第2章
2−1
富士山噴火。
カナタがそのニュースに接したのは、ティーンと呼ばれる年齢になろうとする頃であった。
彼の大好きな父の、母国。
何度も話に聞かされていた、ほぼ平地から一気に4,000m弱にそびえたつ、美しい山。
それは、太古の昔から、船乗りが目標とし、絵に描かれ、日本と言う国のシンボルとされてきた美しき霊峰。
少年のカナタは、その山に対して淡いが良いイメージを持っていた。
しかし、その山、ひとたび牙をむけば途方もない破壊神でもあった。
イギリスで、日本のニュースが流れることは少ない。
日本は、良くも悪くも、イギリス人の日々の生活には入り込んでいない国なのである。
だが、そのニュースは違った。
夜闇の中、流れ出すマグマが浮かび上がらせる山の形。
雲を照らす、不気味なオレンジ色。
流れ出る溶岩が、近隣の町を焼き、日本と言う龍の背骨を挫いた。
さらに、偏西風と通り過ぎたばかりの台風の残した強風に乗り、広範囲に広がる火山灰。
広範囲に停止したインフラ、火山灰による健康障害。
世界でもっとも高密度かつ緻密に作り上げられた大都市圏のひとつである東京は、その日、機能を停止した。
現在に至るも、20万人以上の住民が、未だに故郷に帰れていない。
ダメージが大きすぎ、広範囲にすぎて、復旧に要するコストが高すぎるのである。
復旧の大きな足かせとなったのが、BEV化の進展であった。
多くの車輛がBEV化していたのだが、以前から言われていたことではあるが、BEVは被災地での滑動にまったくもって不向きだったのである。
電力供給が広範囲で停止したとき、BEVは無用の長物と化した。
さらに、復旧ステージに入ってから、BEVは電源に弱みを持つことを除外しても、想像以上に使いづらいことが衆目に明らかになった。
相対的に重い車重、トルクが厚い動き出し、それが荒れ果てた道路と致命的に相性が悪かったのである。
V2G機能は時に有益だったが、それも、BEVのバッテリーが最後の1mAを消費するまでであった。
しかし、内燃機関車は既にほぼ生産を停止した後であった。
日本中に残った内燃機関車をかき集めても、まったく足りない。
噴火が、10年前・・・せめて5年前であったなら、内燃機関車が残っていたことから、被害からの回復は多少マシだったかもしれない。
だが、不幸なことに、日本は世界のBEV化をリードする先進国であった。
政府は、必要に迫られ、内燃機関車の弾力的な運用を可能にする臨時法案を閣議決定した。
正式名称、『富士山噴火及び関連災害に起因する広域被災区域における復興業務、復興支援活動及び同目的のために実施される技術実証に供される車両・重機等の登録及び運用に関する特例措置法』。
ニュースを読み上げるアナウンサーが、3回舌を噛んだという都市伝説を残すその名称は、正確に実態を表したものでは、あった。
その法律は、乱暴に要約すると、「ありとあらゆる手で内燃機関車をかき集め使用することを容認する」こと及び、「復興対象地域だけに限定することは現実的でないため対象地域外の走行も容認するが、その際には複数の車載カメラ及び削除不可能なログ記録を義務付け、有責事故発生の場合には加算された罰金・減点が課される」というものであった。
この特措法は、しかし、よくあることではあるが、復興作業の長期化に伴い延長が重ねられ、どこが臨時で何が特例なのか、という事態に陥る。
いつしか、その特措法は、MFG法と呼ばれるようになっていた。その意味は確定していない。あまりに長いので誰かが呼び出した通称が一般名称化した、とも言われるが、何を短縮したのかというと、Mt. Fuji GovernanceともMt. Fuji Gempuku(現状復旧)とも、諸説乱れ飛んでいる。カナタが参加したMFGが、その通称を意識して名付けられたことは間違いが無かった。
今朝の着陸便の窓からも、10年を経てまだ生々しい傷跡が伺えた。
最初は、それが何か分からなかった。
