第4章-2 86-S6 1号車引き渡し
これからまだ書きますがとりあえず仮投稿。
ジンバブエドル紙幣は、実際には100兆まであったそうです。無量大数ジンバブエドル紙幣はジョークグッズなのか、異世界だからなのか、どっちでしょうね。
ゴールデンウイーク初日。
彼は、BEVタクシーでMTエンヂニアリング富士裾野試験コースに到着した。
都会とは異なるさわやかな空気と風であるが、彼は、それを楽しむ余裕を完全に失っていた。
ガチガチに緊張した彼に、妻は呆れ顔である。
「なによ、アナタ・・・なんであなたがそんなに緊張しているのよ、たかが車一台引き渡しを受けるだけで」
「君なあ・・・招待してくれた人の名前、言っただろ?」
「ええ、なんか、元自動車会社の偉い人で、レーサーもやっている人でしょ?知っているわよ、そのくらい」
これだ。「そのくらい」ときやがった。紳士の偉さを、全くわかっていない。妻から見た紳士は、どこかで見たことがあるような気がする、ちょっとした有名人、くらいなのだった。彼の緊張と、彼女ののほほんぶりの落差は、通り過ぎる人が違和感を覚えて振り返る程度には大きかった。
受付で記帳する。代金はあらかじめ、振り込み済みである。支払いのために、含み益が大きくなっていた株を1種類、解約した。
彼は、あえてリースを選択しなかった。
「第1ロットから1台、定価で売っていただければと。1号車などと、大それたことは言いません」、それが、彼が紳士に申し出た全て。
彼自身の言葉に、少しでも嘘をつきたくなかったのだ・・・おそらく、彼以外には意味のない拘りだっただろうが。
彼は大勢の報道陣、評論家、その他よくわからない多数の人々の後ろから、第1号車の引き渡しセレモニーを見学していた。大きなカギの模型を渡されたのは、片桐カナタ、一昨年MFGにセンセーションを巻き起こした彼である。
「若いな・・・うちの子といくつも変わらないんだよな」
「そうね、あまり見たことなかったけど・・・実物は、動画よりずっとハンサムね。折り目正しくて、雰囲気がある子ね」
カナタがMFGで駆ったのは、今日引き渡される86-S6の先祖筋にあたる比較的非力なZN6型、最初はNAで200馬力。重量は約1.2t。対して、86-S6は1,300ccの直列6気筒エンジン、NA、GDI、電動スーパーチャージャーESPE®に加えマイルドHEVを装備。ZN6よりさらに非力であるが、軽量な分、総合的な速さではいい勝負になるのではないか。もちろん、彼はレースをしたいわけでは無く、この軽いクルマで、幌を開けて、ストレートシックスの滑らかさを味わいながら軽く走りたいだけなのだが、それでも「自分の車と」速さを比較してしまうのは面白い。彼自身、自分の中にそういう面があるとは、これまで知らなかったのだが。60歳近くなっても、自分に知らない一面が残っていたと知り、自分自身を面白がる自分がいた。
式典は賑やかに続く。片桐カナタは無口な青年、という先入観を持っていたが、どうしてどうして、インタビュー慣れしていた。何度も国際的なレース競技で上位入賞しているのだから、当然なのだろうが、どう見てもハタチそこそこの青年とは思えない落ち着きぶりであった。カナタへのインタビューが終わり、彼は赤く塗装された、彼に贈呈された1号車に乗り込む。運転席に織り込まれていない足が長い。彼は日英のハーフだったな、と思い出した。
カメラの放列が、まぶしくカナタの姿を撮影する。カメラマンの要請に応え、ポーズをとるカナタ。昨今いろいろと話題を振りまいた自動車であり、久しぶりに発売された内燃機関車であり、86の名を継ぐ存在であり、ドライバーズシートに座るのは超がつく有名人。賑やかなものだった。
その時、背後から彼の名を小さい声で呼ぶ声があった。振り返った先には、彼よりやや若いか、という世代の男性。男性の案内で、彼は別室に案内された。もしかしたら、と思う気持ちと、いやいや、まさか・・・と思う気持ちを抱えながら。
「ご無沙汰しています」と紳士は言った。その隣には、かの大明神も。
全身が凍り付く。まさか、と思いつつ、心の準備をしていた自分を褒めてやりたい。そうでなければ、醜態をさらしたこと間違いなしである。
ご無沙汰しております、と答える、自分の顔は、それでもガチガチに緊張しているに違いない。そつなく初対面の挨拶をする妻の鈍感さがうらやましい。
「入金は確認しております。お買い上げ、ありがとうございました。1号車ではありませんが、片桐君の車は贈呈したものですので、お買い上げいただいたのはあなたが初めてです」
「光栄です。・・・そして感無量です。まさか、本当にこんな趣味的な車が実現するなんて。ちょっと信じられないくらいです」
かれは、紳士と大明神を等分に見やった。
「しかも、2台とも」
大明神が、いたずらっぽく微笑する。
