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きみの描く雨が、僕のセカイを塗り替える  作者: あるふぁ
第1章:モノクロのセカイに落ちた、一滴の雫

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9話 明日を紡ぐ約束

♢明日を紡ぐ約束


 玄関まで送り届ける際、ふと錬慈は足を止めた。

 今日という一日を同じ屋根の下で共有しながら、自分たちはまだ、お互いの名前すら知らないままでいる。その事実に、今更ながら奇妙な可笑しさを覚えた。薄暗い玄関口に、外からの夕陽が細長く差し込んでいる。


「……月島錬慈だ。一応、Webとかで小説を書いてる」


 錬慈は少し気恥ずかしそうに、視線を泳がせながらやや長めの前髪を掻いて名乗った。

 結乃は驚いたように目を丸くし、それから一歩、彼の方へと歩み寄った。


「……私は、小桜結乃、です。高校、二年生……です……」


 不器用な自己紹介。けれど、名前を交わしたその瞬間に、二人の間にあった見ず知らずの他人という冷たい壁は、音を立てて崩れ去った。


 結乃はドアノブに手をかけながらも、そこから動こうとはしなかった。

 この扉を開けて外へ出れば、再び自分を拒絶する学校や、冷え切った家庭という息苦しい現実が待っている。その重圧が足元から這い上がってくるようで、彼女の身体が微かに強張った。

 彼女はブレザーの裾を指先が白くなるほどぎゅっと握りしめ、縋るような上目遣いに、震える瞳を錬慈に向けた。


「あの、月島さん……明日も、ここに、来ていいですか……?」


 不意に、心の中で反芻していた呼び名が口を突いて出た。

 錬慈の心臓が、自分でも驚くほどドクンと大きく脈打った。その純粋で切実な眼差しから逃れるように、彼は少し照れくさそうに、気だるげに鼻先をこすりながら、けれど確かな温もりを込めて答える。


「……明日、新しいおやつを買っておくから。それと10時過ぎなら起きてるから」


 その言葉に、結乃の顔がパッと花が咲いたように輝いた。

 明日も生きて、ここに来ていいのだ。自分を待ってくれる場所がある。その無条件の許可が、彼女の白黒だったセカイに、最初の一色を鮮やかに塗りつけた。水滴の残るドアノブを回す彼女の手のひらに、もう先ほどまでの凍えるような冷たさはなかった。



♢雨上がりの選択


「……ほら、行くぞ。何がいいか選ばせてやる」


 錬慈は、明日のおやつを一緒に選ぶ、という建前を作り、彼女を近くのコンビニまで連れ出した。少しでも彼女と過ごす時間を引き延ばし、その細い肩にかかる現実の重みを和らげてやりたかった。


 夕闇の街を、二人は一定の距離を保ちながらも、確かに隣り合って歩く。

 先ほどまでの激しい雨がすべてを洗い流した後の空気はひんやりと澄み渡り、肺の奥まで心地よく染み渡る。アスファルトのあちこちに残った大きな水溜まりが、二人の足元をオレンジ色の夕陽の光で祝福するようにキラキラと反射していた。並んで歩く二人の影が、濡れた路面に長く、静かに伸びていく。


 チリン、とコンビニの自動ドアが開く。明るい店内の光が、二人の横顔を優しく照らし出した。

 明日への希望という、今日一番の小さくて温かなお土産を胸に抱えて、二人はお菓子売り場へと歩みを進める。


 文字と色彩、交わるはずのなかった二人の物語は、この雨上がりの美しい夕暮れから、本当の幕を開けることになる。



♢色彩を欠いた「凍える家」


 錬慈とコンビニの前で別れ、手に持ったビニール袋をまるで宝物のようにきつく抱きしめた。まだそこには、彼が買ってくれたおやつの微かな温もりが、彼の優しさそのもののように残っている。結乃はその温もりを少しでも消さないよう、胸元に強く押し当てながら、重い足取りで自分の住む高層マンションへと辿り着いた。


 オートロックの無機質な電子音がエントランスに冷たく響き、自動扉が重々しく開く。エレベーターの鉄の箱に揺られて自階へと上り、廊下の突き当たりにある、我が家と呼ばれる場所のノブに手をかけた。ドアを開けた瞬間、さっきまで結乃の身体をふんわりと包み込んでいた桃色のパステルカラーの余韻が、一瞬にして容赦なく剥ぎ取られた。


「……ただいま、です……」


 おずおずと差し出されたその声に応える者は誰もいない。返ってくるのは、しんと静まり返った静寂という名の、骨まで凍てつかせるような冷気だけだった。


 玄関の明かりは点いておらず、どんよりとした暗闇が広がっている。湿ったコンクリートよりもさらに冷たいフローリングの感覚が、薄いスリッパの底を突き抜けて足の裏を鋭く刺した。奥のリビングからは、放任主義の母親が自分の用事に没頭しているのだろう、バラエティ番組の不自然に誇張された笑い声と騒がしい音響だけが、虚しく壁に反響していた。


 キッチンへ足を踏み入れると、ローテーブルの上には、ラップすら防塵代わりにかけられていない、いつ買ったかも分からない揚げ物の惣菜が皿に盛られて放置されていた。表面の脂は白く固まり、完全に冷え切っている。

 箸でつまみ、一口だけ無理に口に含んで咀嚼してみても、砂を噛んでいるようで何の味もしなかった。ただ、鉛のような硬い石を胃の最奥に無理やり押し込まれるような、不快な重みと吐き気があるだけだった。


 ふと視線を上げると、鏡台の前で出かける準備なのか、執拗に化粧を直している母親と鏡越しに視線が交差した。しかし、母親は娘の青白くやつれた顔にも、雨に濡れたあと乱雑に乾いて酷いシワの寄った制服のスカートにも、関心を持つような一瞥すらくれなかった。すぐにどうでもいいものから目を逸らすように、興味を失った視線で鏡から目を離し、再びパフを乱暴に肌に叩くパタパタという乾いた音だけを部屋に響かせる。


「また学校、行かなかったのね」


 その声音には、叱責も、心配も、怒りさえも含まれていなかった。ただ、自らの自由な人生を足止めする、邪魔な荷物を遠巻きに眺めるかのような、透き通るほどに冷ややかな無関心。


 結乃は、あの温もり溢れる錬慈の部屋で、彼が淹れてくれた一杯の甘いココアの熱が、自分の身体の芯からみるみるうちに、音を立てて急速に冷え切っていくのをはっきりと自覚していた。


 この冷酷な家には、自分の呼吸を許される場所など、一平方センチメートルも存在しない。

 結乃は光の差し込まない自室へと逃げ込み、ベッドの上で丸くなった。カーテンを閉め切った暗闇の中で、歯の根が合わずにガタガタと細かく震える身体を抱きしめる。あの日曜日の柔らかな光のような、あるいは、規則正しい打鍵音が優しく響くあの心地よい聖域のような、自分を確かに人間として扱ってくれた確かな温度。その記憶の温もりだけに縋り付きながら、冷たい闇の中でただ膝を抱え、孤独な朝が来るのをじっと待ち続けることしか、今の彼女にはできなかった。

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