第19話 読みを、超えて
肩の傷が、燃えるように疼いていた。
勝てる目は、まだ見えない。
膝をつく雷夕から、グレンタの狙いが逸れる。
「――目障りな駒から、先に片付けようか」
冷たい声とともに、まだ立ち上がりきれずにいたケインへと、狙いが移った。
「ケインッ――」
叫んだ時には、もう遅かった。
膝をついたケインへ、追撃の踵が容赦なく振り下ろされる。
ドッ、ドッ――!
「――ぐ、あ……ッ!」
庇う間もない。二撃、三撃と、休みなく叩き込まれる。
「ケインッ――やめて!」
ロゼリアの悲鳴が響くが、割って入る隙すらない。
地に伏したケインの口の端から、赤いものが滲んだ。
立ち上がろうと震える腕が、力なく崩れる。
(――ケイン)
雷夕の視界が、赤く滲んだ。
だが。
(――なら、それでいい)
散々、狙って出す訓練を重ねてきた。
それでも、本当に届いたのは――いつも、狙わなかった時だ。
(――手放せ)
剣を握る指から、力を抜く。
構えを崩し、両手を自然に下げる。
「――何のつもりだ」
グレンタの目に、初めて、戸惑いが差した。
雷夕は答えなかった。
ただ、彼女という現象そのものを――先読みの気配を、目の奥に焼きつける。
(見た――)
グレンタは、その沈黙を隙と見たのだろう。
迷いなく、踏み込んだ。
拳が、唸りを上げて迫る。
世界が、止まった。
いや――違う。
置き去りにされたのは、雷夕の自覚だけだった。
グレンタの拳が、顔面を捉える――はずだった。
ヒュンッ。
(――避けた、じゃない)
気づいた時には、既に躱していた後だった。
自分の意思は、そこに介在していない。
体が、勝手に。まるで、その拳が振るわれる前から――軌道を知っていたかのように。
「――は?」
グレンタの声に、初めて焦りが走る。
雷夕自身、状況が理解できていない。
(俺は、今――)
考える猶予はなかった。
踏み込む足。伸びる切っ先。全部、意識の外側で、勝手に組み上がっていく。
「――ッ、なにを――!」
グレンタが、初めて後ろへ跳んだ。
躱したはずの間合いに、剣先が――届いている。
ギリ、と切っ先が空気を裂く音。
「先読みだと――!?」
「知らねぇよ、そんなもん」
雷夕は、自分でも分からないまま吐き捨てた。
(先を読む感覚なんて、ない)
逆だ。
何をしたのか、動いた後になって知る。行動が先に終わっていて、自覚が、遅れてそれに追いつく。
(――『劣化』、したのか。予測を)
だが、原型とはまるで違う。
視えるのは、未来じゃない。
この体を、丸ごと本能に明け渡す――それだけの、化け物じみた力。
「悪いが」
剣を構え直す。
いや――構え直していた、と言うべきか。意思が追いついた時には、もう構えは出来上がっていた。
「――考えるのは、やめた」
「――ッ!」
グレンタの顔から、初めて余裕が消えた。
跳んで、距離を取る。
だが。
雷夕の足は、既にその着地点を踏んでいた。
「うそだ、ろ――!」
叫びと、切っ先が届くのは、同時だった。
ズブリ。
肉を裂く重い感触が、掌から肘まで駆け上がる。
「――ぐぁッ!」
脇腹を深々と裂かれ、グレンタの体が大きく傾いだ。
鮮血が、床の埃を黒く染める。
(初めて攻撃が通った)
グレンタは、脇腹を押さえながら、よろめくように後ずさった。
「――化け物、め」
声に、余裕はもうない。
ただ、驚愕だけがあった。
「劣化なんて、生易しいものじゃない、な。それは――」
言い切る前に、彼女は身を翻した。
崩れかけた壁の隙間へ、体をねじ込む。
「待て――!」
ケインが追おうとするが、脇腹の痛みに阻まれ、膝をつく。
(――深追いはしないで、ってアリシアが言ってたな)
「深追いは――しなくていい」
雷夕は、それを止めた。
「なんで――」
「アリシアが言っていただろ」
短くそれだけ答えると、雷夕はへたり込むように、その場に座り込んだ。
剣を握る手が、今更のように震え始める。
壁の隙間の向こうで、遠ざかる足音がした。
それも、やがて聞こえなくなった。
*
「――終わった、のよね」
ロゼリアが、恐る恐る尋ねた。
「ああ」
雷夕は、掌を見つめた。
まだ、実感が薄い。
あの一瞬、確かに自分の体は、自分のものではなかった。
「何をしたのか、自分でもよく分かってない」
「また、それ?」
ロゼリアが、呆れたような、それでいて安堵の滲む声で笑った。
「毎回、同じこと言ってる自覚、ある?」
「ないから、困る」
雷夕は、力なく笑い返した。
「ケイン、傷は」
「肋骨が、軋んでいる程度です」
ケインは、脇腹を押さえながらも、それでもしっかりとした声で答えた。
「立てなくなるかと思いましたが……存外、頑丈にできているようで」
「お二人こそ、ご無事で」
「無事とは言い難いけどな」
肩の傷を確かめながら、雷夕は苦笑した。浅いが、じくじくと痛む。
ロゼリアが、道具袋から包帯を取り出し、無言でそれを差し出した。
「――ありがとよ」
「礼はいいから、大人しく巻かれてなさい」
三人は、崩れかけた空き家の中、しばらくそのまま座り込んでいた。
蝋燭の火が、また一つ、小さく揺れる。
誰も、口を開かなかった。
開かなくても、良かった。
戦い終えた沈黙は、それだけで十分に、多くのことを語っていた。
やがて、風が壁の隙間から吹き込み、蝋燭の火を――ふっ、と消した。
真っ暗になった。
「……っと。火打ち石、どこだっけ」
ロゼリアが、道具袋を手探りする音。
――その時。
暗闇の、隅で。
ぽう、と。
青い光が、灯った。
崩れた戸棚の陰。積み上げられた家具の、一番下。グレンタが、蝋燭の傍に腰を下ろしていた場所の、すぐ足元。
雷夕は、這うようにして近づいた。
瓦礫を、どける。
――水晶だった。
拳ほどの大きさの、透き通った塊。その表面に、髪の毛よりも細い線が、びっしりと刻まれている。
あの刺客が持っていたものと、同じだ。欠けていない、丸ごとの。
その線の一本一本が、青く、浮かび上がっていた。
揃って。
とくん、とくん、と。脈打つように。
「……嘘」
背後で、ロゼリアの声が震えた。
「腕輪、着けてたのに。散らしてたはずなのに――」
揃った光。
工房で、腕輪を着けずに写した時と、同じ光り方。
何かを、確かに捉えた光。
(――あの女、最初からここに置いてたのか)
雷夕を、ここに誘い込んで。劣化を出させて。
――出させる前に、終わらせようか。
そう言っていたくせに。
もし、自分が仕留め損ねた時のために。
水晶の光は、まだ消えない。
暗闇の中で、ゆっくりと、ゆっくりと、脈打ち続けていた。
まるで、この光の向こう側で、誰かが、まだこちらを見つめているかのように。




