第14話 夜道の刃
菓子屋を後にする頃には、店先の鉄板の火が落とされ、通りの軒先のランプに、一つ、また一つと青白い火が入りはじめていた。
雷夕は、歩きながら、何度か水路の向こう岸を振り返った。灰色の外套は、もう、どこにも見えなかった。
「城下で一番賑やかな店、知ってるのよ」
アリシアはそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべて先に立って歩き出した。
*
連れて行かれた先は、見覚えのある看板だった。
「――ハンナの店じゃないか」
「知ってるの?」
「前に一度、ロゼリアの使いで来ただけだけどな。世話にはなってる」
暖簾をくぐると、相変わらずの喧騒が二人を出迎えた。
「らっしゃい――って、雷夕の兄さんじゃない!」
カウンターの奥から、ハンナが声を上げた。
「今日は別嬪さん連れかい。隅に置けないねぇ」
「別嬪さん、って――」
「ハンナ、久しぶりね」
フードを軽く持ち上げながら、アリシアが微笑んだ。
その顔を見た瞬間、ハンナの目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「――っ、こ、これはこれは! お忍びとは知らず、大変失礼を!」
深々と頭を下げるハンナに、アリシアは慌てて手を振った。
「今日だけは、ただの客よ。かしこまらないで」
「そうは言われましても……」
珍しく狼狽えるハンナの姿に、雷夕は思わず噴き出した。
「あんたでも、そんな顔するんだな」
「うるさいよ。こっちは色々あるんだから」
結局、奥の個室に案内されることになった。護衛のケインともう一人は、店の入り口で目立たぬよう控えている。
「今日のおすすめは、岩猪の煮込みと――」
注文を取りに来たフィオナが、アリシアの顔を見て、僅かに目を丸くした後、すぐにいつもの清楚な微笑みに戻った。
「本日はご来店、誠にありがとうございます」
「あら、礼儀正しい子ね」
「恐れ入ります。……ちなみに、噂の"劣化"さんの連れが誰なのか、とても気になりますが」
悪戯っぽく囁くフィオナに、雷夕は思わず苦笑した。
料理が運ばれてくる間も、店の喧騒は途切れなかった。厨房の方から、リタの明るい笑い声と、何かが転がり落ちる音が聞こえてくる。
「――また何かやらかしたわね、あれ」
アリシアが、くすくすと笑いながら囁いた。
「毎度のことだ。慣れると、あれはあれで心地いい」
「分かる気がするわ。……賑やかな場所って、いいわね」
その言葉には、普段は縁のない喧騒を、心から楽しんでいる響きがあった。
*
食事を終え、店を出た頃には、夜はすっかり更けていた。
城への帰路、人通りはまばらだった。ケインともう一人の護衛が、油断なく周囲に目を配りながら先導する。
「――今日は、ありがとう」
アリシアが、ふと足を止めて言った。
「柄にもなく、ずっと楽しかったわ」
「柄にもなく、は余計だ」
「あら、失礼」
軽口を交わしながら歩く、その矢先。
「――ッ」
ケインが、鋭く声を上げた。
「何者だ!!」
闇の中、路地の陰から、黒ずくめの人影が滑り出てくる。
背格好に、見覚えがあった。
(――水路の、あいつか)
灰色の外套は、もう脱ぎ捨てている。その下の黒い衣が、夜の闇に溶け込んでいた。
音もなく。
――否、音を殺して。
「――大人しくしてもらおうか」
抑揚のない声。
剣を構えるでもない。ただ、じっと。値踏みするような視線が、一点に注がれている。
(――俺か)
その視線は、アリシアではなく、雷夕に据えられていた。
「お前が例の"珍しいスキル持ち"か。どの程度の代物か、見せてもらう」
「――俺が目当てか」
「お前の力、見せてみろ」
言葉を切ると同時に――影が、消えた。
「アリシアを頼む!」
叫びながら、雷夕は剣を抜いていた。
ケインが弾かれたようにアリシアの前へ回り込む。もう一人の護衛が、周囲の闇へ油断なく視線を走らせる。
――来る。
拳が、唸りを上げて迫った。
(速い――!)
