02話 リク
「ただいま」
マンションの三階にある一室。
玄関に足を踏み入れると同時。
条件反射で発してしまう帰宅を告げる言葉。
返ってくるのは静まり返った音にならない音。
(あっ……)
帰ってくる度に、思い知らされる。
否応なしに、現実が突き付けられる。
『自分に家族はもういない、独りなんだ』と――
(バカだなぁ……毎回毎回忘れるなよ)
頭の中で自嘲めいた言葉を転がしながら、リクは靴を脱ぎ、玄関からリビングへと向かう。
ドアを開けると、食卓テーブルの上にぽつりと置かれた一つの段ボール箱が目に入った。部屋の中に満ちている静けさの中、その箱だけが、誰かがここを訪れた痕跡として、くっきりと存在感を放っている。
「……来てたんだ」
箱の側面には、小さなメモがガムテープで留められている。叔母の字だ。
『できるだけ賞味期限が早い物から食べるように。洗剤とか必要なもの切らしたら教えて。あと体、壊さないようにね』
筆跡は相変わらず少し雑で、ぶっきらぼうですらある。だがそこに込められた気遣いまで乱れてはいないことを、リクはしっかりと認識していた。
叔母――母の妹は親戚の中でも唯一、同じ市内に住んでいる。現在のリクの面倒を見てくれる、唯一の存在と言ってもいい。
実際にリクは、本来であればすぐに各支援団体や、児童養護施設からの手厚い支援を受けられる対象であった。だが両親を亡くしてまだ日の浅い今のリクの精神状態では、そういった支援の網ですらどこか煩わしく、鬱陶しく感じてしまっていたのだ。
(叔母さんには本当に感謝してる……正直今の僕は、こうやって一人で静かに暮らすだけで精一杯だ)
そんなリクの心情を汲んでくれた叔母は、リクが立ち直るまでの間、一時的な生活支援者として名乗り出てくれたのだ。
ただ、叔母自身も同時にシングルマザーであるため、経済的な理由からリクを引き取る余裕はない。それでも、週に数回は食料や日用品を必要以上に届けに来てくれていた。
叔母は事あるごとに『何かあったら連絡してね』とメッセージを送ってくれる。だがリクは、お礼以外の連絡をしたことが一度もなかった。叔母にだって、叔母の人生と事情がある。そこへこれ以上、自分という重石を積ませたくなかったのだ。
「叔母さん、いつもありがとう」
自分以外には聞こえない程の声でリクは小さく礼をこぼすと、段ボールを抱えてキッチンに入り、冷蔵庫の前に置いて箱の中身を確認する。
2kgの米、冷凍のパスタや惣菜。
紙パックの野菜ジュース、即席の味噌汁。
段ボールの中身は種類に一定のローテーションこそあるものの、毎回似たような代わり映えのない内容。代わり映えはしないが、味が悪いわけではない。食べたり飲んだりしている間だけは、ほんのわずかでも幸福感を口の中へ招き入れることができる。
ただ、何かがいつも足りない気がした――
「ふぅ……っ」
仕分けを終え、冷蔵庫の扉を閉めて一息をついた直後、ポケットの中でスマホが震える。確認すると、叔母からのメッセージ通知だった。
『さっき届けたからね。冷凍ものだけど陸の好きな餃子も入れてあるから、ちゃんと食べて』
最後まで読んで、リクは『ありがとう』に笑顔の絵文字を添えて返信する。そしてスマホをテーブルに置いたついでで、テレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押した。別に見たい番組があるわけではない。ただ、なにか気晴らしになればと思い、チャンネルを適当に変えていく。
(あ――)
《自殺者数、爆発的な急増/年齢層を問わない増加傾向に大きな波紋》
とあるニュース番組で、そんなテロップが流れていた。リズムよくチャンネルの切り替えを繰り返していた指先が、無意識のうちに止まる。
『――続いてのニュースです。近頃、全国的に自殺者の数が更なる増加傾向にあることが、厚生労働省の最新の統計から分かりました』
スタジオの中、身なりの整った女性アナウンサーが、深刻そうな面持ちで原稿を読み上げている。その表情も声も、画面越しに見る分にはよく訓練されていて、過不足のない深刻さを帯びていた。
『昨年の一年間の自殺者数は二万八千人を超え、前年よりも約七千人の増加。ここまでの増加率は〝アジア通貨危機〟直後に景気が悪化し、失業者が急増した一九九八年以来となる記録になります』
(自殺者……そんなに増えてるんだ。僕以外にも、死にたいと思ってる人はたくさん居るってことか……)
母が亡くなる以前なら、こういったニュースは遠い世界の出来事だった。痛ましいとは思っても、どこか別の層に属する人間の話として処理できていた。
