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レーヴァルト戦記 ~最弱のコピー能力が別の魔法に化けるので、恩人の領主を守るために戦います~  作者: 深夜のトースト
第1章 銀の盾と、劣化の傭兵

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エピローグ 朝は、普通

 目が覚めたのは、いつもと同じ刻限だった。


 宛がわれた城の一室。窓の木戸の隙間から、細く冷たい朝の風が吹き込んでくる。寝台の脇の小卓には、昨夜脱ぎ捨てた上着が、袖を片方裏返したまま丸まっていた。


 霧島雷夕は、天井を見上げたまま、ぼんやりと瞬きを繰り返した。


(……頭、痛くないな)


 意外だった。


 昨夜はハンナの店で、それなりに飲んだはずだ。ハンナに背中を叩かれるたびに杯が満たされ、リタが瓶を抱えて転ぶたびに笑い声が上がり、オズワルドの昔語りが四回目に差しかかった辺りから、記憶の輪郭が少しずつ曖昧になっている。


 それでも、体は驚くほど軽かった。


 肩を回す。


 グレンタに斬られた傷は、薄く引き攣れた痕を残して、すっかり塞がっていた。突っ張る感覚も、もうほとんどない。


「――朝は、普通、ね」


 昨夜の妙な問答を思い出して、雷夕は一人で小さく噴き出した。


 好きな食べ物は。朝は強いか。


 あれが一体何の審査だったのか、結局最後まで分からなかった。


 *


 顔を洗おうと井戸のある裏庭へ向かう途中、厨房の脇の廊下で、雷夕は足を止めた。


 壁際の長椅子に、誰かが沈み込んでいる。


 仕立ての良い上着。いつもなら丁寧に撫でつけられているはずの白髪が、今朝は寝癖で片側だけ鳥の巣のように跳ね上がっていた。両手で額を押さえ、微動だにしない。


 その傍らには、水の入った陶器の水差しと、空になった杯が三つ。


「……オズワルド、さん?」


 恐る恐る声をかけると、老人は、錆びついた蝶番のような鈍さで、ゆっくりと顔を上げた。


 目の下に、くっきりと隈が浮いている。昨夜の、刃物のように鋭かった眼光の面影は、どこにもなかった。


「――傭兵殿か」


 声まで掠れている。


「大丈夫か。顔色、すごいことになってるぞ」


「大事ない。……少し、頭の中で鐘が鳴っているだけだ」


「それは大事って言うんだよ」


 雷夕は、水差しから杯に水を注いで差し出した。オズワルドは、それを震える手で受け取り、一息に飲み干す。四つ目の空の杯が、長椅子の上に並んだ。


 しばらく、沈黙があった。


 厨房の奥から、鍋の蓋が鳴る音と、朝餉の支度に追われる料理番たちの声が漏れ聞こえてくる。焼きたてのパンの香ばしい匂いが、廊下にまで漂っていた。


「……傭兵殿」


「ん?」


「一つ、確かめておきたい」


 オズワルドが、空の杯を握ったまま、じろりとこちらを見上げた。


 その目に、ほんの僅かだけ、昨夜の鋭さが戻る。


「昨夜、わしは――何か、余計なことを言ったか」


 雷夕は、少しだけ考えた。


 アリシアが幼い頃に体が弱かった話。枕元で夜を明かした話。それを、三回――いや、四回だったか。お嬢様と呼んで本人に怒鳴られた話。机に突っ伏して寝た話。ケインに背負われて、寝言で「風邪ひくなよ」と言っていた話。


「……いや。特には」


「そうか」


 オズワルドは、心底ほっとしたように、深く息を吐いた。


「ならば、よい」


(――優しい嘘ってのは、こういう時のためにあるんだよな)


