01話 死にたくなったら
僕らが住む日本という国は、とても平和な国だ。
飢餓や貧困や戦禍といった、もっと露骨で、もっと即物的な不幸に脅かされる機会は比較的少なく、義務教育という制度ですら国土の隅々まで行き届いている。
治安も良く、水も綺麗で、電車は時間通りに来るし、コンビニは夜中でも明るい。そういった意味では、他の先進国から見ても、相当に恵まれた、あるいは幸福に近い側へと分類される国なのだろう。
なのに、どうして自殺者の数は多いままなのだろうか。
理由として思い浮かぶ要因なら、いくらでもある。ここ数十年にわたりゆるやかに、しかし確実に人々の暮らしを摩耗させ続けてきた景気の悪化。
日本という国が、古びた畳の裏側に黒々とした湿気を溜め込むみたいに温存し続けてきた、陰湿で粘着質なイジメの問題。
あるいは家庭環境、労働環境、人間関係――など、列挙し始めればキリがないし、どれか一つを引き抜いたところで、別の要因が底から這い上がってくるだけなのだろう。
自殺者がいつまで経っても減らないという事実は、社会全体――ひいては社会構造そのものを、骨組みから組み替えるくらいのことでもしない限り、人類にとって永久に付き纏い続ける課題なのかもしれない。
もっとも、僕は政治家でもなければ、有識者でもないし、そういった分野の勉強だってほとんどしたことがない。なにをどう変えていけばいいのかなんて、見当もつかないのが本音だ。
――それでも、確信をもって言えることが一つだけある。
自殺という行為は、たとえ当人がどれほど追い込まれ、どれだけ虐げられたとしても、結局のところ最後の最後で『死ぬか、死なないか』を選ぶのは本人の意思次第だ、ということだ。
けど、もしその選択を、じわじわと、あるいは確実に死の側へと後押しするような、目に見えない〝何か〟が、この国だけにあるのだとしたら――
◇◆◇◆
空が、赤と青のまだらな境界に染め分けられていた。夕暮れというにはあまりにも演出めいていて、そのまま額縁に入れて抽象画として飾ってしまっても成立しそうなほどの、不自然な美しさだった。
四月の夕風は、春と呼ぶにはまだどこか冷たく、肌の上を通り抜けていくたび、胸の内を寂しく撫でていく。
――公園の中、黒髪の少年がベンチにポツンと座り、ひとり寂しく項垂れている。
公園の敷地内には、少年のほかにもまだ数人の子どもたちが残っていた。砂場の縁にしゃがみ込んだり、遊具にぶら下がったり、意味もなく全力疾走したりしながら、夕方という時間の終わり際を、惜しみなく当然のように消費している。
年の頃は、小学校に入るか入らないか。まだ一日が世界のすべてのように思えてしまう幼さだ。
そのうちの一人が、公園の隅に設置された時計を見上げると、無邪気に声を上げる。
「あ、もう5時だ! 帰らなきゃ!」
17時近くを指していた時計を一人の子が指差すと、一緒に遊んでいた他の子達が一様に時計を見やる。
「バイバイ! また明日ね!」
門限という概念を律儀に守った子どもたちは解散し、それぞれの家へ向かって小さな足をせわしなく動かしていく。きっと家に帰れば、親の温かい笑顔と夕飯が、迎え入れてくれるのだろう。
「……はぁ」
その小さな背中たちを見送った少年は大きく、そして深く、肺の底に澱んでいたなにかごと吐き出すかのように、重く溜め息をついた。
――少年には、帰る場所がない。
いや、正確にはある。しかしあるのは場所だけであって、現在は少年以外誰も住んでいない。心の拠り所となる対象は家ではなく、家族なのだ。
先月、運送会社に勤めていた少年の父が事故で亡くなった。そしてその一週間後には、母が父の後を追うように、自宅で首を吊って自殺した。
どういった因果で、少年にここまでの不幸が巡り合わせたのだろうか。三人仲良く、慎ましく暮らしていただけなのに、どうして。
少年は、この春に進学したばかりの高校一年生だ。今の時期というのは本来であれば、新しい制服の感触にもまだ少し照れながら、新たな出会いや青春に胸を躍らせる時期ではある。本来であれば――
(――死にたい。僕は今、とても死にたい)
しかし、思考の土壌から芽吹いてくるのは、そんな類いの希望ではない。救いと呼べるものからは徹底して見放された、ただひたすらに絶望だけが平坦に続くような、どす黒く濁った負の感情ばかりだ。
(どうやって……死のうかな)
少年は俯かせていた顔をゆっくりと持ち上げると、公園の隅に設置されたジャングルジムを、まるで商品の陳列棚でも眺めるような目つきでじっと見つめた。
(ジャングルジム……一番高いあそこから飛び込めば……いや、痛いだけで死ねやしないか)
冷静に。淡々と。少年は自らの死の計画を、ありふれた買い物リストでも組み立てるような平熱で目論んでいく。
(それとも車道に出て、車に轢かれた方が――)
「おい、どうしたオマエ? すげえ顔色悪りぃぞ?」
自殺の方法についてあれこれと思案していた少年を、唐突に現実へと引き戻す若い男の声。気付いた時にはもう、見下ろされる形で、大柄な男が目の前に立っていた。
(だ、誰……? びっくりした……!)
