エピローグ 朝は、普通
目が覚めたのは、いつもと同じ刻限だった。
宛がわれた城の一室。窓の木戸の隙間から、細く冷たい朝の風が吹き込んでくる。寝台の脇の小卓には、昨夜脱ぎ捨てた上着が、袖を片方裏返したまま丸まっていた。
霧島雷夕は、天井を見上げたまま、ぼんやりと瞬きを繰り返した。
(……頭、痛くないな)
意外だった。
昨夜はハンナの店で、それなりに飲んだはずだ。ハンナに背中を叩かれるたびに杯が満たされ、リタが瓶を抱えて転ぶたびに笑い声が上がり、オズワルドの昔語りが四回目に差しかかった辺りから、記憶の輪郭が少しずつ曖昧になっている。
それでも、体は驚くほど軽かった。
肩を回す。
グレンタに斬られた傷は、薄く引き攣れた痕を残して、すっかり塞がっていた。突っ張る感覚も、もうほとんどない。
「――朝は、普通、ね」
昨夜の妙な問答を思い出して、雷夕は一人で小さく噴き出した。
好きな食べ物は。朝は強いか。
あれが一体何の審査だったのか、結局最後まで分からなかった。
*
顔を洗おうと井戸のある裏庭へ向かう途中、厨房の脇の廊下で、雷夕は足を止めた。
壁際の長椅子に、誰かが沈み込んでいる。
仕立ての良い上着。いつもなら丁寧に撫でつけられているはずの白髪が、今朝は寝癖で片側だけ鳥の巣のように跳ね上がっていた。両手で額を押さえ、微動だにしない。
その傍らには、水の入った陶器の水差しと、空になった杯が三つ。
「……オズワルド、さん?」
恐る恐る声をかけると、老人は、錆びついた蝶番のような鈍さで、ゆっくりと顔を上げた。
目の下に、くっきりと隈が浮いている。昨夜の、刃物のように鋭かった眼光の面影は、どこにもなかった。
「――傭兵殿か」
声まで掠れている。
「大丈夫か。顔色、すごいことになってるぞ」
「大事ない。……少し、頭の中で鐘が鳴っているだけだ」
「それは大事って言うんだよ」
雷夕は、水差しから杯に水を注いで差し出した。オズワルドは、それを震える手で受け取り、一息に飲み干す。四つ目の空の杯が、長椅子の上に並んだ。
しばらく、沈黙があった。
厨房の奥から、鍋の蓋が鳴る音と、朝餉の支度に追われる料理番たちの声が漏れ聞こえてくる。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、廊下にまで漂っていた。
「……傭兵殿」
「ん?」
「一つ、確かめておきたい」
オズワルドが、空の杯を握ったまま、じろりとこちらを見上げた。
その目に、ほんの僅かだけ、昨夜の鋭さが戻る。
「昨夜、わしは――何か、余計なことを言ったか」
雷夕は、少しだけ考えた。
アリシアが幼い頃に体が弱かった話。枕元で夜を明かした話。それを、三回――いや、四回だったか。お嬢様と呼んで本人に怒鳴られた話。机に突っ伏して寝た話。ケインに背負われて、寝言で「風邪ひくなよ」と言っていた話。
「……いや。特には」
「そうか」
オズワルドは、心底ほっとしたように、深く息を吐いた。
「ならば、よい」
(――優しい嘘ってのは、こういう時のためにあるんだよな)
背負われて帰ったことを本人が覚えていないなら、わざわざ教えてやる必要もない。そのうち、ロゼリア辺りが嬉々として教えるだろうし。
雷夕は、オズワルドの肩を軽く叩いて、その場を離れようとした。
「――傭兵殿」
背中に、声が掛かる。
振り返ると、老人は額を押さえたまま、目だけをこちらに向けていた。
「アリシア様なら、城壁の上におられる。……朝は、いつもあそこだ」
「なんで俺に、それを」
「さてな」
オズワルドは、ふい、と目を逸らした。
「及第点の者に、少しばかり便宜を図っただけだ。――行け。わしは、もう少しここで鐘の音を聞いている」
*
城壁の上へは、東の塔の螺旋階段から上がれた。
石の段は、長い年月に踏まれて、真ん中だけが浅く窪んでいる。一段ごとに、足音が塔の内壁に跳ね返って、くぐもった響きを残した。壁の所々に穿たれた細い矢狭間から、朝の光が刃のように斜めに差し込み、宙を漂う細かな埃をきらきらと浮かび上がらせている。
最後の段を上りきると、急に視界が開けた。
城壁の上の歩廊は、大人が三人並んで歩ける程度の幅だった。外側には胸の高さほどの胸壁が凸凹と連なり、内側には転落防止の低い石の縁。石畳の継ぎ目には、しぶとく根を張った小さな苔が、朝露を吸って濃い緑に光っている。
風が、強い。
見下ろせば、城下の町並みが一望できた。
軒を連ねる屋根。その間を縫う石畳の通り。あちこちの煙突から、細い煙が幾筋も立ち上り始めている。市場の方角からは、荷車の車輪が石を噛む音と、早くも店を開け始めた商人たちの呼び声が、風に乗って切れ切れに届いてくる。
