12話 境界線の融解、残熱と共同作業
♢最初の甘い呪い
(熱い……っ。月島さん、すごく……熱いです……)
恥ずかしさが限界に達し、結乃は震える左手でパーカーの大きなフードをぐいっと引っ張った。赤くなった耳まで隠そうとする、彼女なりの防衛本能だった。
「……月島さん、あの、手……」
消え入りそうな声で抗議を試みるが、人混みの怖さと、何より今自分を繋ぎ止めているこの温もりを失いたくないという想いから、自ら手を引くことはどうしてもできなかった。
むしろ、彼女は萌え袖の隙間から、ほんの僅かに力を込めてその手を握り返した。冷え切った日常に迷い込んだ子供のように、あるいは主人を恐れる忠犬のように、ただ必死にその体温に縋りつく。
錬慈は何も言わなかった。
けれど、握り返されたその瞬間に、結乃の手を包む指先の力がほんの少しだけ強くなったのを、彼女の肌は敏感に感じ取っていた。彼なりの無言の優しさが、繋いだ手のひらからじわりと伝わってくる。
(……あぁ、こいつ、本当に細いな。折れちまいそうだ)
どんよりとした曇り空の下、アスファルトを歩く二人の心音は、重なり合う手のひらを通じて、言葉以上に饒舌に共鳴していた。湿った風の冷たさも、街の雑音も、今の結乃にはもう届かない。
繋がれた手のひらからドクドクと伝わる、お互いの速すぎる心拍音。それは言葉以上の饒舌さで共鳴し、結乃は「この手を絶対に解きたくない」という執着にも似た想いから、萌え袖の隙間から俺の手を微かに握り返した。この瞬間の熱こそが、二人のセカイに最初の一色を刻み込んだ「甘い呪い」となったのである。
♢ 境界線の融解、残熱と共同作業
スーパーからの帰り道、繋いでいた手を離したのは、マンションの入り口が見えてきた時だった。
急に軽くなった右手の感覚に、結乃は言いようのない寂しさと喪失感を覚え、萌え袖の裾をぎゅっと握りしめた。手のひらにはまだ、月島さんの無骨で熱い指の感触が、甘い火傷のような熱を持って残っている。肌に残るその余熱を愛おしむように、彼女はそっと自分の胸元へ右手を引き寄せた。
「……おーい、小桜さん。行くぞ」
「あ……は、はいっ、です……っ」
玄関を開け、再び二人きりの空間に戻る。外の湿った風とは対照的な、使い古された紙とコーヒーの匂いが混ざった錬慈の部屋の空気。それが今は、何よりも結乃の心を深く安らがせていた。
二人は買ってきた食材を広げ、狭いキッチンに並んで立った。
「……月島さん、私にできること、ありますか?」
「じゃあ、ネギ切っといて。俺はこっちやるから」
並んで包丁を動かす、トントン、という規則正しい音が、いつかの雨音に代わって部屋の中を優しく満たしていく。錬慈の逞しい腕が時折結乃の華奢な肩に掠めるたび、彼女の心臓は跳ね上がった。けれど、不思議とあの日ガレージで感じたような、逃げ出したい、という恐怖はもうどこにもなかった。むしろ、その微かな接触がくれる確かな存在感に、ひどく安心している自分がいた。
完成した簡素な食事を済ませると、錬慈はふと思い出したように、いつもの気だるげなトーンで切り出した。
「……小桜さん。次からは、自分の着替え、持ってきなよ」
「え……っ?」
「制服のスカートじゃ、ソファーや絨毯の上で寛げないだろ。もう、この部屋は……お前の『居場所』なんだから、もっと楽にしてて良いんだぞ」
その言葉は、結乃にとって、明日も、その先もここにいていい、という、何よりも優しく重い肯定の言葉だった。居場所を奪われ、世界の端に追いやられていた彼女の胸に、じんわりと温かな涙が満ちていく。今度は嬉しさに胸を詰まらせながら、結乃は何度も小さく首を縦に振った。
♢ 居場所の確立、マイ部屋着と無防備な隙間
翌日、結乃は小さなトートバッグをぎゅっと抱えてやってきた。中には、彼女が昨夜悩み抜いて選んだ「マイ部屋着」が入っている。
脱衣所で着替えて出てきた彼女は、ゆったりとしたオーバーサイズの白いパーカーに、短いスウェットのショートパンツという姿だった。錬慈の貸したあのぶかぶかの黒色のTシャツも良かったが、自分の服に包まれた彼女は、どこか保護された子供から、この部屋の住人へと一歩近づいたような、不思議な実在感を放っている。ふんわりと漂う彼女自身の甘い柔軟剤の香りが、錬慈の部屋のインクの匂いに優しく混ざり合った。
結乃はリビングのふかふかした厚みのある絨毯の上に心地よさそうにうつ伏せになり、白く細い素足を交互にパタパタと小刻みに揺らしながら、お気に入りのスケッチノートを大きく広げた。
錬慈もまた、いつものように定位置であるデスクに向かって画面と対峙し、心地よい規則正しいキーボードの打鍵音を室内に響かせる。