日本を彩る濃い緑を汚す傷跡。そこには、初夏の日本に特徴的な水田のきらめきも無い。
——それは、痛々しく、目を背けたくなるような傷跡だった。
彼が走ったMFGのコースは、まだ被害が少ないエリアだったのだと痛感させられる。
同時に——復興を名目としてはいても、この被災地を舞台にしたイベントに、自分が加わっていたことに、改めて若干のネガティブな感情を抱く。
それは、拭いきれない滓のような感情として残った。
カナタは、彼の尊敬する「センセイ」、藤原拓海が運転する小さな車の助手席から遠景の富士山を眺めつつ、そんなことを思いだしていた。
その車は、今はまだ、MFGプレートを付けていた。欧州サイズの横長のプレートに、藤色の枠取りがされたそのプレートは、一目でMFG法に基づく車輛であることをわからせる。そして、その車のプレートは、試作車を表すX+4桁番号であった。
明日、記者発表が行われる新車。
数年ぶりに発売される、新しい内燃機関車。
カナタをもう一度日本に呼び寄せることになったその車は、MFGにおける彼の愛車だった86の衣鉢を継ぐものだという。
彼の師の運転は、非常に穏やかで丁寧だったが、その素性の良さは助手席に座っていてもわかった。
早く、運転してみたい・・・
「カナタ、中研まであと1時間くらいだが、もう少しで復興エリアに入る。運転してみるかい?」
カナタの気持ちを読み取ったかのように、センセイが言った。
2−2
カナタは一瞬、驚いたように瞬きをしたあと、すぐに頷いた。
「——有難うございます」
その声から、抑えきれない期待と興奮が滲みだす。
「じゃあ、この先のチェックポイントで交代しよう。
あっちは復興指定区域だから、ログも本格的に記録が始まる。ちょうどいいだろう」
車はゆっくりと減速し、簡易的に設営されたゲートへと近づいていく。
道路脇には、仮設の施設。白いプレハブと、通信アンテナ。重機が並び、作業員たちがヘルメット越しにこちらを一瞥する。
かつて観光客が絶えない幹線道だったその道は、今では「復興のため、かろうじて通行できる程度に整備されている廃道」になっていた。
ゲートを通過するとき、車載システムが低く音を立てた。
《MFG記録モード、起動》
ディスプレイの片隅に、小さくログ記録アイコンが表示される。
一度起動すれば、電源を落とさない限り消せない——そして、その記録もまた、決して消去できない。
「……やっぱり、少し緊張しますね」
カナタが呟く。
「いいことだよ」
拓海は短く答えた。
「緊張してるうちは、まだ余裕がある。怖くなくなったら終わりだ」
「それはそうとして・・・MFG法って、通称じゃなかったでしったけ?」
「Yes, certainly. だけど、・・・」
拓海の頬に苦笑がよぎる。
「それ以外、書きようがないんだろうね。正式名称がどのくらい長いか、知っているだろう?カナタですら、暗唱できないかもしれないけど」
「はい、あれはちょっと・・・」
正式名称、『富士山噴火及び関連災害に起因する広域被災区域における復興業務、復興支援活動及び同目的のために実施される技術実証に供される車両・重機等の登録及び運用に関する特例措置法』。いかに記憶力に秀でていても、日本語が母国語でない、漢字が苦手なカナタには到底記憶困難であろう。
そんなことを話しながら、ゲートを抜けてすぐの広い待避スペースで車を停める。
エンジンは切り、二人はシートを入れ替わった。
運転席におさまりドアを閉めた瞬間、視線が少し低くなる。骨盤を支えるシート。
小さいハンドル。
ペダル。
わずかに漂う、機械油と新車特有の匂い。
カナタの指紋で再認証、キーをひねる。
"Welcome, KANATA"
と、新しい86・・・86-S6が語り掛ける。
セレクターはとりあえずSMART。
ゆっくりとステアリングに手を置いた。
「……軽い」
思わず漏れた一言に、拓海が横から言う。
「これは市販車と同じスペックだからな。パワステは入ってる。