 背負われて帰ったことを本人が覚えていないなら、わざわざ教えてやる必要もない。そのうち、ロゼリア辺りが嬉々として教えるだろうし。


 雷夕は、オズワルドの肩を軽く叩いて、その場を離れようとした。


「――傭兵殿」


 背中に、声が掛かる。


 振り返ると、老人は額を押さえたまま、目だけをこちらに向けていた。


「アリシア様なら、城壁の上におられる。……朝は、いつもあそこだ」


「なんで俺に、それを」


「さてな」


 オズワルドは、ふい、と目を逸らした。


「及第点の者に、少しばかり便宜を図っただけだ。――行け。わしは、もう少しここで鐘の音を聞いている」


 *


 城壁の上へは、東の塔の螺旋階段から上がれた。


 石の段は、長い年月に踏まれて、真ん中だけが浅く窪んでいる。一段ごとに、足音が塔の内壁に跳ね返って、くぐもった響きを残した。壁の所々に穿たれた細い矢狭間から、朝の光が刃のように斜めに差し込み、宙を漂う細かな埃をきらきらと浮かび上がらせている。


 最後の段を上りきると、急に視界が開けた。


 城壁の上の歩廊は、大人が三人並んで歩ける程度の幅だった。外側には胸の高さほどの胸壁が凸凹と連なり、内側には転落防止の低い石の縁。石畳の継ぎ目には、しぶとく根を張った小さな苔が、朝露を吸って濃い緑に光っている。


 風が、強い。


 見下ろせば、城下の町並みが一望できた。


 軒を連ねる屋根。その間を縫う石畳の通り。あちこちの煙突から、細い煙が幾筋も立ち上り始めている。市場の方角からは、荷車の車輪が石を噛む音と、早くも店を開け始めた商人たちの呼び声が、風に乗って切れ切れに届いてくる。


 そして、ところどころで――。


 ぱちり、ぱちり、と。


 夜通し灯っていた魔道具の街灯が、一つ、また一つと、自ら灯を落としていくのが見えた。


(――この国らしい朝だな)


 初めてこの城下を歩いた日、雷夕の目に留まったものの一つが、あの街灯だった。それが、こうして朝になれば律儀に消えていく様を上から眺めるのは、今日が初めてだった。


 その景色の手前。


 胸壁に両肘を預けて、一人の娘が、町を見下ろしていた。


 銀の髪が、風に煽られて、細く長く後ろへ流れている。いつもの上質な衣装ではなく、生成りの簡素な上衣に、肩から薄手の外套を一枚引っかけただけの格好だった。


「――おはよう」


 声をかけると、アリシアは振り返りもせずに答えた。


「おはよう。……オズワルドね」


「なんで分かる」


「ここを知ってる人は、少ないもの」


 ようやくこちらを向いたアリシアの顔は、昨夜の宴の名残なのか、少しだけ眠たげだった。それでも、目元はすっきりとしている。


「あの人、まだ廊下で唸ってた?」


「頭の中で鐘が鳴ってるそうだ」


「毎回そう言うのよ。次の宴でも、また同じだけ飲むくせに」


 呆れたように言いながら、アリシアの口元は緩んでいた。


 雷夕は、彼女の隣に並んで、同じように胸壁に肘をついた。


 石が、ひやりと冷たい。


「それと、昨夜わしは何か言ったか、って聞かれた」


「……なんて答えたの」


「特に何も、って」


 一拍。


 アリシアが、ぷっ、と噴き出した。


「――優しいのね」


「だろ。恩返しの一環だ」


「それ、オズワルドに対してじゃないでしょう」


「アリシアに対して、だな。四回も聞かされた本人が一番恥ずかしいだろうから」


「三回よ」


 即座に訂正が飛んでくる。


「四回目は、話し始めたところで私が止めたもの」


「あ、そうだっけ」


「そうよ」


 むっとした顔で言い張るアリシアに、雷夕は堪えきれずに笑った。


 *


 しばらく、二人で町を眺めていた。


 眼下の通りを、パン籠を抱えた子供が駆けていく。その後ろを、母親らしき女が何か叫びながら追いかけていく。職人街の方角からは、早くも鎚の音が響き始めていた。カン、カン、と規則正しく、迷いのない音。