だが、今は違う。液晶越しに流れてくる情報の一つ一つが染みるように、記憶中枢へと知れ渡っていく。
『ただ、これまでは三十代後半から五十代後半の男性が大きな割合を占めていたのに対し、昨年は十代前半から八十代に至るまで、性別を問わずにほぼ全年齢を対象とした増加傾向にあると見られています』
アナウンサーがグラフを使いながら、性別と世代別に推移を解説していく。色分けされた棒グラフや折れ線の増減が、どこか無機質に、誰かの死を整然と並べ立てていた。
『この問題について、精神医療を専門としているコメンテーターの神谷さんに伺います。神谷さん、この増加傾向をどうご覧になっていますか?』
カメラが切り替わると、アナウンサーとは対極の位置に座っていた中年手前くらいの男が、いかにも専門家らしい勿体を纏って口を開く。
『はい。はっきりとお伝えしましょう。先ほどからお出し頂いてるグラフを見てもらえますとわかるように、この増加傾向は異常です。過去、どれだけの年代や諸外国のデータを遡ってみても、ここまで無差別に自殺者が急増するケースは前例にございません』
大袈裟というより、むしろ断定することそれ自体に酔っているような口調だった。アナウンサーは神妙に頷きながら、同調する役割に徹している。
男は数分ほど、統計や傾向の異常性について熱を帯びた口調で語り続けたのち、それまで厳格だった口調に少しだけ柔らかさを加え、話の切り口を変える――
『さて、ここまで熱く語ってしまいましたが我々は大前提として、〝数字〟の背後に〝個人〟が存在しているということを忘れてはいけません。学校や社会での孤立、将来的な不安、家族との関係、そして経済的な苦しさ……原因はさまざまでしょう。しかしなにより大事なのは、周囲に相談できる存在があるかどうかなのです』
『確かに、周囲に相談できないまま、抱え込んでしまうケースが多いとも聞きますね』
『はい。誰にもSOSを出せないまま〝静かに限界を迎える〟……そうした危機が、今この社会の至る所で起きている可能性があります』
《悩みを抱える方は一人で抱え込まず、ご相談を》
画面下に流れるそのテロップへ、リクの視線は無意識に吸い寄せられていた。液晶の中ではまだ会話が続いていく。
『いま、私たちにできることは何でしょうか?』
『寄り添う姿勢だと思います。たとえ専門知識がなくても〝話を聞くよ〟、〝君の味方だよ〟と伝えることはできる。それだけで、救われる命があるかもしれません。重要なのは正しい言葉よりも聞く耳なのです』
『なるほど……私たち一人ひとりが、身近な誰かの変化に気づくことが、社会全体の――』
これ以上は、雑音になりそうだった。
最後まで視聴することなく、リクはテレビの電源を切る。
液晶からの光と音が消え失せると、たったそれだけで、部屋の中の静けさは一段と深く沈み込んだ。
(悩みを抱える方は、一人で抱え込まずに――か)
リクはどこにも座る気になれず、しばらくただ立ち尽くす。
照明も点けていない部屋の中。街灯の光がカーテン越しにわずかに染み込んでくるだけの薄暗い空間に、静寂がじっと溜まっている。外から聞こえてくる車の音も、どこか別の国の出来事かのように遠い。
(あの人……何者なんだろう)
一時間ほど前に出会ったエイトという男。彼とは、ずいぶん久しぶりに〝生きた〟会話をした気がする。
両親が亡くなってからというもの、自分へ話しかけてくる人間のほとんどは『可哀想』や『お気の毒に』といった、同情や哀れみの視線や声音が染み付いていた。そしてそれが、自分の現実をわざわざ押し付けられているような気がして、たまらなく嫌だった。
(僕の事情を知ったら、あの人はどんな目で、どんな声で接してくるんだろう)
ふと、ポケットの中に入れたままだった名刺へ手が伸びる。
『特殊音楽療法心療士 蒼井詠人』
「……やっぱり、怪しいよね」
誰に聞かせるでもない独り言。
暗い部屋の中へ、じわりと染み込んでいった。
◇◆◇◆
――その日の夜、僕は夢を見た。
まだ僕が小学生だった頃。
笑顔の父さんと母さん。
ドライブで遠出した日。
初めてキャンプをした日。
動物園に連れて行ってもらった日。
誕生日を祝ってもらった日。
どれも、ちゃんと幸福だった頃の記憶だ。
走馬灯のように、思い出たちが僕の頭の中を駆け抜けていく。
やめてくれ、見せないでくれ。
二人が死んでから、絶対に見たくないと思っていた夢だ。
見せるのなら、せめて覚まさないでくれ。
朝なんて、もう来なくていい――
◇◆◇◆