でも、試作機の方はパワステどころかABSもオミットされてる。カナタにはちょっと慣れないかもな」
カナタは頷き、エンジン回転計に目をやる。
コンソールに浮かぶのは一見アナログの速度計、タコメーター、水温計。
それが全面液晶が描き出すCGであることを知っているが、アナログメーターが視認性には一番良いとカナタは思う。単なる回顧主義ではなく。
わずかな振動とノイズ。それは、確かに直列6気筒エンジンのそれであった。
カナタは嬉しくなる。
アクセルにあてがった足裏に、ほんのわずかに圧力をあてる。
回転が、鋭く、しかし自然に上がる。
カナタの口角がわずかに上がった。
「……いいですね、これ」。
付き合いの長い拓海にはカナタの喜びようが伝わっている。無言で発進を促す。
「行きます」
カナタはそう言って、アクセルを踏み込む。
最初は、敢えてゆるやかなペースで加速し、低回転でシフトアップする。
低速であっても、トルクは意外と太い。ESPE(R)と名付けられた電動スーパーチャージャーが、良い仕事をしていた。藤原先生が磨き上げたのだから当然だ。
カナタの中で何かが“繋がった”。
自動車に対する理解か。自動車を熟成した個性への理解か。
軽い。
だが、軽すぎない。
アクセルに対する応答が、決して過敏ではないのに、遅れもない。
路面の感触が、ステアリングから素直に伝わってくる。
荒れているはずの路面。タイヤのフィーリングは、MFGのそれと限りなく近い。
その情報はノイズではなく、「意味」としてステアリングホイールを握る手に響いてくる。
「……これは」
カナタは小さく笑った。
「いいですね。86よりも、素直です」
その言葉に、拓海が初めて少しだけ視線を向ける。
「と言うと?」
「ごまかしが効かない。でも、その代わり、ちゃんと応えてくれる」
一瞬、間があったあと、拓海は小さく頷いた。
「それでいい」
前方の道路は、まだ大きくうねりながら続いている。
補修は十分進んでおらず、最低限の整備と言うべき、酷い状態だ。
路傍、ところどころに残る火山灰。
細かな砂礫が継ぎはぎだらけのアスファルトの上に広がっている。
目に見えない微妙な路面の歪み。
荒れ果てた、タイヤに負担をかける「現実」。噴火から10年をへて、未だにこの状態なのは、日本と言う国の国力と人口の減衰が一因だろう。
だが——
カナタはスロットルを少し開けた。
エンジンの音が、わずかに高くなる。
いい音だ。まるで欧州高級車のように、その小さなエンジンは官能的なサウンドを奏でる。
車体は、まるでそれを喜ぶかのように、前へと伸びた。
いい重心だ。荒れた路面に貼りつくように、その小さな車は進む。
「……いいですね」
今度は、はっきりとした笑みだった。
「これなら——売れますよ。俺も買いたい」
「多分買えない。申し込みが殺到すると思うよ?」拓海は笑って答える。
「その代わり、カナタに頼みたいことがある。これをベースにした3台の車のテストパイロットを」
2−3
カナタの足が、ほんの一瞬だけアクセルの上で止まった。
「……テスト、パイロット?」
言葉の意味自体は理解している。
だが、それが自分に向けられたものであることに、一拍遅れて実感が追いつく。
車はその間も、安定した姿勢で荒れた路面をいなしていく。
小さく修正舵を当てながら、カナタは視線を前に据えたまま言った。
「どういうことですか?」
拓海は、シートに深く腰掛け直しながら答える。
「この86-S6をベースに、用途別に極端に振った車を3台作る」
「極端に……」
「ひとつは“復興現場仕様”。とことんタフにする。悪路、粉塵、連続稼働。整備性最優先。サイズもエンジンもまったく異なるが、この車で取ったデータを投入する」
淡々とした説明だったが、その内容は重い。
「あと2台は——」
ほんのわずかに間があく。
「レース仕様だ。」
カナタの視線が、ほんのわずかだけ鋭くなる。
「スパチャに加えて、常温超電動のインホイールモーターを使った、HEVだ」
じょうおん、ちょうでんどう?