(――ロゼリア、もう起きてるな、あれ)


 昨夜、ケインに杯を押しつけてけらけら笑っていた張本人が、もう炉に火を入れているのだと思うと、妙に可笑しかった。


「……なあ」


「なに」


「一つ、ずっと聞きそびれてたことがあるんだけど」


 アリシアが、こちらを見る。


 雷夕は、町並みに目を向けたまま続けた。


「あの日――初めて会った日。なんで、あんたが前線にいたんだ?」


 風が、二人の間を吹き抜けていった。


「シュタイン村の時は、城で頼んで、城で待ってただろ。グレンタの時も、城から見送ってくれた。領主ってのは、本来そういうもんなんだろうなって、ここで暮らしてるうちに分かってきた。――だから、余計に気になってさ。あの日のあんたは、剣を握って、一番前で、魔道具の盾を構えてた」


 アリシアは、すぐには答えなかった。


 胸壁の上で組んだ自分の指先を、じっと見つめている。


「……あれは、例外よ」


 やがて、ぽつりと言った。


「国境の防衛線が、崩れる寸前だったの。王都の兵を集めて送り出しても、間に合わなかった。だから、近衛の騎兵だけ連れて、先に駆けた」


「領主自ら?」


「領主自ら」


 アリシアは、少しだけ肩をすくめた。


「兵の数で押し返せる状況じゃなかったわ。必要だったのは、崩れかけている兵が、あと少しだけ踏みとどまる理由。――領主の旗が後ろにあるのと隣にあるのとでは、違うでしょう?」


「……なるほどな」


「オズワルドには、ものすごく反対されたけど」


「だろうな」


 あの老人が、あの鋭い目で正論を並べ立てる様が、ありありと目に浮かぶ。


「でも、本来は、駄目なのよ」


 アリシアの声が、少しだけ低くなった。


「私が斃れたら、この国は頭を失う。帝国にとって、それ以上の戦果はない。だから領主は、国を空にして飛び出しちゃいけないの。……あの日は、それでも行くしかなかった。でも、二度目があってはいけない。――そういう、例外」


