38話 情感
日直の号令に合わせて一斉に礼が終わると、教室の中は放課後特有の雑然とした気配が広がっていく。リクは帰り支度を手短に済ませたあと、様子を窺うようにして教室全体を眺めていた。
「明日からゴールデンウィークで合宿なんだし、今日くらいは部活休みてぇよなあ」
「それな。マジでだりー」
リクの前方の席に並んで座っていたサッカー部所属の生徒二人が、互いに愚痴を吐き連ねながらも、気怠そうに部活動へと向かっていく。
「なぁ、帰りマック寄らね?」
「いいねー、期間限定のシェイク、確か今日からだよな」
廊下側の席に集まっていた数人の男子生徒は、寄り道の予定について、楽しげに相談を交わしている。
平和で、無害で、どうでもいい話題――
普段なら聞き流すだけのその会話の数々が、今日に限っては妙に遠く感じられた。まるで教室のこちら側とあちら側で、同じ空間にいながら違う温度の世界で生活しているような、そんな気さえする。
(あっ……)
そしてリクが懸念を少し募らせていた、問題を起こした女子生徒たちの姿が目に入る。そのうちの数人は、手早く荷物をまとめ、誰とも視線を合わせないよう教室を去っていく。みな一様に顔色は冴えておらず、奥戸から受けた説教がよほど堪えたのだろうと窺い知ることができた。
「ねぇ、早く帰ろ?」
「う、うん」
一方で、先週の掃除当番でリクと一緒に残っていた女子二人は、互いに短く囁き合ったあと、居心地の悪さを背中に貼りつけたまま廊下に出ていく。その足取りには、反省というよりかは逃避の様相が色濃く表れていた。
謝ったから終わり。叱られたから終わり。そういった形だけの幕引きを急ぐように、彼女たちは振り返ることもなく廊下の人波に紛れていった。
(……ああなるのも、仕方ないか)
割り切れはするが、リクの胸の内側に澱のようなものが沈んでいく。やがて教室からは一人、また一人と生徒が帰宅していった。騒々しさは少しずつ薄まり、残された机と椅子だけが、昼間の熱を失った抜け殻のように整然と並んでいる。
そんな中、ナナは自分の席に座ったまま静かに帰り支度を進めていた。急ぐでもなく、焦るでもなく、ただ丁寧にといった様子。机の中から教科書を取り出し、プリントの端を揃え、鞄の中へしまっていく。とても落ち着き払った仕草だが、その落ち着きがかえって痛々しくも映って見えた。
リクは鞄を肩に掛け、ゆっくりと立ち上がる。
(ちゃんと、話さなきゃ)
奥戸に密告をした者として、どこか使命感にも似た想いを抱え、リクは一歩、また一歩とナナの席に歩み寄る。相変わらずといったように喉の奥で声が引っ掛かるが、ここで黙って通り過ぎるわけにもいかなかった。
「君鳥さん」
勇気を振り絞って声を掛けると、ナナの手がぴたりと止まる。
「……今日って、部活あるの?」
恐る恐るとした声色で、リクは尋ねた。座ったままの彼女の目元は、前髪で隠れて見えない。青灰色の瞳は、どんな感情のグラデーションを孕んでいるのかが気になってしまう。
「ある、けど……」
数秒の沈黙のあと、ナナは再び支度の手を動かし始めた。そしてなにやら言い淀んだ上で、薄い唇を開く。
「……今日は休むよ」
「じゃっ、じゃあさ、一緒に……帰らない?」
若干食い気味に、リクは思い切ってナナを誘う。彼女は少しだけぎゅっと口を噤ませたあと、こくりと頷いてくれた。
「うん、いいよ――」
◇◆◇◆
校門を抜けた先でリクの目に飛び込んだのは、橙色に暮れつつある空が、街を鮮やかに染め上げた光景だった。
美しい、とは思う。けれどその美しさは、胸の内側を覆う靄を晴らすほどではなかった。むしろ、今日という一日がどれだけ汚れていようと、空だけは何食わぬ顔で綺麗に暮れていくのだと見せつけられているようで、どこか白々しく、残酷ですらある。
リクとナナは、並んで歩いていた。
とはいえ、肩が触れ合うほど近いわけではない。二人の間には、お互いが傘を開き合っているかのような、曖昧で微妙な距離間が生じている。リクはあまり意識しすぎないようにしつつも、時折ちらちらとナナの横顔を盗み見るようにして窺っていた。
彼女は、一言も発さずにずっと俯いたままだ。
前髪が目元に影を落とし、表情の大部分を隠している。歩幅は普段よりも心なしか狭く、靴底がアスファルトを擦る音も、どこか弱々しい。とぼとぼ、という擬音がそのまま聴こえてきそうな足取りだった。
(誘って一緒に帰れたはいいけど……気まずいな、とても)
校門を出てから、もう20分は優に経っている。
その間、二人の間にまともな会話はなかった。信号が赤になれば立ち止まり、青に変わればまた歩き出す。その行動の無機質さたるや、まるでゲームの世界の住人として存在しているかのよう。