紙一重。
雷夕は身を捻ってそれを躱し、返す刃を叩き込んだ。
――ザシュッ。
確かな手応え。
だが。
「――今のを受けて、まだ動けるのか」
「悪いが、痛みには慣れていてな」
この言葉通り、傷口から血を滲ませながらも、影の声には一片の動揺もなかった。
(おいおい、浅い傷じゃないだろ! まだ動けるのかよ)
驚く暇もなかった。
影は、傷など気にも留めぬ様子で、間合いを詰め直してくる。
「――もう一度」
低い声とともに、蹴りが繰り出された。
雷夕は剣で受け止めたが、衝撃で足が半歩、後ろに滑る。
「くっ――重い!」
力そのものは、決して規格外というわけじゃない。
だが、纏う気配に、迷いというものが一切なかった。
まるで、痛みも恐怖も、最初から持ち合わせていないかのように。
二合、三合と刃と拳が交差する。
雷夕の剣が、影の肩を、腕を、次々と捉えていく。浅くない傷が、いくつも刻まれていくはずだった。
それでも、影の動きは鈍らない。
(このままじゃ、埒が明かない――)
『劣化』を使えば。
一瞬、そう思った。この男の蹴りを写せば、何かは起きる。何に化けるかは分からないが、少なくとも、この膠着は崩れる。
――だが。
――お前の力、見せてみろ。
さっきの言葉が、耳の奥で引っかかった。
(……こいつ、最初から、それしか言ってない)
殺すつもりなら、もっと早く、もっと急所を狙ってきているはずだ。この男は、拳を出しながら、ずっとこちらの手元を見ている。剣ではなく、空いている方の、手のひらを。
見たいのだ。『劣化』を。
だったら。
(――見せてやるもんか)
雷夕は、手のひらを握り込んだ。
雷夕は奥歯を噛み締めながら、踏み込みを一段深くした。
「――ッ!」
剣の切っ先が、ついに影の脇腹を深々と抉る。
さすがに、影の膝が僅かに揺らいだ。
「……見事、だ」
声に、初めて僅かな苦渋が滲む。
「だが……肝心のものは、見せてもらえなかったな」
初めて、声に苛立ちのようなものが混じった。
「――俺の仕事は、ここまでだ」
淡々とした調子でそう告げると、影は懐から小さな水晶を取り出し、何事かを囁いた。
満足げに、頷く。
「……まあ、いい。見せないという判断ができる男だ、と。それも収穫だ」
「待て――ッ!」
雷夕が地を蹴った、その瞬間。
影の姿は、煙のように闇へと溶けて消えていた。
「……逃げ足だけは、一丁前だな」
剣を鞘に納めながら、雷夕は舌打ちした。
「大丈夫か、アリシア」
「ええ、平気よ。……でも」
アリシアの声には、これまでにない硬さがあった。
「今のは、ただの物盗りじゃないわね」
「ああ。俺を、探ってたみたいだった」
ケインが、油断なく周囲を見回しながら、低い声で言った。
「お嬢様、今夜はこのまま城へ。詳しい報告は、明日以降に」
「……そうね」
アリシアは頷きながらも、雷夕へと視線を向けた。
――その足元で、かさり、と。
何かが、石畳の上で鳴った。
影が消えた、そのすぐ傍。雷夕の剣が脇腹を抉った時に、裂けた衣の隙間から零れ落ちたのだろう。折り畳まれた紙が一枚、血に濡れて転がっていた。
拾い上げる。
広げる前から、分かっていた。
木炭の線。気の抜けた目元。締まりのない口。――自分の顔。
ただ、バルクの胸甲から出てきた一枚とは、違うところがあった。
余白に、細かな字が、びっしりと書き込まれていた。
『右利き。歩幅やや広い。常に連れの左側を歩く。剣は抜くのが早い。手のひらを、よく握る』
今日一日の、自分だった。
書庫で。仕立て屋で。水路沿いで。ずっと、見られていた。
そして、一番下に、一行。
『連れの女、銀髪。――領主か』
「雷夕? それ、何――」
アリシアが、覗き込もうとした。
その拍子に、フードの縁から、銀の髪が一筋、零れ落ちた。
ランプの青白い光の中で、それは、ひどく目立って光っていた。