「ふうん」


 雷夕は、胸壁に預けていた顎を少しだけ持ち上げた。


「じゃあ俺、その一回きりの例外に命拾いしたわけか」


「そういうことになるわね」


「……運、良すぎないか、俺」


「本当にね」


 くすりと笑ってから、アリシアは、悪戯っぽく横目でこちらを見た。


「だから、次は期待しないで。あなたがまた死にかけても、私はもう飛んでいけないから」


「死にかける前提で話すのやめてくれ」


「前科があるでしょう。この前も、肩を斬られて帰ってきたばかり」


「あれは、かすっただけで――」


「かすっただけで、あの巻き方はしないでしょう」


 ぐうの音も出なかった。


 雷夕は、無意識に右肩を撫でた。もう痛まない傷痕が、指の腹の下で、薄く盛り上がっている。


「……善処する」


「ええ。善処して」


 満足げに頷いて、アリシアは、また町の方へ視線を戻した。


 *


 鎚の音が、いつの間にか二つに増えていた。


 市場の方角では、誰かが大声で値切り合っている。どこかの家の窓が開いて、布団を叩く、ぱん、ぱん、という乾いた音が混じり始めた。


 町が、すっかり目を覚ましていく。


「――ねえ」


 今度は、アリシアの方から口を開いた。


「昨夜、オズワルドに聞かれていたでしょう。恩を返し終えたら、どうするのかって」


「……聞こえてたのか」


「少し離れていただけで、同じお店の中よ。聞こえるに決まってるじゃない」


 それもそうだ。


 雷夕は、頭を掻いた。


「考えたこともない、って言ったな、俺」


「言ってたわね」


「無計画にも程がある、って呆れられた」


「それも、聞いてた」


 アリシアは、胸壁の上で組んだ指を、所在なさげにほどいては、また組み直していた。


 何かを言おうとして、言葉を選んでいる。そういう時の仕草だと、雷夕にもそろそろ分かるようになってきた。


「……今も、考えてない?」


「考えてない」


 雷夕は、即答した。


「正直、どれくらい返せば返し終わったことになるのかも、よく分かってないんだ。命一個分って、どう数えりゃいいんだ」


「――数えなくていいわよ、そんなもの」


「いや、数えないと終わらないだろ」


「終わらなくて、いいんじゃない?」


 ぽろりと、零れたような声だった。


 雷夕は、思わず隣を見た。


 アリシアは、町を見下ろしたまま、こちらを見ていなかった。ただ、風に煽られた銀の髪の隙間から覗く耳の先が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。


「……あー」


 何か言わなければ、と思った。


 思ったが、何も出てこなかった。


 代わりに、アリシアの方が、こほん、と小さく咳払いをした。


「――つまり、その。返し終わったと思って、ふらっといなくなられると、困るの。この国としては。あなたの力は貴重だし、ロゼリアだって、まだまだ調べ足りないって言ってたし。それに、オズワルドもせっかく及第点を出したんだから。だから――」


 早口だった。


 びっくりするほど、早口だった。


「……分かった、分かった」


 雷夕は、笑いを噛み殺しながら、両手を上げた。


「当分、返し終わらないことにしとく。それでいいか?」


「――ええ」


 アリシアは、ようやくこちらを向いた。


 耳の先は、まだ少し赤い。それでも、その顔には、統治者の硬さも、取り繕うような澄まし顔もなかった。


「それで、いいわ」


 ただ、年相応の娘の顔で、柔らかく笑っていた。


 *


 階段の下の方から、ばたばたと慌ただしい足音が上がってきた。


「――アリシア様! こちらにおいででしたか!」


 息を切らして顔を出したのは、若い侍従だった。両腕に、書類の束を抱えている。


「工房組合から、例の炉の件で至急の返答を、と。それから、宰相閣下が『今朝の決裁は全て昼に回してくれ』と仰せで――」


「……オズワルドったら」


 アリシアは、額に手を当てて、深々と溜め息をついた。


 それから、外套の前を掻き合わせると、胸壁から身を起こす。もう、その背筋は、すっと伸びていた。


「すぐ行くわ。――雷夕」


「ん」


「朝食、まだでしょう。厨房で、焼きたてのパンが出てるはずよ。あれ、冷めると固くなるから」


「了解。急いで行く」


「それと」


 階段へ向かいかけた足を止めて、アリシアが振り返った。


「今日も、よろしくね」


 それだけ言って、彼女は侍従と共に、螺旋階段の下へと消えていった。


 足音が、塔の内壁に跳ね返りながら、遠ざかっていく。


 雷夕は、しばらくその場に残っていた。


 胸壁に、もう一度肘をつく。


 朝の風が、頬を撫でていく。職人街の鎚の音。市場の呼び声。どこかの家の布団を叩く音。焼きたてのパンの匂いが、ここまで微かに上がってきている。


 見知らぬ草原に放り出されてから、三年と少し。


 どこにも根を下ろさず、契約が切れれば次の土地へ流れていく。そういう生き方しか、知らなかった。


(――今日も、よろしく、か)


 当たり前のように投げられた、その一言を、口の中でもう一度だけ転がす。


 悪くない。


 全然、悪くない。


「……さて」


 雷夕は、胸壁から体を起こして、大きく伸びをした。


 パンが冷める前に、厨房へ行かなければ。


 石の階段を下りていく足取りは、自分でも可笑しくなるくらい、軽かった。


――第1章 了


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