11話 初めての買い物での手繋ぎ
♢日常の二頁目
その健気すぎる姿に、レンジは言葉を失った。
誰にも期待されず、誰の役にも立たないと思っていた自分の自堕落な生活の中に、自分の目覚めをこんなにも純粋に待っている人間がいる。
(……まるで、忠犬みたいだな、コイツは)
レンジは心の中でそう呟き、胸の奥から湧き上がる愛おしさと、締め付けられるような激しい庇護欲に焼かれた。
拒絶されることを何よりも恐れ、相手の平穏な睡眠さえも邪魔したくないと願う彼女の繊細な気遣い。その裏側にある、ドア一枚を隔てた自分への執着にも似た、切実な想いの片鱗をレンジは無自覚に感じ取っていた。
「……とにかく、入れ。外は冷えるだろ。……悪かったな、待たせて」
レンジは彼女から視線を逸らすようにして、けれどその華奢な背中を促すようにドアを大きく開いた。
「んふふ」
結乃は、まるで秘密の隠れ家に入れてもらう子供のような小さな鼻笑いを漏らしながら、レンジの脇を通り抜けて家の中へと吸い込まれていく。その足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。
彼女がすぐ横を通り過ぎた後には、あの日と同じ、甘いシャンプーの香りが微かに残っていた。初夏の熱を含んだ空気を一瞬で塗り替えるような、清らかなその残り香に、レンジの鼻腔が小さく擽られる。
レンジはドアを閉め、カチャリと鍵をかける。
外の世界の容赦のない光を遮断したその部屋で、二人の日常という名前の物語が、今日という新しいページを静かに書き進めようとしていた。
♢聖域の外の一歩
結乃がこの部屋に通うようになって、数日が過ぎていた。
午前10時過ぎ。開け放たれた玄関から、お邪魔します……と控えめな声が響き、パステルカラーのパーカーに身を包んだ彼女がやってくる。それが、不規則な生活を送っていた錬慈の日常に、静かな時計の針を確実に組み込んでいた。
簡単に済ませた昼食の後、錬慈はふと思い立って冷蔵庫の扉を開けた。
棚には飲みかけの牛乳と、使いかけの調味料が数個隠されているだけで、昨日まであった卵も野菜も姿を消している。冷気だけが虚しく錬慈の顔を撫でた。
「あー……食材、何もないな」
錬慈は独り言のように呟き、ワークチェアに背を預けたまま、絨毯の上でスケッチノートを広げている結乃を振り返った。
「おい、小桜さん。ちょっと買い出し付き合え。一人だと、何を買うか考えるのも面倒だ」
「あ……はいっ、喜んで、です……っ」
結乃は弾かれたように顔を上げ、慌てて立ち上がった。その拍子にパーカーの長い袖がふわりと揺れる。彼女にとって、錬慈との外出は、あの心地よい雨宿りの部屋という聖域の外へ、初めて二人で踏み出す一歩だった。緊張と嬉しさが入り混じったように、彼女の胸元で小さな拳がぎゅっと握られる。
外はあいにくの曇り空で、今にも泣き出しそうな湿った風が二人の肌を撫でていった。
二人は適度な距離を保ちながら、近くの商店街へと向かった。普段、錬慈が一人で歩く時には気にも留めない人混みや雑音が、結乃を連れているだけでどこか険しい障害物のように感じられる。一歩後ろを歩く結乃は、すれ違う通行人の肩や、荒く通り過ぎる自転車を避けるたびに、小刻みに身を縮めていた。周囲の視線に怯えるように俯く彼女の背中に、錬慈は無言のまま、そっと自分の身体を寄せて人混みを遮った。
♢初めての買い物での手繋ぎ
スーパーへ続く賑やかな曲がり角に差し掛かった、その時だった。
「危ない、自転車……っ」
背後から鳴らされた鋭いベルの音に、結乃が肩を震わせ、足元を僅かによろめかせた。荒々しく通り過ぎる風が、彼女の短い髪を激しく揺らす。
錬慈はあえて何も言わず、けれど迷いのない動作で右手を伸ばした。パステルカラーの大きなパーカーの袖口から、ほんの少しだけ覗いていた結乃の小さな右手が、彼の大きな手のひらにすっぽりと包み込まれる。
「……っ!?」
結乃の身体が、電流を流されたかのように硬直した。
驚きで錬慈の顔を見上げようとしたが、カッと顔が熱くなった瞬間、彼女は耐えきれずにフイッと斜め下へ視線を逸らした。恥ずかしさと想定外の接触によるパニックで、頭の中のキャンバスが真っ赤に塗り潰されていく。ドクドクと鼓膜を叩く自分の心臓の音が、あまりにもうるさい。
錬慈は前を向いたまま、ぶっきらぼうな口調で言い捨てた。
「お前、ぼーっと歩きすぎだ。はぐれたら面倒だろ。……いいから、そこにいろ」
それは不器用な言い訳だったが、彼の指は結乃の指の隙間にごく自然に滑り込み、恋人同士のような形で優しく、けれど強く指を絡め合わせた。いわゆる、恋人繋ぎ、だ。
(え……あ、月島さん、の手……っ)
結乃は息をするのも忘れ、繋がれた手のひらから伝わる膨大な情報に、心臓を激しく揺さぶられていた。
いつも画面の中で美しい物語を紡ぎ出す、小説家としての指先。ペンを握り続けることで作られた中指の硬いペンだこの感触、男の子特有のゴツゴツとした骨格の確かさ。
そして何より、自分よりも圧倒的に高い体温が、萌え袖の薄い生地を越えてダイレクトに彼女の肌を焦がしていく。しっかりと自分を繋ぎ止めてくれるその力強さに、結乃はパニックになりながらも、決して解きたくないと願うようにその手を微かに握り返した。