そして、ところどころで――。
ぱちり、ぱちり、と。
夜通し灯っていた魔道具の街灯が、一つ、また一つと、自ら灯を落としていくのが見えた。
(――この国らしい朝だな)
初めてこの城下を歩いた日、雷夕の目に留まったものの一つが、あの街灯だった。それが、こうして朝になれば律儀に消えていく様を上から眺めるのは、今日が初めてだった。
その景色の手前。
胸壁に両肘を預けて、一人の娘が、町を見下ろしていた。
銀の髪が、風に煽られて、細く長く後ろへ流れている。いつもの上質な衣装ではなく、生成りの簡素な上衣に、肩から薄手の外套を一枚引っかけただけの格好だった。
「――おはよう」
声をかけると、アリシアは振り返りもせずに答えた。
「おはよう。……オズワルドね」
「なんで分かる」
「ここを知ってる人は、少ないもの」
ようやくこちらを向いたアリシアの顔は、昨夜の宴の名残なのか、少しだけ眠たげだった。それでも、目元はすっきりとしている。
「あの人、まだ廊下で唸ってた?」
「頭の中で鐘が鳴ってるそうだ」
「毎回そう言うのよ。次の宴でも、また同じだけ飲むくせに」
呆れたように言いながら、アリシアの口元は緩んでいた。
雷夕は、彼女の隣に並んで、同じように胸壁に肘をついた。
石が、ひやりと冷たい。
「それと、昨夜わしは何か言ったか、って聞かれた」
「……なんて答えたの」
「特に何も、って」
一拍。
アリシアが、ぷっ、と噴き出した。
「――優しいのね」
「だろ。恩返しの一環だ」
「それ、オズワルドに対してじゃないでしょう」
「アリシアに対して、だな。四回も聞かされた本人が一番恥ずかしいだろうから」
「三回よ」
即座に訂正が飛んでくる。
「四回目は、話し始めたところで私が止めたもの」
「あ、そうだっけ」
「そうよ」
むっとした顔で言い張るアリシアに、雷夕は堪えきれずに笑った。
*
しばらく、二人で町を眺めていた。
眼下の通りを、パン籠を抱えた子供が駆けていく。その後ろを、母親らしき女が何か叫びながら追いかけていく。職人街の方角からは、早くも鎚の音が響き始めていた。カン、カン、と規則正しく、迷いのない音。
(――ロゼリア、もう起きてるな、あれ)
昨夜、ケインに杯を押しつけてけらけら笑っていた張本人が、もう炉に火を入れているのだと思うと、妙に可笑しかった。
「……なあ」
「なに」
「一つ、ずっと聞きそびれてたことがあるんだけど」
アリシアが、こちらを見る。
雷夕は、町並みに目を向けたまま続けた。
「あの日――初めて会った日。なんで、あんたが前線にいたんだ?」
風が、二人の間を吹き抜けていった。
「シュタイン村の時は、城で頼んで、城で待ってただろ。グレンタの時も、城から見送ってくれた。領主ってのは、本来そういうもんなんだろうなって、ここで暮らしてるうちに分かってきた。――だから、余計に気になってさ。あの日のあんたは、剣を握って、一番前で、魔道具の盾を構えてた」
アリシアは、すぐには答えなかった。
胸壁の上で組んだ自分の指先を、じっと見つめている。
「……あれは、例外よ」
やがて、ぽつりと言った。
「国境の防衛線が、崩れる寸前だったの。王都の兵を集めて送り出しても、間に合わなかった。だから、近衛の騎兵だけ連れて、先に駆けた」
「領主自ら?」
「領主自ら」
アリシアは、少しだけ肩をすくめた。
「兵の数で押し返せる状況じゃなかったわ。必要だったのは、崩れかけている兵が、あと少しだけ踏みとどまる理由。――領主の旗が後ろにあるのと隣にあるのとでは、違うでしょう?」
「……なるほどな」
「オズワルドには、ものすごく反対されたけど」
「だろうな」
あの老人が、あの鋭い目で正論を並べ立てる様が、ありありと目に浮かぶ。
「でも、本来は、駄目なのよ」
アリシアの声が、少しだけ低くなった。
「私が斃れたら、この国は頭を失う。帝国にとって、それ以上の戦果はない。だから領主は、国を空にして飛び出しちゃいけないの。……あの日は、それでも行くしかなかった。でも、二度目があってはいけない。――そういう、例外」
「ふうん」
雷夕は、胸壁に預けていた顎を少しだけ持ち上げた。
「じゃあ俺、その一回きりの例外に命拾いしたわけか」
「そういうことになるわね」
「……運、良すぎないか、俺」
「本当にね」
くすりと笑ってから、アリシアは、悪戯っぽく横目でこちらを見た。
「だから、次は期待しないで。あなたがまた死にかけても、私はもう飛んでいけないから」
「死にかける前提で話すのやめてくれ」
「前科があるでしょう。この前も、肩を斬られて帰ってきたばかり」