聞いた言葉が、聞いた通りの意味なのか、頭がついてこない。
「1台は、直6、排気量は1800ccに上げている。こいつの正常進化形、絶対的な出力はそれでもそこそこだが、軽いコーナリングマシンになる。
もう1台はV12にする。排気量は2600cc、こいつの倍だな。こちらは、スーパーカー的な出力になる。
ショートストローク・超高回転型はこいつと同じだが、電動の前輪前提で、極端な高回転ピーキーエンジンだ。
どちらも、安全装備の類は、レギュレーションギリギリまで削ぎ落とす。電子制御も最低限。
たぶん……お前が今まで乗ってきたどのクルマよりも“直接的”になる」
路面のうねりが一段深くなった。
カナタは自然にステアリングを切り、トルクの乗り方を見ながらアクセルを微調整する。
「……さっき言ってた試作機ですか。パワステなし、ABSなしの」
「ああ」
即答だった。
「正確には、その“発展型”だな」
「……」
カナタは何も言わない。
ただ、右足にわずかに力を込めた。
回転が上がり、6気筒の音が、より密度を増す。
「なんで、俺なんですか?」
率直な問いだった。
拓海は、少しだけ笑った。
「他に誰がいる?」
「……」
「理屈じゃない。お前はもう分かってるはずだ」
そう言われて、カナタは息をひとつ吐いた。
確かに——分かっている。
この車は「乗れる」ではなく、「扱える」人間を選ぶ。
そして、その先にあるものは、“車の性能”ではなく、“人間の精度”そのものだ。
「……難しいですよ、それ」
「だろうな」
「しかも3台……性格、全部ばらばらじゃないですか」
「だからいい」
拓海の声は、相変わらず静かだったが、芯があった。
「全部分かるやつじゃないと、全部中途半端になる。もうわかっているだろう、この車のタイヤは」
「・・・はい。MFGのですね」
「もともと、MFG自体が、被災地復興支援のための実験室だったんだよ」
非常に特殊な、MFGレギュレーション。MFG仕様タイヤを理解し、使いこなすことで進化したカナタのドライビング。それは、荒れ果てた被災地の道路を効率よく走るためのセッティングだった・・・!?
「MFGタイヤを一番知悉し、使いこなせるドライバー、それは君しかいない」
車が、わずかな下りに入る。
カナタはブレーキに軽く足を乗せた。
踏力に対して、リニアに減速が立ち上がる。
ABSの制御が自然に介入し、荒れた路面でも安定を崩さない。
「……正直、怖いですね」
珍しく、本音がそのまま口に出た。カナタは、ABSが無い車には乗ったことがない。
ABS無しで限界走行、自殺行為ではなかろうか?いや、それを普通にやってきたドライバーが彼の師なわけだが。
「そうか」
「はい。でも——」
カナタは笑った。
「やりたいです。先生がやってきたことは、全部やってみたいです」
間を置かずに出た答えだった。
拓海は頷く。
それ以上の言葉はない。
しばらく、無言の時間が続く。
ただエンジン音と、タイヤが路面を捉える音だけが車内に満ちる。
やがてカナタが口を開いた。
「ドライバーは俺だけですか?違いますよね?」
「ああ。3人考えている」
「他の2人は?」
拓海は少しだけ視線を空に向けたあと、前に戻す。
「ひとりは感性の人だ——」
拓海はそこで、より適切な単語を探すように間を置いた。
「……いや、違うな。うまく言えない。あの人を言葉で表すことは、俺には無理だ」
カナタは黙って聞いている。
「理屈も分かってるはずなんだが、それより先に動く。ムラは無くも無いが、波に乗った時は……手がつけられない程速い。俺にはちょっと真似できないタイプだな」
「もうひとりは?」
ほんのわずかな間。
「——俺だ」
カナタの口元が、わずかに歪む。
「……ああ」
それで察した。
速さだけを求める者。
あるいは、速さに取り憑かれている者。
「面白そうですね」
カナタは、今度ははっきりと言った。
前方の路面はまだ荒れている。
だが、その向こうに、わずかに整備された区間が見え始めていた。
カナタはスロットルを少し開ける。
エンジンが応える。
車が、前へ出る。
「でも、その前に——」
視線は遠くに据えたまま。
「このクルマ、ちゃんと理解してからにします」
今はまだ、このコンパクトな車を楽しみたかった。
拓海は静かに笑った。
「好きにするといい。それも含めて、君の仕事だ」
86-S6は、Xプレートをつけたまま、復興エリアの奥へと滑り込んでいく。
新しい時代の、そして新しい戦場へ向かって。
中研で連れが入門受付をしている間、彼女は門の外に目を向けた。
近づいてくる内燃機関車に、興味をひかれたためである。
「あの音は、エスパーかもしれない」
「エスパー?なんですそれ、中尉?」連れの男が問う。
「Electrified Supercharged Power Assistance・・・登録商標のRがついて、ペットネームがエスパー。特許公報で見たの」
そのクルマは、30mほど離れた駐車スペースに停車した。降りてきた若者に見覚えがある。確か、MFGのパイロットではなかったか。MFG自体はアメリカでは人気がない上に、自動車レース自体に興味があまりない彼女ですら、見たことがある顔であった。




