第13話 お忍びの一日
約束の朝、城の裏門で待っていたのは、フードを目深に被った人影だった。
「……アリシア?」
「しっ。今日は、ただの町娘よ」
フードの下から覗いた顔は、間違いなくアリシアだった。
ただ、いつもの上質な衣装ではない。生成りの麻のワンピースに、くたびれた革の短靴。腰には、どこにでも売っていそうな布袋をひとつ提げているだけ。銀の髪は、フードの中に三つ編みにしてきっちりと押し込まれていた。
城下の通りに紛れたら、まず誰も、この国の領主だとは思わないだろう。
「随分と、板についてるじゃないか」
「言ったでしょう。子供の頃から、忍び出るのは慣れてるの」
得意げに胸を張るアリシアの少し後ろで、二人の護衛が、居心地悪そうに立っていた。
一人は、壮年の男だった。肩幅が広く、背筋は槍を一本呑んだようにまっすぐ。旅商人風の外套を羽織っているが、その下の体つきと立ち姿だけで、ただ者でないのが分かる。もう一人は、まだ若い女性の兵士だった。
「――お嬢様。せめて、我々にも歩幅を合わせていただけると」
「分かってるわよ、ケイン。今日はあくまで、お忍びなんだから」
ケインと呼ばれた護衛は、深々と溜め息をついた。それから、ちらりと、雷夕の方を見た。
ほんの一瞬。
値踏みでも、警戒でもない。――頼む、とでも言うような目だった。
(……ああ。あの紙のこと、聞いてるんだな)
雷夕は、小さく頷き返した。
「よし、行きましょう」
アリシアが、先に立って歩き出した。
*
最初に向かったのは、南の通りにある古い書庫だった。
扉を開けた途端、古い紙とインクの匂いが、どっと押し寄せてきた。
天井まで届く本棚が、迷路のように奥へ奥へと続いている。棚の隙間から差し込む細い光の中で、埃が、金色の粒になってゆっくりと漂っていた。床板は、歩くたびに、ぎし、ぎしと鳴る。
「うわ、こりゃすごいな」
「でしょう? ここの主人、変わり者だけど、集めた資料の質は折り紙付きなの」
アリシアは、迷いのない足取りで棚の奥へ進むと、背伸びをして、一冊の古びた日記帳を引き出した。
「見て、これ。百年近く前の行商人の記録よ。当時のイヴァルキアの様子が、毎日少しずつ書かれてるの」
頁をめくる指先が、弾んでいた。
「ここ。『本日、レーヴァルトの城下にて、水を汲み上げる奇妙な箱を見る。主婦が取っ手を回すと水が出る。我が故郷にも欲しい』――ほら、あの真鍮の箱。百年前から、もうあったのよ」
「へえ……」
「こっちは、この人が南の港町で恋をした話。三日で振られてるわ」
「それ、日記に書くか普通」
「書くのよ。だから面白いの」
目を輝かせて頁をめくるアリシアの横顔は、統治者のものではなかった。ただの、本好きの少女だった。
書棚の陰で、ケインが、もう一人の護衛に小声で囁くのが聞こえた。
「――いつものことだが、ここに来ると長いぞ」
「覚悟しておきます」
案の定、アリシアが日記帳から顔を上げたのは、それから小一時間も経ってからのことだった。
*
次に寄ったのは、東の広場の近くの仕立て屋だった。
店に入るなり、雷夕の上着は、初老の仕立て屋に、遠慮のない目でじろじろと品定めされた。
「――お客さん、これはもう寿命ですね」
袖口のほつれを、指でつまむ。肘の継ぎ当てを、ひっくり返す。裾の焦げ跡に、鼻を鳴らす。
「継ぎ接ぎだらけの傭兵装束より、少しはまともなものをどうぞ」
「余計なお世話、って言いたいところだが……否定できないな」
渋々、採寸台の上に立たされる。
巻尺が、肩に、腕に、胴に、手際よく回されていく。その間じゅう、アリシアは店の棚から布地を何枚も引っ張り出しては、雷夕の体にあてがった。
「これは……ちょっと派手ね」
「だろうな」
「これは地味すぎ」
「別にそれでいいけど」
「よくないわ。――これ。この濃い灰色。動いても汚れが目立たないし、あなたの目の色にも合う」
あてがわれた布地を、仕立て屋が、ふむ、と覗き込んだ。
「お嬢さん、目が利きますな」
「でしょう」
出来上がっていた吊るしの上着を、仮に羽織ってみる。肩の線がぴたりと合い、腕を回しても、どこも突っ張らない。傭兵稼業で着古した装束より、むしろ軽いくらいだった。