「あれは、かすっただけで――」
「かすっただけで、あの巻き方はしないでしょう」
ぐうの音も出なかった。
雷夕は、無意識に右肩を撫でた。もう痛まない傷痕が、指の腹の下で、薄く盛り上がっている。
「……善処する」
「ええ。善処して」
満足げに頷いて、アリシアは、また町の方へ視線を戻した。
*
鎚の音が、いつの間にか二つに増えていた。
市場の方角では、誰かが大声で値切り合っている。どこかの家の窓が開いて、布団を叩く、ぱん、ぱん、という乾いた音が混じり始めた。
町が、すっかり目を覚ましていく。
「――ねえ」
今度は、アリシアの方から口を開いた。
「昨夜、オズワルドに聞かれていたでしょう。恩を返し終えたら、どうするのかって」
「……聞こえてたのか」
「少し離れていただけで、同じお店の中よ。聞こえるに決まってるじゃない」
それもそうだ。
雷夕は、頭を掻いた。
「考えたこともない、って言ったな、俺」
「言ってたわね」
「無計画にも程がある、って呆れられた」
「それも、聞いてた」
アリシアは、胸壁の上で組んだ指を、所在なさげにほどいては、また組み直していた。
何かを言おうとして、言葉を選んでいる。そういう時の仕草だと、雷夕にもそろそろ分かるようになってきた。
「……今も、考えてない?」
「考えてない」
雷夕は、即答した。
「正直、どれくらい返せば返し終わったことになるのかも、よく分かってないんだ。命一個分って、どう数えりゃいいんだ」
「――数えなくていいわよ、そんなもの」
「いや、数えないと終わらないだろ」
「終わらなくて、いいんじゃない?」
ぽろりと、零れたような声だった。
雷夕は、思わず隣を見た。
アリシアは、町を見下ろしたまま、こちらを見ていなかった。ただ、風に煽られた銀の髪の隙間から覗く耳の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。
「……あー」
何か言わなければ、と思った。
思ったが、何も出てこなかった。
代わりに、アリシアの方が、こほん、と小さく咳払いをした。
「――つまり、その。返し終わったと思って、ふらっといなくなられると、困るの。この国としては。あなたの力は貴重だし、ロゼリアだって、まだまだ調べ足りないって言ってたし。それに、オズワルドもせっかく及第点を出したんだから。だから――」
早口だった。
びっくりするほど、早口だった。
「……分かった、分かった」
雷夕は、笑いを噛み殺しながら、両手を上げた。
「当分、返し終わらないことにしとく。それでいいか?」
「――ええ」
アリシアは、ようやくこちらを向いた。
耳の先は、まだ少し赤い。それでも、その顔には、統治者の硬さも、取り繕うような澄まし顔もなかった。
「それで、いいわ」
ただ、年相応の娘の顔で、柔らかく笑っていた。
*
階段の下の方から、ばたばたと慌ただしい足音が上がってきた。
「――アリシア様! こちらにおいででしたか!」
息を切らして顔を出したのは、若い侍従だった。両腕に、書類の束を抱えている。
「工房組合から、例の炉の件で至急の返答を、と。それから、宰相閣下が『今朝の決裁は全て昼に回してくれ』と仰せで――」
「……オズワルドったら」
アリシアは、額に手を当てて、深々と溜め息をついた。
それから、外套の前を掻き合わせると、胸壁から身を起こす。もう、その背筋は、すっと伸びていた。
「すぐ行くわ。――雷夕」
「ん」
「朝食、まだでしょう。厨房で、焼きたてのパンが出てるはずよ。あれ、冷めると固くなるから」
「了解。急いで行く」
「それと」
階段へ向かいかけた足を止めて、アリシアが振り返った。
「今日も、よろしくね」
それだけ言って、彼女は侍従と共に、螺旋階段の下へと消えていった。
足音が、塔の内壁に跳ね返りながら、遠ざかっていく。
雷夕は、しばらくその場に残っていた。
胸壁に、もう一度肘をつく。
朝の風が、頬を撫でていく。職人街の鎚の音。市場の呼び声。どこかの家の布団を叩く音。焼きたてのパンの匂いが、ここまで微かに上がってきている。
見知らぬ草原に放り出されてから、三年と少し。
どこにも根を下ろさず、契約が切れれば次の土地へ流れていく。そういう生き方しか、知らなかった。
(――今日も、よろしく、か)
当たり前のように投げられた、その一言を、口の中でもう一度だけ転がす。
悪くない。
全然、悪くない。
「……さて」
雷夕は、胸壁から体を起こして、大きく伸びをした。
パンが冷める前に、厨房へ行かなければ。
石の階段を下りていく足取りは、自分でも可笑しくなるくらい、軽かった。
――第1章 了




