10話 忠犬のような健気さ、朝の寝坊と出迎え
♢ 忠犬のような健気さ、朝の寝坊と出迎え
カーテンの隙間から差し込む、容赦のない初夏の光が、乱雑に散らかったワークデスクを白く焼き付けていた。
使い古されたマグカップの底で固まったコーヒーの跡、山積みの資料、そして一晩中稼働し続けていたディスプレイの熱。Web小説家という、昼夜の境界が曖昧な生活を送る月島錬慈にとって、午前中の光はしばしば、自らの不摂生を突きつける静かな暴力となる。チカチカと点滅するカーソルが、徹夜の疲労をさらに煽るようだった。
「……あ、くそ……」
枕元でしつこく鳴り続けていたアラームをようやく止め、レンジは重い瞼を持ち上げた。焦点の合わない目で壁の時計を見やり、心臓が跳ね上がる。
短針はすでに10を優に超え、11に近づこうとしていた。カチカチと刻まれる秒針の音が、急に耳障りなほど大きく響き始める。
「やべ……10時過ぎなら起きてるって、言ったのに……っ」
昨日、雨宿りに来た少女――小桜結乃に告げた約束が、鈍い痛みとなって脳裏をよぎる。あの嬉しそうに綻んだ笑顔が思い出され、背中に冷や汗が流れた。
彼は慌ててベッドから這い出し、酷い寝癖も直さぬまま、首元が伸びきった黒いTシャツの襟を正すことも忘れて玄関へと走った。フローリングを蹴る自分の足音が、妙に焦れったい。
期待と、それ以上の申し訳なさが胸の中で激しくせめぎ合う。
もし彼女が来ていたら。あるいは、自分が寝坊したことに呆れて、もう帰ってしまっていたら。拒絶されることに怯えていた彼女を、今度は自分が裏切ってしまったのではないか。
レンジは焦燥感に突き動かされるようにして、重い玄関のドアを勢いよく外側へと開け放った。
インターホンは一度も鳴らなかった。
だから、そこには誰もいないはずだった。
しかし、開いたドアのすぐ脇――コンクリートの壁に小さく背を預け、膝を丸めるようにして座り込んでいる影があった。初夏の強い日差しを避けるように、日陰の狭い隙間にすっぽりと収まっているその姿に、レンジは息を呑んだ。
♢ドア越しの信頼
「……っ、小桜さん?」
レンジの掠れた声に、その影がピクリと反応した。
スクールバッグを膝の上に乗せ、じっと地面のコンクリートを見つめていた少女――結乃が、弾かれたように顔を上げる。
次の瞬間、彼女の不安げだった瞳にレンジの姿が映り込んだ。まるで暗闇に灯りがともったかのように、彼女の表情がパッと華やぐ。どんよりと曇っていたはずの彼女の世界に、一瞬で鮮やかな光が差し込んだかのようだった。
「あ……! おはようございます、月島さん!」
結乃は勢いよく立ち上がり、制服のスカートに付いた微かな埃を払うのも忘れて、レンジに向かって嬉しそうに微笑んだ。その屈託のない笑顔は、コンクリートの無機質な廊下を、一瞬で彼女の温かな居場所へと変えてしまう。
「……おい、なんでインターホン押さないんだよ。ずっと、そこで待ってたのか?」
レンジは寝癖だらけの頭をガシガシと掻きながら、申し訳なさを隠すようにぶっきらぼうな声を絞り出した。自分の不規則な生活のせいで、彼女をどれだけの時間、この冷たい廊下に放置していたのか。人を待たせることに慣れていない彼の胸に、嫌な鈍痛が走る。
しかし、結乃は困ったように眉を下げつつ、レンジを気遣うような、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「あ、いえ……起こしちゃ悪いなと思って。……お部屋の中から、月島さんのタイピングの音が、まだ聞こえなかったから。ゆっくりで大丈夫です、です……っ」
ドア越しに自分の気配を――キーボードを叩くカタカタというあの音を、彼女は一生懸命に聞き取ろうとしていたのだ。
自分が泥のように眠りについている間、彼女はただ静かに、その音が始まるのを、あるいはこの重いドアが開くのを、文句ひとつ言わずに信じて待っていた。彼女の健気な信頼の重さに、レンジは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。




