39話 昼下がり
同日――自宅にて。
リビングに面したバルコニーにて、少し季節外れのダウンジャケットを羽織ったエイトがひとり、ぽつんと立ち尽くしていた。一畳分程度の広さしかないバルコニーには、一切の家具や小物もなく、洗濯物すらも干されていない。無用と化しているそんなスペースに佇んだ彼は、どこか虚ろな眼差しで空を眺めている。
空は、腹立たしいほどに晴れ渡っていた。
どこまでも抜けた青。やや傾き始めた太陽からの日射に街は磨かれ、空き地を挟んだ向かいの建物の窓や、遠くの電線も、すべてが過剰なほど等しく鮮明に照らされていた。
エイトの両眼は眩しさを欠片も感じさせず、しっかりと開いていた。しかし、これといって何かに視線を置いてはいない。空も、街も、今の彼の瞳にはただ景色として映っているだけで、意味というものを一切持ち合わせていなかった。
どこか疲れきったようなその顔は、微笑んでいるようにも、憂いているようにも見える。
表情を崩さずに視線だけを落としたエイトは、腰の高さほどあるスチール製の手すりをそっと掴む。太陽の光を浴びた金属が、温かい。一方で、彼の動作からは温度が抜け落ちていた。空との境界がここであると、ただ確認するためだけのような、無機質な仕草。
彼はおもむろに手すりの上へ足を掛ける。足場は、スリッパを履いた足のサイズよりも狭い幅で、急な突風でも吹けば転落してしまいそうなほどに頼りない広さだ。
エイトは堂々と手すりに直立したまま、ふと目を閉じ、漂う空気へと委ねるようにして耳を澄ます。
遠くで、車のクラクションが鳴り響いた。階下の号室の窓からはテレビ番組の笑い声が漏れ、駐車スペースの方では、誰かが自転車のスタンドを蹴り上げる音がする。そんな、どこにでもあるような平凡な昼下がりの中で、エイトだけが異物のように静止していた。
しばらくして、彼はゆっくりと瞼を開く。表情には恐怖や、迷いといった類いの感情は孕んでいなかった。怒りも悲しみもなく、ただ中身だけをどこかへ置き忘れてきた身体が〝蒼井詠人〟という形を保ったまま、バルコニーの端に立っているのみ。
瞳の奥は、汚れ、淀み、濁りきった色で満ちている。
不穏で不吉な前兆を含んだような、負の衝動。
抱えて。
携えて。
構えて。
そして、一歩を踏み出す。
一切の躊躇もなく。
一切の抵抗もなく。
一切の遠慮もなく。
一切の感情もなく。
委ねるように。
凭れるように。
預けるように。
寝転ぶように。
足場と空との境界へ、エイトはその身を投げ出した。
青一色のキャンバスをただ、見上げながら――
◇◆◇◆
――全身を強かに打った衝撃と、肺を丸ごと乱暴に押し潰されたような感覚が、エイトの意識を強引に叩く。
「っっ、はっ……っ」
息を吸おうとしても入ってこない。吐こうとしても出ていかない。喉の奥がひゅう、と細く鳴り、肋骨の内側が遅れて軋む。痛覚よりも先に、呼吸ができないという苦しさだけが、自殺意から解放されたばかりの自我に向け『待ってたよ』と言わんばかりに襲いかかってきた。
「痛っ、て……」
遅れてやってきた痛みに、エイトは顔をしかめる。落下の衝撃の名残が背中一面を伝い、全身に鈍く広がっていく。骨がどうとか、筋肉がどうとか、そういった細かな判別はまだつかない。ただ、身体の裏側全体が巨大な鈍器にでもなったかのように重く、痺れに似た感覚の輪郭だけが遅れてじわじわと戻ってきて、立ち上がろうという気概を否応なく封じ込めてくる。
エイトは、地面に仰向けで転がっていた。
アパートの裏手。コンクリートで舗装されていない、ろくに手入れもされていない細長い空き地だった。まばらに生えた雑草と、踏み固められた土。ところどころに小石が散り、以前の雨でぬかるんだ名残なのか、日陰には黒ずんだ湿り気がまだ残っている。少し横には、古びた室外機が低く唸っていた。
「げほっ……ぐ、っ……」
まだ胸の内側が苦しく、満足に咳き込むことすら許してくれない。エイトはしばらく、薄く開いた目で空を見上げることしかできずにいた。
――やっぱり青い。
つい先ほどまで眺めていた空だが、見上げる角度を変えてみても、何食わぬ顔でそこに広がっている。視界の端にはアパートの外壁と、二階にある自宅のベランダの手すりが斜めに映り込んでいた。
「くっそ、久しぶりにハズレ引いちまったか……」
掠れた声で毒づく。少し喋っただけで胸の奥が詰まり、眉間に皺が寄った。だが、声が出るならまだいい。意識もある。手足も動く。最悪ではない。そう判断できる程度には、エイトの思考は冷静さを取り戻し始めていた。
(……とりあえず、さっさと起きねぇと)
よろよろとしながらも、まず半身だけを起こしてみた。全身が、自分の身体じゃないのではと疑ってしまうほどに重く感じる。エイトは歯を食いしばり、そのままゆっくりと上体を起こした。
「くっ……」
少しでも深く息を吸うだけで、激しく咳き込みそうになる。肺はまだ機嫌を損ねているようだ。息苦しさに身悶えそうになりながらも、エイトはなんとか身体を立ち上がらせる。
「〝墜死の自殺意〟だけは、対策のしようがねえからな……ツイてねえなホントに」
吐き棄てるように愚痴をこぼしながら、エイトはまだぐらつく視界で足元を見る。アパート裏の空き地は、普段ならただの無用な土地でしかない。雑草を刈る者もなく、誰かが利用しているわけでもない、建物と隣地の隙間に残された余白。しかし今だけは、その中途半端な柔らかさが、エイトをかろうじて受け止めてくれていた。
「……こんなん着てもほとんど意味ねぇしな」
エイトはそうぼやきながら、羽織っていたダウンジャケットの肩口を雑に手で払った。芝の切れ端がぱらぱらと落ち、乾きかけた土の粒が袖から零れていく。黒い生地には擦れた跡が残り、ところどころに草の汁が薄く滲んでいた。
「あの野郎、もうちょいマトモな物つくりやがれっての」
この場には居ないとある人物を指して、エイトは不満を口にする。いま着ているダウンジャケットは、衝撃を少しでも緩和させるために、低反発素材を用いて作られた特注品だという。だが所詮は気休めじみた装備でしかなく、着ないよりはマシという程度の代物でしかない。
アパートが二階建てであること。裏手が硬い舗装ではないこと。ダウンジャケットも含め、対策と呼ぶにはお粗末すぎる要因を継ぎ接ぎにして、ようやく今の有り様だ。
「……ったく、割に合わねえシゴトだよ」
天を仰ぎ、自嘲を含ませて呟く。空は相変わらず雲一つすらなく、目がくらみそうなほどに眩しい。
全てを見透かしてくるようなその眩しさが、今はひどく鬱陶しく思えてしまった。