「私たちも、内心、こういう車を出したかったのですよ。燻っていた、自分ですら十分に自覚していなかったパッションに火をつけていただいたこと、厚くお礼申し上げます」
紳士が頷いた。
「その通り。あなたは私たちにとって恩人、と申し上げても大げさではない」
かれは苦笑した。
「いやいやいや、大げさですよ。私は普通のサラリーマンで、スポーツ走行すらしたことが無い、単なる一般人です。私よりもっと、はるかに熱量が高いファンが世の中にはたくさんいます・・・ロータリー愛好家の皆さんなんて、ある意味フーリガンみたいな感じですよね」
「フーリガン・・・否定できないですね」
和気あいあいと会話が転がる。
大明神の目元が少し下がり、複雑な感情をにじませた。
「そうですね・・・その気持ちを掬い上げられないことに、私たちはずっと忸怩たる思いを抱いていました。しかし、それももう少しです。RX-zzも、もう少しで上市できます」
「楽しみです・・・そういえば、なんだか、zzの妹分みたいな車をロールスロイスにOEMすることが決まったと読みましたが、本当ですか?SNSで前後の話を追ったのですが、正直混乱するばかりで。TKMCの若手女性社員が、15分ででっち上げた設定が、嘘から出た真になった、とか書いてありましたが、あれはどこまで演出でどこからが事実なんですか?」
大魔神は強張った笑顔を浮かべた。
「世の中、知らない方が幸せなことがあります。ご希望なら申し上げてもいいが・・・聞きたいですか?」
「それって、聞いてくださいっておっしゃっているのと同じですよね?」
妻が口を挿む。うぉぉ、なんたる強心臓!
「そこまでおっしゃったのなら、教えてください。聞かないと、気になって帰れません」
「それでは・・・オフレコでお願いします」
大明神は、言葉を切った。この人、絶対演出効果を狙っている。
「全部、事実です」
謹厳実直な口調と裏腹に、目には笑いと、いたずらを仕掛ける悪童のような雰囲気が伺える。
「そういえば、ご本人が今日、応援でこの会場にいらしていますよ。新世代のロータリーを産んだ二人の立役者、感動のご対面と行きますか・・・捕まれば、ですが・・・」
切れ切れに聞こえる声。話をしているのは、高橋というよくある名前の男性のようだ。
やらかしさんがどうの、と聞こえた。気の毒な仇名がついているようだ。
捕まった、ようである。
5分後。彼は、背が高い男性と、背が低い女性の組み合わせと向かい合っていた。名刺交換をする。
男性の名刺には、株式会社TKマッハコーポレーション 社長 高橋啓介、という文字。シンプル極まりない。彼は、思わず高橋社長の顔を二度見した。これが・・・あの、イニシャルDの、FDの、高橋啓介?そうか、20代前半のイメージしかなかったが、彼ももう50前後にはなっている計算だ・・・。
女性の名刺は・・・女性の名刺は、会社名は一緒。高橋啓介の部下、ということになる。それ以外は、シンプルからは程遠いものだった。部署名、総務部総務課庶務係兼総務部秘書室社長秘書補佐兼総務部人事課労制係兼総務部広報課社外広報係 八重樫 千里、とある。彼は社会人となって30年以上たつが、名刺の半分を部署名・役職名が占めている名刺は初めて見た・・・ある意味、貴重かもしれない。昔、アフリカ出張から帰ってきた先輩にお土産でもらった無量大数ジンバブエドル紙幣をなぜか連想した。
「高橋さん、八重樫さん、ご紹介します。こちらの方が、私たち二人に、86-S6とRX-zzのアイデアを示してくれました。いわば、MTエンヂニアリングが生まれるきっかけを作ってくれた方なんですよ」
彼は、軽く自己紹介をした。彼は自分が欲しいクルマを直訴しただけで、まさしくきっかけにすぎなかったことを説明して。
「私は、ロータリーを環境規制にミートさせるためにRX-zzを考えたつもりでしたが、実際にはもっと簡単だったんですね。R the R、なぜ気づかなかったのか、自分でも不思議なくらいです。ロータリーを環境規制にミートさせるのは非常に厳しい、という思い込みがあったのでしょうね」
大明神が頷く。
「まったくです。やってみると、意外にできるものでした・・・八重樫さんの案を伺った時には、一瞬、レイアウトだけなら出来ても、排ガス規制は無理だろう、と思い・・・しかし、考えれば考えるほど、できない理由が無い気がしてきたものです」
大魔神が、温かさと、苦笑をにじませた視線をTKMC若手女性社員に向ける。
「私だけではない。殆どすべての人がそう思っていた。その壁を楽々と超えたのが、まるっきりの、素人と言ったら失礼だが業界の外の方、だったのは、何かを示唆していると思います。コロンブスの卵、とはこういうことを指すのでしょうね。八重樫さん、私はあなたにお礼を言わないといけないと思いつつ、タイミングが無かった。改めて、素晴らしいアイデアを頂戴したこと、厚くお礼申し上げます」
彼女は、あわあわと百面相をした。
