第17話 西門の女
「アリシア様には?」
「今、別の者が報告に向かってる。お前も来てくれ」
工房を出た三人は、無言のまま城の廊下を急いだ。
いつもなら気安く交わされる軽口も、今夜はどこにも出てこない。
(――嫌な予感がする)
正体のない胸騒ぎを持て余しながら、雷夕は足を速めた。
執務室に近づくにつれ、行き交う兵たちの顔つきにも、隠しきれない硬さが滲んでいく。
ケインが、執務室の扉の前で足を止め、拳を上げかけた――その時。
扉が、内側から開いた。
「――待っていたわ」
アリシアだった。いつもの余裕は、その顔からは窺えない。
「西門の件、もう耳に入ってる。詳しい話を、聞かせてもらえる?」
灯りを落とした執務室の奥、机の上には既に、城下の地図と、走り書きの報告書が並んでいた。アリシアは、その地図を指先で示した。
城下の地図。西門の位置に、赤い印がついている。
「兵からの報告は、これで全部よ」
アリシアが差し出した書面に、雷夕は目を通した。
旅装の女。年齢不詳。誰何を無視し、城を見上げて何かを数えるように指を折り、雑踏に消えた――それだけだった。
「手がかりとしちゃ、心もとないな」
「ええ。だから」
アリシアは、雷夕たちを順に見た。
「これ以上は、現場を見ないと分からない。あなたたちに、行ってもらいたいの」
「行くのは構わない」
雷夕は即座に頷いたが、その隣でロゼリアが片眉を上げた。
「単独行動は禁止、だったわよね」
「分かってる。一人じゃ行かない」
「私が付く」
ケインが、静かに一歩前へ出た。
「お嬢様さえよろしければ、護衛を他の者に代わっていただきたい。今は、こちらの方が優先だと考えます」
「――律儀に、許可を取りに来るのね」
アリシアは、僅かに眉を寄せながらも、その生真面目さに小さく息を吐いた。
「城のことなら心配していないわ。あなたは二人のサポートをして」
「承りました」
ケインは、静かにそう請け合った。
「ロゼリアも、いいのね?」
「問題ないわ。でも、腕輪の調整がまだ途中なの。これは持ち歩きながらやるわね」
ロゼリアは、道具袋を肩に掛け直しながら答えた。
「それに」
彼女は、雷夕をちらりと見た。
「一人で行かせて、何かあってからじゃ遅いじゃない」
「――世話焼きだな」
「うるさい」
三人は、それぞれの装備を整え始めた。
アリシアが、最後に一言だけ付け加えた。
「無理はしないで。何か分かったら、それだけでいい。……追い詰めようとは、しないで」
「分かってる」
雷夕は、短くそう答えた。
その声に、迷いがないことを、アリシアは確かめるように見つめてから――小さく頷いた。
三人が部屋を出て、扉が閉まる。
一人残った執務室で、アリシアは長く、息を吐いた。
(――三人とも無事に帰ってきてね)
誰にも聞かれない胸の内でだけ、それを言葉にする。
人前では、言えなかった一言だった。
机の上、西門に記された赤い印を、指先でそっと撫でた。
*
城を出た頃には、通りの角灯にぽつぽつと火が灯り始めていた。
城下の通りは、いつもより静かだった。
いや――静かすぎる、というべきか。
(――みんな、勘づいてるのかもな)
兵の数が増えたことに、住人たちも何かを察しているのだろう。普段なら店先で談笑している商人たちの声も、心なしか控えめだった。
「こっちだ」
ケインが先導し、西門へと続く大通りを進んでいく。
石畳を踏む足音だけが、やけに大きく響いた。
「――静かだな」
雷夕がぽつりと呟くと、ロゼリアが横目で見た。
「怖いの?」
「まさか。ただ……こういう静けさは、あんまり好きじゃない」
「同感ね」
三人は、それ以上言葉を交わさず、歩みを進めた。
*
西門に着くと、詰所の兵二人が姿勢を正した。
「ケイン殿。……こちらが例の?」
「ああ。悪いが、もう一度詳しく聞かせてくれ」
兵の一人が、記憶を辿るように話し始めた。
「刻限は、日が傾き始めた頃です。旅装の女が一人、門の脇にしばらく立っていました。最初は、単なる旅人かと」