――夢の中で最後に映し出されたのは、ベッドルームで首を吊った母の姿だった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
自室のセミダブルベッドの上。
寝汗と涙にぐしゃぐしゃになった顔のまま、リクは息を切らして目を覚ます。
遮光カーテンの隙間からは、朝の陽光が細く差し込んでいる。昨日が終わり、今日が始まってしまった照明にして証明だ。
(……ダメだ、やっぱり、死にたい)
昨日みたいに気晴らしに散歩をしても、好きなゲームに一日中没頭していても、決して覚めることのない現実という名の悪夢。いったいこれから先、どれだけ長い時間、この最悪な感情と向き合い続けなければならないのだろう。
「ああぁぁああぁぁぁっっ――!!」
リクは布団で全身を密閉し、全力で嗚咽する。
自宅で希死念慮に駆られた際、必ず起こす行動だ。
狂ったみたいに泣き叫んでいる間だけは、あらゆる現実から逃げていられる気がする。
これを五分ほど続けると、喉の限界と酸欠による疲労感から、なにもかもがどうでもよくなる無気力状態にずるずると沈んでいく。
「……はぁっ、不幸最高! 世界滅亡しろっ……!」
端から見れば奇行でしかないその独自の発散法を終え、布団から飛び出したリクは、妙に清々しい顔をしていた。
別にふざけているわけではない。母を亡くしてからの二週間、現実からどうにか逃れるため、本気で悩み抜いた末に辿り着いたひとまずの応急処置がこの〝儀式〟なのだ。
「……僕の人生はもう終わってるんだ。ねえ神様、いるならいつでも世界を終わらせてくれても構わないよ」
憑き物でも落ちたかのような真顔で、リクは不穏な内容を口走っている。
「僕に明日はいらない。明日なんて来なくていい。今日終わったっていい……」
まるで経でも唱えるかのごとく、ぶつぶつと平坦に紡ぐ。破滅願望を軽々しく口にすることで、感情の圧を逃がして発散させようとする、リクなりの苦肉の策だった。
「……お腹空いたな」
小一時間ほど〝儀式〟に時間を費やしたのち、腹の虫が遠慮なく鳴った。昨日の夜からなにも食べていないうえに、叫び続けるという形でそれなりのカロリーまで消費してしまっている。
(なにか……出前でも頼もうかな)
叔母から届けられる食料は、決して味が悪いわけではなく、むしろ十分すぎるほどにありがたいのは確かだ。だがどうしても、心のどこかで味気のなさを覚えてしまう。
〝儀式〟を終えてもなお残り続ける負の感情の残滓を洗い流すには、別の気分転換が必要な気がした。
(今は、ちょうどランチの時間帯か……)
リクはスマホを手にして出前アプリを起動し、液晶に表示された店の一覧をスクロールする。数分ほど吟味を重ねた上でハンバーガー店を選択し、早速とセットメニューをタップした。
(ハンバーガーなんてしばらく食べてなかったし、たまには良いよね)
叔母からは可能な限りで栄養バランスを考慮した食料が届くため、ジャンクフードを頼むことに少しだけ抵抗はあった。それでもリクは今の自分に必要な物だと言い聞かせ、罪悪感に駆られながらも注文を完了させる。
――待つこと30分、インターホンが家中に鳴り響く。
「はい、どちら様でしょ――」
モニター付きインターホンの応答ボタンを押したリクは、液晶に映った人物の姿を視認した途端、語尾を失った。
『ウィーーッス、〝出前堂〟でぇーーす』
玄関前に立っていたのは、頭に白いタオルを巻き、商品が入った袋を片手にぶら下げている、あの男――昨日の夕方、公園で出会った〝蒼井詠人〟だった。
(ウソ、なんでこの人が……?)
『あれ、もしもーし? ここ村崎サンのお宅っすよねー?』
エイトは、表札に書かれた〝村崎〟の文字を確認したあと、インターホンのカメラレンズを訝しむように覗き込んでいる。粗い画質越しに映るその姿は、出前の配達員というよりも、どこぞの闇金業者が回収に来たような圧すら纏っていた。
(ヤバい……どうする……どうしよう)
思考が一気に慌ただしくなる。
昨日会ったばかりのこの男に対して、確かに少しだけ興味は湧いていた。しかしこんな思いも寄らぬ形と、思い掛けないタイミングでの再会など望んではいなかった。
(昨日言ってたバイトって……出前の配達だったのか。というか、良くわからない肩書きの本業は本当に仕事として成立してるの? ますます怪しすぎるって!)
『おい、早く出てくれってのー。次の客が控えてんだよー』
様々な思考が錯綜し、狼狽えているリクとは対照的に、エイトは容赦なく急かしてくる。
(くっ、出るしかない……もうどうにでもなれ――!)
半ば自棄になりながらも、意を決したリクは玄関の扉を開き、エイトを迎え入れる――




