3話 小さな温度、ココアの差し入れ
♢隔たりと特等席
対する結乃は、その言葉を額面通りに受け取った。
怒られる。あるいは、疎まれる。家でも学校でも味わってきた、あの居場所のなさがここでも繰り返されるのだと、彼女の小さな胸に鋭い絶望が走る。拒絶される恐怖に、細い身体がさらに強張った。
「あ……す、すみません、です……っ」
消え入りそうな、けれど懸命に絞り出した謝罪。
彼女は自分をさらに小さく折り畳むようにして、冷たい壁の端へと身体を寄せようとした。その拍子に、水分を限界まで含んだブレザーがコンクリートと擦れて、じっとりとした嫌な音を立てる。彼女の語尾に付いた独特の、です……っ、という震える言い回しに、錬慈は一瞬だけ、微かな違和感と、それを上回るほどの庇護欲を覚えた。放っておけば、このまま凍えて消えてしまいそうな儚さが、彼の胸を強く突いた。
「……そんな端に行ったら、屋根の意味がなくて余計に濡れるだろ。もっと奥だ。そこにいろ」
錬慈はスクーターのハンドルを握り直し、ゆっくりとガレージの奥へと車体を進めた。
タイヤが濡れた床を静かに転がり、エンジンの残熱と、微かなガソリンの匂いが、冷え切った空気の中に混ざり合う。彼はスクーターを、あえて彼女と雨の世界を隔てる壁にするような位置に停めた。吹き付ける容赦のない強風と水飛沫から、彼女の小さな身体を庇うようにして。
結乃は驚きに目を見開いた。
邪魔だと追い払われると思ったのに、与えられたのは、激しい風雨が届かないガレージの最深部――いわば、この薄暗い空間における特等席だったからだ。激しかった雨の音が、スクーターの車体に遮られて、ほんの少しだけ遠くに聞こえる。
男の横顔を盗み見ると、彼は依然として気だるげに湿った前髪を掻き、自分を見ようとはしていなかった。けれど、その大きな背中からは、先ほどまで感じていた威圧感ではなく、雨の冷たさを僅かに和らげるような、不思議なほど低い体温の優しさが漂っている。結乃は、その背中に守られるようにして、小さく息を吐き出した。
「……あ、あの……」
言葉を続けようとした結乃だったが、寒さと緊張で喉が震えてうまく繋がらない。
そんな彼女を促すことも、あるいは理由を問い質すこともせず、錬慈はスクーターの鍵をカチリと引き抜くと、重い足取りで勝手口のドアへと向かった。ドアノブに手をかけ、背を向けたまま、彼はぼそりと低い声を落とす。
「……そこにいろと言ったんだ。勝手に濡れに行って、うちの敷地で倒れられたら寝覚めが悪い」
最後まで突き放すような、けれど確実な居場所を肯定する言葉を残して、彼は家の中へと消えた。バタンとドアが閉まり、鍵の閉まる小さな音が響く。
後に残されたのは、世界を塗り潰すように降り続く雨の音と、彼のスクーターが残した微かな熱が漂う、ガレージの沈黙だけだった。結乃は、その鉄の盾が作り出してくれた雨風の隙間に身を寄せ、凍えた指先でバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。じんわりと残るガソリンの匂いが、不思議と人の気配を感じさせて、冷え切った身体にほんの少しだけ安堵を運んでくる。
驚きと戸惑い。けれど、彼女の心に黒く巣食っていた、このまま消えてしまいたいほどの絶望は、彼の不器用な一言によって、ほんの僅かだけ、その色を変え始めていた。激しい雨音に囲まれながらも、結乃は初めて、嵐を凌げる小さな世界の暖かさを知った。
♢ 小さな温度、ココアの差し入れ
勝手口から一度家に入った錬慈は、キッチンの床に買い出しのレジ袋を乱雑に置いた。
普段なら、買ってきた食材を一つずつ冷蔵庫に収め、お気に入りの豆を丁寧に挽いてブラックコーヒーを淹れるのが彼のルーティンだ。しかし、今はこの静かな家の中の平穏が、どこか落ち着かない。しんと静まり返ったリビングの空気が、妙に肌寒く感じられた。
意識の端に、ガレージの湿ったコンクリートの上で、ガタガタと歯の根が合わないほど震えていたあの少女の姿が張り付いて離れなかった。薄い制服の生地が水を吸って重く垂れ下がり、彼女の体温を容赦なく奪い去っていく光景が、鮮明に焼き付いている。
あんなに濡れてたら、すぐ体温持っていかれるぞ。




