第21話 宰相、酔う
「今夜は、無礼講よ」
執務室に呼ばれるなり、ロゼリアが開口一番そう言い放った。雷夕は、思わずアリシアと顔を見合わせた。
「無礼講って、お前が言うのか」
「たまにはいいでしょう。三人とも、もうすっかり良くなったんだし」
肩の傷も、すっかり塞がっている。ケインの肋骨も、もう軋まない。
「今夜は、ハンナの店を貸し切ってあるわ」
アリシアの声には、いつもの統治者然とした硬さがなかった。
*
市場通りの軒先のランプが灯りきった頃、通りを抜け、目当ての店に着く頃には、既に賑やかな灯りが漏れていた。
「――らっしゃい! 待ってたよ、あんたたち!」
真っ先に飛び出してきたのは、ハンナだった。丸太のような二の腕で、雷夕の背中を勢いよく叩く。
「聞いたよ、大立ち回りだったんだって? よく生きて帰ってきたねぇ!」
「おかげさまで、な」
「フィオナ、リタ! お客さんだよ、とっておきの酒、開けな!」
「かしこまりました」
物腰柔らかく一礼したフィオナの後ろで、リタが両手いっぱいの酒瓶を抱えて駆けてくる。
「持ってきましたー!」
その足が、何もない場所で見事に縺れた。
瓶が一本、二本、三本と、次々に宙を舞う。
「――っと! ちょ、待て、多いって!」
雷夕は、両手両脇に瓶を抱え込む羽目になった。
拾いきれなかった最後の一本が、間の悪いことに、ケインの頭の上へと綺麗な放物線を描く。
「――ケイン、危な――」
ゴンッ、という鈍い音。瓶は見事にケインの頭上で着地し、中身はこぼれもしなかった。
「……お見事」
ケインが、真顔でそう呟いた。
「リタ! また粗相か!」
「すみませーん! でも今の見ました? 瓶、割れてないですよ!」
「そういう問題じゃないよ!」
店中から、腹を抱えるような笑い声が上がった。
いつもと変わらない、賑やかな光景だった。
(――帰ってきたんだな)
その実感が、じわりと胸に染みた。
*
奥の一番良い席に、見慣れない老人が座っていた。
白髪を丁寧に撫でつけ、仕立ての良い上着に身を包んでいる。しかめ面のまま、腕を組んで動かない。
「――誰だ、あれ」
雷夕が小声で尋ねると、ロゼリアが肩をすくめた。
「オズワルド様よ。先代の頃から仕える、この国の宰相」
「宰相様が、なんでこんな場末の酒場に」
「アリシア様が心配なんでしょう。あの人、過保護だから」
視線に気づいたのか、オズワルドがこちらを一瞥した。
値踏みするような、鋭い目だった。
「――あなたが、噂の傭兵殿か」
低く、よく通る声だった。
「霧島雷夕だ」
「オズワルドだ。アリシア様にお仕えして、かれこれ二十年になる」
差し出された酒杯を、雷夕は素直に受け取った。
「一つ、聞かせてもらおうか」
オズワルドの目が、細くなる。
「――好きな食べ物は」
「……は?」
「聞いている。好物だ」
「え、と……肉、とか」
「ふむ、悪くない」
真剣な顔で頷かれ、雷夕は困惑を隠せなかった。
(――これ、何の質問だ)
「もう一つ。朝は強いか」
「普通、だが」
「よし」
満足げに頷くと、オズワルドは、ようやく本題に入るように咳払いをした。
「――では、本題だ」
「本題、あったのか」
「あなたは、何のためにアリシア様の傍にいる」
場の空気が、僅かに張り詰めた。
「――恩返し、だ」
雷夕は、まっすぐにその目を見返した。
「アリシアに命を救われた。それだけの理由で、ここにいる」
「恩返し、ね」
オズワルドの声に、疑いの色が滲む。
「都合のいい言葉だ。恩を返し終えたら、あなたはどうする」
「――考えたこともない」
雷夕は、正直にそう答えた。
「その時になったら、その時だ。今はまだ、返しきれてない」
「無計画にも程があるな」
「悪いか」
「悪くはない」
オズワルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
「打算で動く男の方が、よほど信用ならん。……まあ、及第点だ」
それだけ言うと、手元の酒杯を一気に呷った。
「オズワルド様、飲むペース早くないですか」
「うるさい、小娘」
ロゼリアの茶々にも、まんざらでもなさそうな顔だった。
*
宴もたけなわになる頃には、オズワルドの顔は、すっかり赤く染まっていた。
「――いいか、聞け」
呂律の怪しい声で、雷夕の肩に腕を回してくる。
「アリシア様はな、幼い頃から、体が弱くてなあ。わしは、何度、あの子の枕元で夜を明かしたことか……!」
「オズワルド様、その話、もう三回目です」
「――四回目だったか?」
