった袋が、ぎっしりと積まれている。

御者台の脇を、イヴァルキアの青い紋章を胸に縫い付けた兵が二人、馬に乗って並走していた。


「――レイフの砦行きかい」


井戸端で洗い物をしていた隣家の老婆が、皺だらけの手を止めて、目を細めた。

腰はとうに曲がりきって、杖なしではろくに歩けない。それでも、口だけは村の誰よりも達者な人だった。


「今月は、もう三度目ですね」


「ああ。この村の麦がなきゃ、砦の兵隊さんたちは干上がっちまうからねえ」


老婆は、どこか誇らしげに、ふん、と鼻を鳴らした。


「あたしの爺さんの、そのまた爺さんの頃から、そうさね。西の砦が腹を空かさずに済んでるのは、シュテルンの麦のおかげさ。――あの若い兵隊さんたちも、あたしらの麦で育ったパンを食べて、国境を守ってるんだよ」


荷馬車の最後尾で、並走していた兵の一人が、井戸端の二人に気づいて、軽く手を挙げた。


まだ少年の面影が残る顔だった。

老婆が、杖を振り上げて応える。兵は、照れくさそうに笑って、馬の腹を軽く蹴った。


車輪の軋む音が、街道の先へ、ゆっくりと遠ざかっていく。


「……国境の方、最近どうなんでしょうね」


ぽつりと零した言葉に、老婆は、洗いかけの鍋を桶に沈めながら、肩をすくめた。


「さあねえ。帝国の連中が何を考えてるかなんて、あたしみたいな婆には分かりゃしないよ」


「そう、ですよね」


「でもね、マルタ」


老婆の濁った目が、ひたとマルタを見上げた。


「あたしは八十年、この村で麦を見てきた。戦の噂なんてのは、その間に何べんも来ては、何べんも過ぎてったよ。そのたびに若い連中は青い顔をしたけどね――麦は、毎年ちゃあんと実った」


