第16話 嵐の前
朝の光が、工房の窓から差し込んでいた。
いつもと変わらない、はずだった。
だが、城下を歩く兵の数は、明らかに増えている。
「――物々しいな」
雷夕は、工房の扉をくぐりながら呟いた。
「アリシア様の指示よ。西門、東門、市場――主要な場所には、必ず二人一組で立たせてる」
作業台に向かっていたロゼリアが、振り返らずに答えた。手元には、あの水晶の欠片。
「進展、あったのか」
「少しはね」
ロゼリアは、拡大鏡越しに欠片を睨みながら、小さく頷いた。
「これ、ただの通信用魔道具じゃない。相手の魔力の質まで拾えるように、細工がしてある」
「つまり?」
「あなたの『劣化』――発動した瞬間の魔力の揺らぎまで、遠くから感知できる可能性がある、ってこと」
その言葉に、雷夕は眉根を寄せた。
「……本当か、それ」
「試してみる?」
ロゼリアは、作業台の端から、標本の瓶を一本取り上げた。札には「灯火」。指先ほどの小さな明かりを灯すだけの、ごく弱い魔法の残滓だ。
その隣に、水晶の欠片を置く。
「これを、ごく軽く写して。一番小さく」
雷夕は、瓶の中の、蛍のような淡い光を見つめた。
「『劣化』」
ドクン、と。小さく。
手のひらに、ひんやりとした、薄い影のようなものが生まれた。灯火の反対――ほんの少しだけ、周りを暗くする何か。作業台の上の蝋燭の炎が、ふっと、背を縮める。
その瞬間だった。
作業台の上の水晶の欠片が――ぽう、と光った。
表面に刻まれた髪の毛ほどの細い線が、一本残らず、淡い青に浮かび上がる。脈打つように、明滅する。まるで、何かに応えるように。
雷夕の手のひらの影が消えると、欠片の光も、すうっと消えた。
工房の中が、しんと静まった。
「……今の、ほんのちょっとだぞ」
「ええ。ほんのちょっとで、これ」
ロゼリアは、欠片を拡大鏡で覗き込みながら、低く言った。
「欠片でこれよ。元の水晶がまるごと残ってたら、どれだけ離れた場所から拾えたか。――あの刺客、最後に水晶に何か囁いてたでしょう。あれは、見たものを送ってたんじゃない。まだ劣化は出ていないって、確かめて、送ってたのよ」
(――見られてる、ってことか)
ずっと。
あの路地で、剣を振るっている間じゅう。手のひらを握り込んで、劣化を使わなかった、あの判断さえも。
「気味の悪い話だな」
「でしょうね」
ロゼリアは欠片を置くと、代わりに小さな腕輪を取り出した。
「だから、対策を考えた」
「――それは?」
「魔力感知を、ある程度誤魔化す腕輪。完全には防げないけど、発動の瞬間だけ、揺らぎを散らす」
彼女の声には、いつもの職人らしい淡々とした調子の下に、確かな熱があった。
「間に合わせだけどね。今のあなたじゃ、後手に回ったら――」
言いかけて、ロゼリアは口を噤んだ。
「回ったら?」
「……何でもない。着けてみて」
雷夕は素直に腕輪を受け取り、手首に嵌めた。
ひんやりとした感触。
それだけで、なぜか少し、肩の力が抜けた気がした。
「試すぞ」
「ええ」
もう一度、灯火の瓶を見る。ごく小さく、写す。
蝋燭の炎が、また、ふっと背を縮めた。
水晶の欠片が――光った。
けれど、さっきとはまるで違った。線の一本一本が、ばらばらに、思い思いの間隔で、ちらちらと瞬いているだけ。さっきのような、脈打つ揃った光ではない。何かを捉えた、という光り方ではなかった。
ロゼリアが、ほう、と息を吐いた。
「散ってる。……完全じゃないけど、これなら、どこで何が起きたかまでは、拾いきれないはず」
「悪くない」
「当然よ。誰の作だと思ってるの」
ロゼリアは、ふん、と鼻を鳴らしたが、口元には満更でもなさそうな笑みが浮かんでいた。
*
昼過ぎ、中庭でアリシアと顔を合わせた。
回廊の柱の陰に、兵が二人。少し離れた井戸の脇に、もう二人。アリシアの周りの兵は、約束どおり、目に見えて増えていた。
「腕輪、着けてるのね」
「ロゼリアに押しつけられた」
「似合ってるじゃない」
からかうような口調だった。それから、アリシアは、ふと雷夕の足元に目を落とした。
雷夕は、彼女の左側に立っていた。
「……本当に、左側を歩くのね。あなた」
「え?」
「あの紙に、書いてあったでしょう。『常に連れの左側を歩く』って」
言われて、初めて気づいた。
傭兵団にいた頃の癖だ。右手で剣を抜く時に、連れの体が邪魔にならないように。いつの間にか、体に染みついていた。
「……気持ち悪いな、改めて言われると」
「ええ。気持ち悪いわね」
アリシアは、小さく笑った。
それから、笑みを消した。
「あの紙を書いた者の、後ろにいる誰か。――その誰かは、あなたの癖を、もう全部知っている」
「だろうな」
「だから」
アリシアは、まっすぐに雷夕を見た。
「無茶はしないで。あなたに何かあったら――」
そこで、言葉を切った。
唇を噛んで、小さく首を振る。
「……何でもないわ。忘れて」
「忘れねぇよ、そんなの」
雷夕は、苦笑しながら答えた。
アリシアは、何も言い返さなかった。
ただ、自分の右手で、左の袖口を、ぎゅっと握っていた。
ほんの少しだけ、雷夕の方へ、体を寄せて。
*
夕刻。
工房に戻った雷夕は、ロゼリアと並んで、腕輪の調整を続けていた。
「もう一段階、絞れそう」
「頼む」
単調な作業。だが、不思議と嫌いではなかった。
(――こういう時間、悪くないんだよな)
机に並んだ工具が、灯した蝋燭の光を鈍く跳ね返していた。
その静けさを破ったのは、慌ただしい足音だった。
「雷夕! ここにいたか!」
駆け込んできたのは、ケインだった。息が上がっている。
「――どうした」
「西門の兵から報告だ。旅装の女が一人、門の周りをうろついていたらしい」
「女?」
「顔もよくは見えなかったそうだ。だが」
ケインは、一度、唾を飲み込んだ。
「兵が誰何すると、何も言わずに背を向けて、そのまま雑踏に消えたそうだ。まるで――値踏みでもするような目で、城を見上げてから」
工房の空気が、すうっと冷えた。
雷夕の脳裏に、血に濡れた紙の余白がよぎった。
歩幅。剣を抜く早さ。手のひらを握る癖。連れの左側を歩く癖。
――全部、もう知られている。
下見は、済んだのだ。
(だったら、次に来るのは――)
ロゼリアが、拡大鏡を置いた。
かたん、と。その小さな音が、やけに大きく響いた。
ケインが、絞り出すように言った。
「兵が言うには――女は、城を見上げながら、指を折っていたそうだ」
「指を?」
「一つ、二つ、と。……何かを、数えるように」
雷夕は、知らず、手首の腕輪を握りしめていた。
城の窓。城の門。城の兵。
――あるいは、残された時間を。