「三回目です」
「そうか。ならもう一度話しても、まだ四回目だな!」
「増えてます、それ」
「うるさい、ケイン! お前も座って飲め!」
「私は護衛の任がありますので」
生真面目に断るケインだったが、ロゼリアに杯を押し付けられ、渋々口をつけた途端――その顔が、見る間に真っ赤に染まった。
「……美味い、です」
「あんた、めちゃくちゃ弱いのね」
たった一杯で出来上がったケインが、真顔のまま、こくこくと頷いた。
周りからどっと笑いが起きた。
少し離れた席で、アリシアが頭を抱えている。
「――オズワルド、恥ずかしいから、その話はやめて」
「何をおっしゃいます、お嬢様! 昔から、可愛らしいものは可愛らしいと――」
「お嬢様言うな! もう領主なんだから!」
顔を真っ赤にして抗議するアリシアに、店中がまた沸いた。
その勢いのまま立ち上がろうとしたオズワルドが、椅子ごと傾ぎ――そのまま、見事に机へ突っ伏した。
「――寝た」
「早いですね」
「毎回こうなんですか」
「ええ、そうよ」
アリシアが、諦めたような、それでいてどこか優しい目で、突っ伏した宰相を見下ろしていた。
*
お開きになったのは、それからほどなくのことだった。
「――で、これ、誰が運ぶの」
ロゼリアが、突っ伏したままのオズワルドを指差す。
全員の視線が、自然と一点に集まった。
「……なぜ、私が」
「一番しっかりしてるじゃない、あんた」
「でも酒一杯で真っ赤になってたぞ」
「それはもう抜けてます」
ケインは、諦めたように息を吐くと、オズワルドの体を、危なげなく背負い上げた。
「重いな、これは」
「歳の割に、鍛えてらっしゃるんでしょう」
背負われたオズワルドが、寝言のように何か呟く。
「……お嬢、様……風邪、ひくなよ……」
その声に、アリシアが小さく噴き出した。
「――もう、いい歳して」
言葉とは裏腹に、声は優しかった。
*
夜の市場通りは、すっかり静けさを取り戻していた。
軒先に吊るされた灯りが、ぽつぽつと道を照らしている。
ケインを先頭に、一行はゆっくりと城への道を歩いた。
背負われたオズワルドの寝息だけが、規則正しく響いている。
「――今日は、楽しかったな」
雷夕がぽつりと零すと、隣を歩くアリシアが、小さく頷いた。
「ええ。……本当に」
その横顔に、いつもの統治者の硬さは、もう戻っていなかった。
石畳を踏む足音が、夜の静寂に、規則正しく響いていく。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
言わなくても、十分な夜だった。
*
帝都、バルトレンの執務室。
机の端に、拳ほどの水晶が一つ、置かれていた。
表面に、髪の毛よりも細い線が、びっしりと刻まれている。グレンタに持たせた一対の、片割れだ。
数日前の夜。その線の全てが、ここで、揃って青く脈打った。国境の向こうの、城下の空き家で、何かが起きた合図だった。
それきり、水晶は二度と光らなかった。
扉を開けて現れたグレンタの姿に、バルトレンは手にしていた書類を、思わず取り落とした。
脇腹に巻かれた、血の滲む布。顔色は、いつもの余裕から程遠い。
「――何があった」
「見ての通りだ」
グレンタは、崩れるように椅子へ腰を下ろした。
「仕留め損なった、ってこと。それも、派手にね」
「馬鹿な。お前が、か」
「否定はしないよ。あの"劣化"、噂以上どころじゃなかった」
バルトレンの眉間に、深い皺が寄る。
「詳しく話せ」
「相手は三人いたが、私の実力なら最後まで押し切れると踏んでた。でも――途中から、様子が変わった」
グレンタは、脇腹を押さえながら、記憶を辿るように続けた。
「奴、途中から自分でも制御できてないみたいだった。なのに、私の目より、動きが速くなった」
「――お前の目が、外れたと?」
バルトレンの声に、僅かな驚きが滲む。彼女の"先読み"が通じなかったことなど、これまで一度もなかったはずだった。
「外れた、というより……通じなくなった、が近いね」
自嘲するように、唇の端を歪める。
「理屈は分からない。分からないまま、やられたよ」
吐き捨てるように言うと、グレンタは、椅子に深くもたれかかった。
「これは、賞金稼ぎ一人でどうにかなる話じゃない。忠告しておくよ」
バルトレンは、しばらく黙り込んでいた。
「――そうか」
それだけ呟くと、机の上の燭台に、新しい蝋燭を継ぎ足す。
揺れる炎が、彼の横顔に、深い影を落としていた。
「なら、次の手を考えねばな」