「いえ、素人の思い付きがたまたま当たっただけで・・・皆様には、大変なご苦労を掛けてしまったと伺っており、穴があったら入りたいです・・・」
「人間の固定観念は、恐ろしい。私にとっても自戒するところです」紳士が話を継いだ。
「実は、試作車は、会社のお金を使う気になれなくて、実は私のポケットマネーを充てました。ダメだったら、Xナンバーのまま、博物館にでも飾っておこうと・・・OKだったわけですが。
ロールスロイスさんのお申し出も、真剣に検討中です。BMWさんのも。
生産能力が問題ですが」
「難しいですよね・・・一年目だけなら、2万台くらい平気で需要がありそうですが、それがずっと続くとも思えません。趣味的な車ですからね。かといって、需要に生産が全く追い付かないと・・・」
紳士と大魔神が同時に頷く。
「お客さんが失望する、と。バランスが難しいところです」
高橋社長が頭をかいた。
「当社も、MTエンヂさんに比べるとかわいいものですが、悩んでいまして・・・曲面3Dプリンタは、そこまで生産性が高くない。基本的には少数生産用ですからね。改造に改造を重ねてきたものですから、同じ設備をもう一台、とは簡単には行きません」
「OEM向けには、ガワは全部お任せ!のほうがいいかもしれませんね。ロールスロイスとか、要求うるさそうだし」
彼の、思わず漏れたつぶやきに、3人が一斉に頷く。
「生産については、しばらく悩みが続きそうです。・・・需要が少なすぎるより、絶対いいんですが」
応接室を辞した後、彼と妻は、その女性社員、八重樫と喫茶室にいた。高橋社長は、MTエンヂニアリングの各部門と打ち合わせがあり、彼女の予定が空いていたこともあるが、いろいろと話を聞きたかった。彼も、紳士や大明神から妙に丁寧な言葉をもらうと、落ち着かないことこの上ない。若い彼女にとっては、なおさらに違いなかった。
「そう、なんです・・・わかってくれるのは、あなただけです」
思いがけず食いつきがよかった。しかし、それも話を聞くと、納得だ。
エイプリルフールの雑なジョークのつもりが、こんなことになるとは、誰も想像しないであろう。
彼女ははっきりとは言わなかったが、当初は秘密の漏洩があるのではとの疑いも発生し、いたたまれない思いをしたようであった。その疑惑が解消した、というか、疑惑を裏付ける証拠が全くなく、そもそも彼女にはMTエンヂ社員との接点すら殆どなく、仮に彼女が情報を得る術があったとしたとしてもああいう形で公開することに全く何のメリットもない、という数々の状況から、どう見ても白だよね、との認定に、ほぼ、なっているようである。ほぼ、というのは、これが典型的な悪魔の証明であり、偶然にしては当たりすぎたことから、依然として割り切れない顔をしている者が多いのだった。
「ひどいんですよ。社内でも、微妙な視線で見られて。やらかしさんって酷いですよね!?ご先祖様代々、当家は八重樫です、やらかしじゃありません!」かれは吹き出しそうになるのを必死で耐えた。「SNS上だと、ロータリーの神だ、姫巫女だ、自動書記だとむっちゃネタにされていますし」
うんうん、わかる~と妻が話を聞いていた。偶然なんて、いくらでもあるわよね、わかる~。それにしてもR the Rってかっこいい名前よね、あなたセンスあるわ、きっと凄く考えたんでしょ・・・えー、適当につけたんですよーホントなんです~。うんうん、わかる~。
こいつ、絶対わかってないだろうな~と思いつつ、彼は二人の会話を聞き流していた。微妙に死体蹴りをしているような気もするのだが、女性二人は気にしていないようだ。これが、彼女がよく言う、聞いてくれるだけでいいの!なのだろうが、全然「聞いてくれるだけ」には思えない。むしろ全然聞いていないように思えるのだが・・・理解しがたいもの、汝の名は女。昔、どこかの小説で読んだ、『地球人の女性より異星人の男性の方が理解できる気がする』という台詞に同感したくなる。
しかし、スマホには手を伸ばさず、時に頷くふりを続ける。30年以上かけ、高い授業料を支払って身に着けた芸である。聞いていなくても問題ないのだが、「聞いていないと認定される」と、後々、大変につらいことになるのだった。
しかし、いつになったら、彼のハチロクに乗れるんだろう・・・一瞬だけ、外をみやる。
窓の外には、4月末の日差しを浴びて、白いコンパクトな車が彼を待っている筈なのだが。
MTエンヂニアリングとしては、情報漏洩を疑わないではいられなかったのですが、高橋啓介と当該女性社員、およびMTエンヂニアリング内部で、何度調査をしても、答えはシロ。正確には、クロを示す証拠なし。そもそも、仮に情報を窃取したとして、あんな中途半端な形で外部に漏らすメリットも全くない。
「・・・それが本当だとしたら・・・いえ、さんざん調査されたのでしょうから本当なんでしょうが・・・
意外と、ロータリー車って、実現簡単なんじゃ・・・環境規制にミートできない孤高の技術って、どこへ・・・」




