第15話 影の名
執務室の机の上に、二枚の紙が並んでいた。
一枚は、バルクの胸甲から出てきた似顔絵。
もう一枚は、昨夜、石畳の上で拾った似顔絵。乾いた血が、端を茶色く固めている。余白には、細かな字がびっしりと。
アリシアは、その二枚を、長いこと見下ろしていた。
「……ケインからの一報は、夜明け前に届いていたわ」
顔を上げないまま、言う。
「怪我がないことも。刺客が深手を負って逃げたことも。――この紙のことも」
雷夕は、黙っていた。
知られている。全部。報告しに来たはずが、答え合わせをしに来たようなものだった。
アリシアの指先が、余白の一番下の一行に、そっと触れた。
『連れの女、銀髪。――領主か』
「私が、ついていったせいね」
「違う」
「違わないわ。あの刺客は、あなたを探るために見ていた。そこに、のこのこ私がいた。……変装なんて、髪ひと筋で台無し」
自嘲するように、口の端が上がる。
「これで、あなたの隣にいる私まで、標的の数に入れられた。あなたの手間を、一つ増やしたのよ」
「――手間じゃない」
思ったより、強い声が出た。
アリシアが、ようやく顔を上げた。
「あんたが狙われるかもしれないってのは、手間じゃない。……一番、困ることだ」
執務室が、しんと静まった。
アリシアは、何か言いかけて、唇を閉じた。
膝の上で組んだ手に、ぎゅっと力がこもる。
「お待たせ」
その静けさを、扉の開く音が破った。
入ってきたロゼリアは、二人の顔を見比べて、一瞬だけ眉を上げた。それから、何も言わずに机の前まで来て、小さな布包みを、ことりと置いた。
「現場で拾ったもの」
布を開く。
中には、親指の爪ほどの、透き通った欠片が一つ。表面に、髪の毛よりも細い線が、幾重にも刻まれていた。
「あの刺客が、去り際に何か囁いてた水晶。その破片よ。落とした拍子に欠けたんでしょうね」
「報告用の魔道具、か」
「たぶん。遠くにいる誰かに、声か、見たものを送る類の。――こんな精度の代物、そう簡単には手に入らないわ。うちの工房でも、作れるかどうか」
「金をかけてる、ってことか」
「相当にね」
ロゼリアは、腕を組んだ。
「それと、路地に残ってた血の量。あれ、普通なら動けない深手よ。それでも走って逃げた。――痛みを感じない薬か何かを使ってたか、そういう訓練を受けてたか」
「バルトレンの差し金、でしょうね」
アリシアが、二枚の紙を重ねて、脇に寄せた。
もう、指は震えていなかった。
「城の警備を見直すわ。城門と城下の主だった場所に、兵を二人一組で立たせる。この似顔絵の写しを持った者を見かけたら、すぐに知らせるように。――それと、雷夕。あなたにも、護衛をつけたい」
「いらない」
「言うと思った」
「足手まといが増えるだけだ。俺を守る兵がいるなら、その分、あんたの方に回せ」
アリシアの眉が、ぴくりと動いた。
「……私には、ケインがいるわ」
「ケイン一人で足りるなら、昨夜、俺が剣を抜く必要はなかったろ」
「――っ」
言い返そうとして、アリシアは口を噤んだ。
ロゼリアが、横で小さく吹き出した。
「一本取られたわね、アリシア様」
「……ロゼリア」
「はいはい」
アリシアは、深々と溜め息をついた。
「分かったわ。私の周りの兵は、増やす。その代わり――あなたも、一人で城の外に出ないこと。どこへ行くにも、必ず誰かと。それだけは、譲れない」
「……分かった。それくらいなら」
雷夕は、渋々頷いた。
実際、昨夜の相手は、侮れる腕ではなかった。あれが「探り」でしかなかったのなら、本命は、もっと上にいる。
「リヴァールには、知らせなくていいの?」
ロゼリアの問いに、雷夕は少し考えてから、首を振った。
「あいつは今、自分の探し物に集中してる。余計な心配はかけたくない」
「――甘いんじゃない、それ」
「かもな。でも、今はそれでいい」
ロゼリアは、それ以上は何も言わなかった。ただ、水晶の欠片を布に包み直しながら、ぼそりと付け足した。
「これ、もう少し調べさせて。どこまで"見られてた"のか、分かるかもしれない」
*
――その頃。
城下から遠く離れた、街道沿いの廃屋。
崩れかけた壁の隙間から、乾いた風が吹き込んでいる。床には、黒く固まりかけた血の跡が、点々と続いていた。
その先で、昨夜の刺客が、壁に背を預けて座り込んでいた。
脇腹に巻いた布は、もう、赤黒く染まりきっている。
「――ご苦労だったね」
暗がりから、声がした。
旅装の女だった。
擦り切れた外套。腰に下げた、飾り気のない剣。フードの下から覗く目は、獲物の足跡を見定める猟師のように、静かで、鋭い。
「グレンタ様。……申し訳ありません。深手を負わされ、途中で退くほかありませんでした」
「謝ることはないよ」
グレンタは、刺客の傷を一瞥すると、懐から小瓶を取り出して、中身を無造作に傷口へ振りかけた。
刺客の喉から、押し殺した呻きが漏れる。
「で。何が分かった」
「剣の腕、身のこなし――噂以上の代物でした。それと」
刺客は、途切れ途切れに語った。踏み込みの速さ。剣を抜く早さ。歩く時の癖。そして――最後まで、一度も見せなかった、"劣化"。
「誘いました。何度も。それでも、使わなかった。……こちらの狙いを読んで、わざと隠したのだと思います」
「ふうん」
「それと、申し訳ありません。記録をつけた写しを――落としました」
グレンタの手が、止まった。
それから、ふっと、鼻で笑った。
「いいさ。向こうに読ませてやりな」
「は……」
「自分の歩き癖まで書かれた紙を見て、平気な顔ができる奴はいない。怖がってくれりゃ、それだけ動きが固くなる。固くなった獲物ほど、仕留めやすいものはないよ」
グレンタは、懐から、もう一枚の紙を取り出した。
深紅の封蝋の跡が残る、封筒。その中から引き出された、木炭の似顔絵。
気の抜けた目元。締まりのない口。
彼女は、それを、しばらく眺めていた。
「隠す頭がある、か」
呟く。
「なら、隠す暇を与えなきゃいい。出させる前に、首を落とす。――それだけの話さ」
「いかがなさいますか」
「決まってるだろう」
グレンタは、似顔絵を折り畳んで、懐にしまった。
立ち上がる。
崩れた壁の向こう、街道の先――イヴァルキアの城下がある方角を、静かに見据えた。
「――私が、直接会いに行くよ」