一方で道すがらには、自転車のベルがどこか遠くで聴こえ、帰宅途中の小学生たちが無邪気に笑いながら追い抜いていく。誰かの家を通り過ぎるたび、カレーや揚げ物といった、今晩の献立の匂いがふわりと鼻孔をくすぐる。
そのすべてが、やけに日常だった。
日常すぎて、リクは少し息苦しくなる。こんなにも世界は事もなしに回っているのに、自分と彼女だけが、どこか別の時間に取り残されているように感じてしまう。
なにか、なんでもいい、声を掛けなければ――
そう思ってから、すでに幾度も言葉を生唾とともに飲み込んでいる。気にしない方がいい、と伝えるのは無責任すぎるし、もう大丈夫だよ、と断じるのも、彼女の感情を勝手に整理してしまうようで怖かった。
そうこう考えているうちに、やがて二人は線路の高架下へ差し掛かる。
夕陽はそこで一度、鉄骨とコンクリートに遮られた。明るかった歩道が途端に陰り、空気の色さえも鈍く沈んだような気がする。頭上では、電車が通過する気配だけが重たくのしかかり、街の喧騒を遠くへと追いやった。
(よし、今だ――)
その薄暗がりの中で、リクはようやく喉の奥に引っ掛かっていたものを押し出そうと声を上げる。
「あの、さ――」
「ねえ――」
しかし、全く同じタイミングにて、ナナの声も重なってしまった。二人はぴたりと足を止めると、これまた同時に顔を見合わせ、互いに視線だけを逸らす。高架下の翳りの中で、彼女の瞳が淡く揺れた。
「……ごめん」
「……ごめん」
また、重なった。ぎこちのない気まずさだけが、二人の間に漂う。しかし、ここで躊躇してしまっては駄目だ、とリクはすぐさま思考を正し、意を決して先に口を開く。
「そっ、そういえば、明日からゴールデンウィークだよね」
声が若干と上擦ってしまったが、リクは当たり障りのない話題で、凝り固まった場の雰囲気をほぐそうと試みる。
「君鳥さんは、どこかに出掛ける予定とかあったりするの?」
「……特に無い、かな。村崎くんはあるの?」
「僕は六連休のうち、補習が四日間もあるよ。ほら、最初のほう学校来れてなかったし」
「大変……だね。けど私も部活あるから、学校にはほぼ毎日行くよ」
「あ、そっか。じゃあ、お互いに結構忙しそうだね」
「うん、そうだね。合唱部は今月末にコンクールあるから……練習しないと」
「へぇ、コンクール……すごいね」
「別にすごくないよ。私も含めて一年生はみんな出場できちゃうし……」
「それでもすごいよ。大勢の人前で唄ったり、踊ったりとか、なにかを披露する機会なんて僕は経験したこと無いもん」
「めちゃくちゃ持ち上げてくれるね、村崎くん」
「君鳥さんくらいまともな人が自分に自信持ってくれないと、僕みたいな持たざる者は存在意義を見失っちゃうから、さ」
「卑屈すぎるって……それに私も似たようなものだよ。いつもネガティブに物事を考えちゃうし」
「でも君鳥さん、自分の見た目は好きでしょ?」
「……村崎くん、私怒るよ?」
「ごめん、さすがに調子に乗りすぎちゃった」
「別に怒らないけど……そのネタでいじるの効いちゃうからもうヤメてね」
「うん、もうしないよ」
「あぁもうなんで言っちゃったんだろ……死にたい」
「死ぬのだけはやめてね」
「死なないけどぉ……」
最初は出方を窺い合うような距離感だったが、思いのほか会話が続く。つい先日、互いに本音を打ち明けたのが功を奏したのだろうか、一度話し始めると、止まらない。
そして次第に、二人の中でなにかが綻んでいく。
「なんか私だけ損した気分だよ……ずるいなぁ。村崎くんもさ、私みたいに隠してることあったら教えてよ――って、あれ? 村崎くん、泣いてるの?」
「え? あれ……なんで、だろ。というか、君鳥さんも、涙出ちゃってるよ?」
「えっ、ほん、とだ……」
「変、だね……」
「おかしい、よね……」
「うん。でも、全然悲しくない」
リクとナナは顔を見合わせ、ぽろぽろと、温かい涙を流し続けている。鬱屈としていた精神が開放感に満たされ、揺れ動いた情感が涙腺に作用したのだろうか。わからないが、数日ぶりにカーテンを開いたかのような、とても晴れやかで清々しい気分なのは確かだ。
誰にも止められてなどないのに。
誰にも咎められてなどないのに。
彼らはいつだって恐れていた。
彼らはいつだって怯えていた。
日常を、過ごせるのが。
普通を、過ごせるのが。
許された気がしたから、かもしれない――
「じゃあさ。次、電車が通ったら……」
「……うん、わかった」
「きたよ。せぇーの――」
二人は高架下で思いきり、泣き、喚き、叫んだ。
許された喜びを、喉が裂けるくらい声に出して。
誰にも聴こえないよう、世界中に撒き散らした。