「様子が変わったのは?」
「誰何した瞬間です。……振り返りもせず、ただ背を向けて、雑踏の中へ」
「顔は」
「フードを目深に被っていて……ただ」
兵は、少し言い淀んでから続けた。
「一瞬だけ、こちらを見た目が――忘れられません」
その言葉に、雷夕とロゼリアは、思わず顔を見合わせた。
ロゼリアの手が、道具袋の紐を、僅かに強く握り直す。
雷夕も、何も言わずに、剣の柄へと指を這わせていた。
「消えた方向は?」
「あちらです」
兵が指したのは、門から続く裏通り――安宿や古道具屋が並ぶ、人通りの少ない一角だった。
「行くぞ」
ケインの声に、二人は頷いた。
*
裏通りは、思った以上に入り組んでいた。
軒を連ねる安宿の看板は、どれも塗装が剥げかけている。
時折すれ違う住人たちは、三人を一瞥するだけで、すぐに目を逸らして去っていった。
「――こういう時、聞き込みって難しいよな」
「怪しまれずに聞くコツがあるのよ」
ロゼリアはそう言うと、一軒の宿の女将らしき人物に、気安く声をかけた。
「すみません、ちょっと人を捜してて。旅装の女性、見かけませんでした?」
「さあねぇ。この辺、旅の人は多いから」
「一人旅の、目つきの鋭い人なんですけど」
「……ああ、そういえば」
女将は、思い出したように顎に手を当てた。
「夕方前、うちの前を通っていったね。声もかけなかったし、部屋も取らなかったよ。ただ――」
「ただ?」
「通り過ぎる時、こっちを見もしないで、独り言みたいに呟いてったんだ。『まだ、時間はあるか』ってね」
三人は、申し合わせたように黙り込んだ。
ケインの手が、無意識に剣の柄へと伸びる。
「どっちへ?」
「その先の、突き当たり。……もう何年も使われてない、空き家があるだろ」
女将が指差した先、路地の奥。
古びた木戸の隙間から、微かに明かりが漏れているのが見えた。
(――いた)
雷夕は、腕輪に触れながら、静かに息を吐いた。
「行くぞ」
「ええ」
「私が前に出る」
三人は、足音を殺しながら、その空き家へと近づいていった。
*
木戸を押し開けると、埃っぽい空気が流れ出た。
中は薄暗く、崩れかけた家具が、乱雑に積み上げられている。
その奥、唯一灯った蝋燭の傍に、旅装の女が一人、腰を下ろしていた。
フードを目深に被ったまま、微動だにしない。
「――誰だ」
雷夕が問うと、女は、ゆっくりとフードを持ち上げた。
現れたのは、猟師のように鋭い目をした、旅装の女だった。
「待ちくたびれたよ」
その声には、聞き覚えがあった。
いや――正確には、聞き覚えなどあるはずがない。
それでも、雷夕の中で、何かが確信に変わった。
「お前が――」
「グレンタ、だ」
女は、あっさりとその名を口にした。
「帝国に雇われた、フリーの傭兵。……ようやく名乗れて、こっちも気が楽になったよ」
(――グレンタ、か)
雷夕は、その名を胸の内で繰り返した。
「あんたが、あの刺客を送り込んだ張本人か」
「送り込んだ、は語弊があるね。あれは、下見をさせただけだ」
グレンタは、ゆっくりと立ち上がった。
「本命は、最初から私だったのさ」
「ロゼリア、ケイン。二人とも、下がっていろ」
雷夕が低く言うと、ロゼリアが首を振った。
「馬鹿言わないで。一人でやらせるわけないでしょう」
「私も同じ意見です」
ケインが、剣の柄に手をかけながら答えた。
グレンタは、その様子を見て、口の端に薄い笑みを浮かべた。
「仲間思い、ってわけか。……悪くない」
彼女は、懐に手を入れながら、一歩、間合いを詰めた。
「だが、忠告しておく。私の仕事は、そこの男を殺すことだけだ。お前らまで巻き込む義理はない――今なら、大人しく引くという選択肢もあるぞ」
空気が、変わった。
薄暗い空き家の中に、張り詰めた静寂が満ちていく。
(――来る)
雷夕は、腕輪の感触を確かめながら、剣の柄に手をかけた。
グレンタの目が、獲物を前にした猟師のそれに戻る。
「さて」
彼女は、静かに笑った。
「――出させる前に、終わらせようか」