ざぶり、と鍋が水から引き上げられる。


「だから、あんたも余計な心配はおよし。そういう顔してると、リーゼちゃんにうつるよ」


「……はい」


マルタは、小さく笑って頷いた。


その笑みが、自分でも少しだけぎこちないことには、気づかないふりをした。


*


夕方。


畑から戻ってきたヨナスは、土埃にまみれた顔のまま、家の戸口で立ち止まった。


戸口の脇の木箱の上に、縁の欠けた素焼きの小鉢が、ちょこんと置かれている。

白い小花が一輪。折れ曲がった茎を、精一杯に持ち上げて。


その隣で、リーゼが、両手を後ろに組んで、ぴんと背筋を伸ばして立っていた。


「――お父さん、おかえりなさい!」


「お、おう。ただいま」


ヨナスは、日に焼けた大きな手で、首の後ろを掻いた。

がっしりとした肩。節くれだった指。麦の穂先で引っ掻いたらしい細い傷が、前腕に幾筋も走っている。


娘の不自然なほどの姿勢の良さに、何かを察したのだろう。マルタの方へ、ちらりと助けを求めるような目を向けてくる。


マルタは、素知らぬ顔で、鍋をかき混ぜ続けた。


「……あー、リーゼ。それは?」


「お父さんに! お花!」


リーゼが、両手で小鉢を持ち上げて、ずい、と父親の前に突き出した。


「毎日麦のお世話してるのに、誰もお花あげないから! だから、リーゼがあげるの!」


ヨナスは、しばらく、目の前の白い小花を見下ろしていた。


それから、ゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。

娘と目の高さを合わせて、土に汚れた指先で、欠けた花弁の縁に、ほんのかすかに触れる。


壊れ物に触れるような、ひどく慎重な手つきだった。


「――そうか」


声が、少しだけ掠れていた。


「お父さん、花なんてもらったの、生まれて初めてだ」


「ほんと!?」


「ほんとだ。……ありがとうな、リーゼ」


大きな手が、娘の頭の上に、ぽん、と載った。

リーゼが、くすぐったそうに首をすくめて、それから、満面の笑みで父親の首に飛びついた。


「わっ――こら、お父さん、泥だらけだぞ」


「いいの!」


「よくない、お母さんに怒られる」


「怒らないわよ」


鍋の前から、マルタは振り返らずに言った。


「今日だけはね」


背中越しに、ヨナスが小さく笑う気配がした。


*


夕餉の卓には、いつもより一品多く皿が並んだ。


刻んだ香草を練り込んだ、平たい焼き菓子。蜂蜜を、ほんのひと匙だけ垂らしてある。

この村では、子供の誕生日に母親が焼くものと、昔から決まっていた。


「――六つ、おめでとう」


ヨナスが、木の杯を軽く掲げる。

中身は、ただの井戸水だ。それでも、リーゼは父親を真似て、自分の小さな杯を、精一杯の高さまで持ち上げた。


かつん、と。


木と木が触れ合う、丸く鈍い音。


焼き菓子を頬張ったリーゼの口の周りが、蜂蜜でべたべたになる。それを拭ってやろうとしたマルタの指を、リーゼが嫌がって首を振る。その拍子に、焼き菓子の欠片が、ヨナスの膝の上に落ちる。


「あ」


「――あー」


「ごめんなさーい」


少しも悪いと思っていない顔で笑う娘に、夫婦は顔を見合わせて、どちらからともなく噴き出した。


卓の真ん中には、あの縁の欠けた小鉢が置かれていた。


蝋燭の灯を受けて、白い小花が、淡く、柔らかく光っている。


*


夜が更けた。


リーゼは、蜂蜜の匂いを口の端に残したまま、寝台の上で丸くなって眠っている。

小さな胸が、規則正しく上下する。時折、むにゃむにゃと何事か寝言を呟いては、また深い寝息に戻っていく。


マルタは、戸口の外に出て、夜気を吸い込んだ。


ひんやりとした風。

虫の音。

遠くで、どこかの家の犬が、一声だけ吠えて、また静かになる。


隣に、ヨナスが並んだ。


しばらく、二人とも、何も言わなかった。


「……今日、砦行きの荷馬車が通ったわ」


「ああ。畑からも見えた」


「今月、三度目ですって」


ヨナスは、すぐには答えなかった。


闇の向こう、西の方角へ、じっと目を凝らしている。

そこには何も見えない。ただ、夜の底に沈んだ麦畑が、風に撫でられて、さわさわと波打っているだけだ。


「――なあ、マルタ」


「なに」


「もし、何かあったら」


夫の声は、低く、静かだった。


「その時は、お前はリーゼを連れて、先に行け。振り返らずにだ。俺は、後から必ず行く」


マルタは、夫の横顔を見上げた。


冗談を言っている顔ではなかった。

かといって、何か確かなことを知っている顔でもない。ただ、この村で生まれて、この村で麦を育ててきた男が、風の匂いの中に、何か小さな違和感を嗅ぎ取っている――そういう顔だった。


「……縁起でもないこと、言わないで」


「悪い」


ヨナスは、苦笑して頭を掻いた。


「お隣のばあさんに聞かれたら、杖で叩かれるな」


「叩かれるわよ。八十年、戦の噂は何べんも来ては過ぎてったんだから、って」


「ああ。あの人なら、そう言う」


二人で、小さく笑った。


笑い声は、すぐに夜の静けさに吸い込まれていった。


*


家の中に戻ると、卓の上の小鉢が、月明かりの中にぽつんと残っていた。


折れていた白い小花の茎は、いつの間にか、ほとんど真っ直ぐに伸びていた。

欠けた花弁はそのままに、それでも、精一杯に頭を持ち上げて、窓の外の夜を見上げている。


マルタは、その小鉢を、そっと窓辺へ移した。


明日の朝、一番に陽が当たる場所へ。


(――おやすみなさい)


眠る娘の髪を、もう一度だけ撫でて、マルタは寝台に横たわった。


隣で、ヨナスの寝息が、ほどなく深くなっていく。


麦の匂いのする風が、窓の隙間から、静かに吹き込んでいた。


――それが、シュテルン村の、最後の穏やかな夜だった。


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