「――悪くないじゃない。そういうのも似合うのね」
「……にしても、値が張りそうだな、これ」
「今日の分は、私に払わせて」
「いや、それは――」
「恩返しの前借り、ってことにしておくわ」
アリシアは、布袋から硬貨を取り出しながら、さらりと言った。
「あなたには、これから返してもらうものが、たくさんあるもの。――ちゃんと、生きて返しに来てもらわないと、困るのよ」
冗談めかした口調だった。
けれど、硬貨を数える指が、一瞬だけ、止まった。
雷夕は、何も言い返せなかった。
*
最後に立ち寄ったのは、北の水路沿いの、小さな菓子屋だった。
店先の鉄板の上で、木の実を練り込んだ焼き菓子が、ちりちりと音を立てている。香ばしい甘い匂いに誘われて、通りがかりの子供たちが、軒先に鼻を押しつけていた。
「これ。この店の看板商品なの」
「じゃ、それをもらおうか」
包みを抱えて、水路沿いの石のベンチに腰掛けた。
水面を、平底の荷舟が、ゆっくりと滑っていく。船頭の竿が水を掻くたび、ちゃぷん、と小さな音がして、水面に映った家並みが、ゆらゆらと崩れる。
焼き菓子を、ひとくち齧った。
さくり、と崩れて、木の実の香りと、蜂蜜の甘さが広がる。
「……うまいな、これ」
「でしょう」
アリシアは、満足げに目を細めて、自分の分を口に運んだ。
少し離れた木陰では、ケインともう一人の護衛が、それとなく周囲に目を配っている。
「――こういう時間、久しぶり」
水面を眺めたまま、アリシアが、ぽつりと言った。
「そんなに忙しかったのか」
「領主になってからは、特にね。帝国のことも、内政のことも、いつも何かしら考えていないといけなくて」
膝の上で、菓子の包み紙を、丁寧に折り畳んでいく。
「眠る前もね。目を閉じると、地図が浮かぶの。国境の街道。村の名前。守備隊の数。――七通の手紙を書いた夜からは、名前も」
包み紙が、小さな四角になった。
それを、指先で、いつまでも撫でている。
雷夕は、しばらく黙って、その横顔を見ていた。
「――今日くらいは」
口を開く。
「今日くらいは、何も考えなくていいんじゃないか。地図も、名前も。俺も、ケインも、そのためについてきてるんだし」
アリシアは、きょとんとした顔をした。
それから、ふっと、小さく笑った。
「……そうね。今日くらいは」
二人は、しばらくの間、言葉もなく水路の流れを眺めていた。
荷舟の竿の音。通りを行き交う人々の声。遠くの市場の喧騒。
何気ない城下の音が、やけに心地よく耳に響いた。
――ぐう、と。
間の抜けた音が、静けさを破った。
「……今の、あんた?」
「悪い。菓子だけじゃ、さすがに足りなかったみたいだ」
雷夕が頭を掻くと、アリシアは、堪えきれずに噴き出した。
肩を震わせて、目尻に涙を浮かべて。執務室では一度も聞いたことのない、屈託のない笑い声だった。
「仕方ないわね。――もう少しだけ、付き合ってあげる」
アリシアが、ベンチから立ち上がる。
雷夕も、腰を上げた。
――その時だった。
水路の、向こう岸。
荷舟を待つ人の列の、一番後ろ。
灰色の外套の男が、一人、こちらを見ていた。
フードの陰になって、顔は見えない。ただ、その手に、折り畳んだ紙を一枚、持っていた。
紙を、見る。
顔を上げて、こちらを見る。
また、紙を見る。
見比べている。
(――)
背筋が、すうっと冷えた。
次の荷舟が、二人の視界を横切った。
舟が通り過ぎた時には、もう、灰色の外套は、どこにもなかった。
「雷夕? どうしたの」
アリシアが、振り返った。
フードの下の顔が、まだ、さっきの笑いの名残で、ほんのりと赤い。
「……いや」
雷夕は、笑ってみせた。
「何食おうか、考えてただけだ」
「食いしん坊ね。いいわ、とっておきの店に連れていってあげる」
アリシアが、弾むような足取りで歩き出す。
その背中を追いながら、雷夕は、ちらりと木陰を見た。
ケインが、こちらを見ていた。
笑っていなかった。その右手が、外套の下の剣の柄に、そっと添えられていた。
――見たのは、俺だけじゃない。
ケインが、ほんの僅かに、顎を引いた。
雷夕も、それに、頷き返した。