大きく跳ね上がった鼓動が余震のようにまだ胸を打つ。声をかけられる今の今まで、全く存在に気付けなかった。それはこの男が気配を消す達人だからとかではなく、単純に少年の意識が半分どこか彼方へと失せていたからだ。公園の時計はいつの間にか、10分ほど針が進んでいた。
「家出少年か? こんな誰もいない公園に一人で何してたんだよ?」
生活指導でもしているつもりなのか、あるいは単なる興味本位なのか。彼の問い掛けは妙に遠慮がなく、それでいてどこか真っ直ぐだった。
容姿に目を向ければ、ウニの棘みたいに尖った明るい金髪。両耳にはいくつものピアス。目つきは悪いが、その奥には薄っぺらな威圧とは違う、妙に芯の通った眼差しがあった。年齢は二十代前半ほどだろうか。
服装もまた、彼の人柄の解像度を鮮明に表している。派手な柄のオーバーサイズのシャツにハーフパンツ。腰にはジャラジャラと何重ものチェーン。一言で済ませてしまえば、いかにもなチャラついた風貌だった。
(見ず知らずのあんたなんかには関係ないだろっ……とは言えない、よね。逆ギレされて殴られでもしたらたまったもんじゃない)
学校のクラスの中でも、比較的大人しめなグループに属していた少年からすれば、現れた男は、親和性という言葉そのものを拒絶しているような存在だった。
水と油どころか、交わる以前に同じ容器に入れることすら躊躇われるほど、種類の違う人間に見える。もちろん、関わり合いになどなりたくもない。
「別に……なにもしてないですよ」
そう判断した少年は、波風を立てないためだけの当たり障りのない返答をこぼした。
「そうなのか? なんか随分と思い詰めてそうだったし、車道にでも飛び込むんじゃねえかと思っちまったよ」
「えっ……っ」
再び、心臓がいやな跳ね方をする。ほとんど図星に近い位置を射抜かれた少年は、それでも必死に平静の皮を被ろうとする。
「き……気のせいですよ」
「オマエ、ウソつくの下手だなあ」
別に悪事が露見したわけでもないのに、胸の奥には罪悪感に似たものがじわりと広がる。
(なんでもいいだろ、ほっといてくれ……!)
たとえ今ここで『死にたい』と告げたところで、両親が他界した事実を打ち明けたところで、一体この男になにができるというのだろう。せいぜい、気まずい同情を向けられるのが関の山だ。余計なお世話でしかない。
「……本当になんでもないですから」
そう結論づけた少年は、顔ごと外方を向くように冷たく突き放した。男は、おかしいなと言ったような表情で首を傾げ、少年の様子をじっと観察している。
「オマエ、名前は?」
「名前なんて聞いてどうするんですか」
「聞いただけだよ。俺は詠人っていうんだ、オマエは?」
「……陸」
先に名乗られてしまった手前、自分も名乗り返さなければならないような義務感に苛まれたリクは、ボソリと名を告げる。
「そうか……リクか。うっし、じゃあコレやるよ。お近付きのシルシってやつだ」
エイトはどこか上機嫌な調子でそう言うと、ポケットからセンスを疑いたくなるような、蛇柄の長財布を取り出す。その中から一枚の名刺を抜いて、リクの手に押しつけるよう握らせた。
(なんだ……?)
手のひらほどの白い名刺には、彼が活動の拠点としているであろう住所や携帯番号、メールアドレスが記載されている。
だがなによりも目を引いたのは『特殊音楽療法心療士 蒼井詠人』という、彼のフルネームの横に添えられた、聞いたこともない肩書きだった。
(怪しい、というか胡散臭すぎる……!)
「うおっ、やっべ! バイト始まっちまうんだった!」
名刺を凝視したリクが疑念を募らせていくのをよそに、エイトは本来の所用を思い出したようだ。すると瞬く間に焦った様子へと早変わりを見せ、そのまま駆け足で公園を後にしていく。
「またな、リク! それと――」
そして、去り際に一度だけ振り返ると――
「――死にたくなったら、いつでも電話しな」
リクが手にした名刺を指差しそれだけを告げると、彼はそのまま繁華街のある方角へ颯爽と走り去っていった。
一方でリクは、みるみるうちに小さくなっていくエイトの大きな背中を、見えなくなるまでただ黙って見送るしかできないでいる。いきなり吹き荒れては通り過ぎていく、突風のような男だった。
(悪い人では……ないのかな)
風貌こそ近寄りがたい雰囲気な上に、名刺に記載された肩書きの胡散臭さは拭えないが、案外まともな人なのかもしれない。
『死にたい』という感情は、少しだけ和らいでいた――
4月20日




