02話 リク
「ただいま」
家の玄関に足を踏み入れると同時。
条件反射で発してしまう帰宅を告げる言葉。
返ってくるのは静まり返った音にならない音。
(あっ……)
帰ってくる度に、思い知らされる。
否応なしに、現実が突き付けられる。
『自分に家族はもういない、独りなんだ』と――
(バカだなぁ……毎回毎回忘れるなよ)
頭の中で自嘲するように戒め、リクは靴を脱いで玄関からリビングへと向かう。ドアを開けると、食卓テーブルの上に一つの段ボール箱がぽつんと置かれているのを確認した。
「……来てたんだ」
その箱の側面には、叔母が書いた小さなメモがテープで貼られていた。
『できるだけ賞味期限が早い物から食べるように。洗剤とか必要なもの切らしたら教えて。あと体、壊さないようにね』
筆跡は雑でどこか投げやりに見えてしまうが、それでも彼女なりの精一杯の気遣いなのだと、リクは分かっていた。
叔母――母の妹は親戚の中でも唯一、同じ市内に住んでいる。両親を亡くした後のリクの面倒を見てくれる、唯一の存在と言ってもいい。しかしシングルマザーでもあるため、経済的な理由からリクを引き取る余裕はない。ただ、それでも週に数回は食料や日用品を届けに来てくれてはいた。
彼女は事あるごとに『何かあったら連絡してね』とメッセージをくれるが、リクはまだお礼以外の連絡はしたことがない。叔母側の事情も察して、これ以上自分が負担にはなりたくないと思っていたのだ。
「叔母さん、いつもありがとう」
自分以外聞こえない程の声でリクは小さく礼をこぼすと、段ボールを抱えてキッチンに入り、冷蔵庫の前に置いて箱の中身を確認する。
2kgの米、冷凍のパスタや惣菜。
紙パックの野菜ジュース、即席の味噌汁。
段ボールの中身は種類に一定のローテーションこそあるものの、毎回似たような代わり映えのない内容。それでも、味は悪くない。食べたり飲んだりしている間だけは、僅かに幸福感を得られた。
ただ、何かがいつも足りていない気がした――
「……!」
食べ物の仕分けを終えて冷蔵庫の扉を閉じたと同時に、ポケットの中のスマホが震える。叔母からのメッセージの通知だった。
『さっき届けたからね。冷凍ものだけど陸くんの好きな餃子も入れてあるから、ちゃんと食べて』
そのメッセージを最後まで読むとリクは『ありがとう』に笑顔の絵文字を添えて返信し、スマホを裏返してテーブルの上に置いた。
「……ふぅ」
小さく溜め息をつくと、スマホの隣に置いてあったテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。特に見たい番組などは無い。ただ、なにか気晴らしになればと思い、チャンネルを適当に変えていく。
(あ――)
《自殺者数、爆発的な急増/年齢層を問わない増加傾向に大きな波紋》
とあるニュース番組が、興味深いテロップを映し出している。リズム良くチャンネルの切り替えボタンを押していたリクの指は、無意識に止まっていた。
『続いてのニュースです。近頃、全国的に自殺者の数が更なる増加傾向にあることが、厚生労働省の最新の統計から分かりました』
テレビ局のスタジオで、身なりの整った女性のアナウンサーが、深刻そうな面持ちで原稿を読み上げている。
『昨年の一年間の自殺者数は二万八千人を超え、前年よりも約七千人の増加。ここまでの増加率は〝アジア通貨危機〟直後に景気が悪化し、失業者が急増した一九九八年以来となる記録になります」
(自殺者……そんなに増えてるんだ。僕以外にも、死にたいと思ってる人はたくさん居るってことか……)
母が亡くなる以前だと、こういったニュースは自分には縁がないと他人事のように思っていた。だが今となっては、液晶とスピーカーから流れてくる情報の一つ一つが沁みるように、記憶中枢へと知れ渡っていく。
『ただ、これまでは三十代後半から五十代後半の男性が大きな割合を占めていたのに対し、昨年は十代前半から八十代に至るまで、性別を問わずにほぼ全年齢を対象とした増加傾向にあると見られています』
アナウンサーがグラフを用いて、性別や世代別に分けて自殺者の推移について解説している。
『この問題について、精神医療を専門としているコメンテーターの神谷さんに伺います。神谷さん、この増加傾向をどうご覧になっていますか?』
カメラが切り替わり、アナウンサーと対極の位置に座る、壮年と中年の狭間あたりの年代の男性が口を開く。
『はい。はっきりとお伝えします。先ほどからお出し頂いてるグラフを見てもらえますとわかるように、この増加傾向は異常です。過去、どれだけの年代や諸外国のデータを遡ってみても、ここまで無差別に自殺者が急増するケースは前例にございません』
大袈裟が過ぎるくらいの口調で、コメンテーターが問題点を語っている。アナウンサーは神妙そうに、小さく頷いて話に聞き入っていた。そして、数分ほど傾向について語り尽くしたコメンテーターは、それまで厳格だった口調に少しだけ柔らかさを加えて話の切り口を変える――
『さて、ここまで熱く語ってしまいたが我々は大前提として、〝数字〟の背後に〝個人〟が存在しているということを忘れてはいけません。学校や社会での孤立、将来的な不安、家族との関係、そして経済的な苦しさ……原因はさまざまでしょう。しかしなにより大事なのは、周囲に相談できる存在があるかどうかなのです』
『確かに、周囲に相談できないまま、抱え込んでしまうケースが多いとも聞きますね』
『はい。誰にもSOSを出せないまま〝静かに限界を迎える〟……そうした危機が、今この社会の至る所で起きている可能性があります』
《悩みを抱える方は一人で抱え込まず、ご相談を》
コメンテーターとアナウンサーが話している最中にも、画角の下にテロップが映し出され、リクは無意識に視線を向けていた。液晶の中ではまだまだ話が続いていく。
『いま、私たちにできることは何でしょうか?』
『寄り添う姿勢だと思います。たとえ専門知識がなくても〝話を聞くよ〟、〝君の味方だよ〟と伝えることはできる。それだけで、救われる命があるかもしれません。重要なのは正しい言葉よりも聞く耳なのです』
『なるほど……私たち一人ひとりが、身近な誰かの変化に気づくことが、社会全体の――』
「…………」
これ以上は、雑音になりそうだ。
最後まで視聴せず、リクは黙ってテレビの電源を切った。
(悩みを抱える方は、一人で抱え込まずに――か)
どこにも座らず、しばらくただ部屋の中で立ち尽くした。
照明も点けてない部屋の中。
街灯の光が僅かに照らす空間の中で、静寂に身を委ねる。
外から聞こえる車の音が、どこか遠く感じた。
(あの人……何者なんだろう)
一時間ほど前に出会ったエイトという男。
彼とは、久々に『生きた』会話をした気がする。
両親が亡くなってから、自分に話しかける人は皆
『可哀想』や『お気の毒に』といった哀れみの目線や声色がフィルターとしてかかり、それが嫌でも自分の現実を押し付けられている気がした。
(僕の事情を知ったら、あの人はどんな目で、どんな声で接してくるんだろう)
ふと、ポケットに入れたままだった名刺に手が伸びる。
『特殊音楽療法心療士 蒼井詠人』
「……やっぱり、怪しいよね」
誰に聞かせるでもない独り言。
暗い部屋に、ひっそりと染み込んでいく――
◇◆◇◆
――その日の夜、僕は夢を見た。
まだ僕が小学生だった頃。
笑顔の父さんと母さん。
ドライブで遠出した日。
初めてキャンプをした日。
動物園に連れて行ってもらった日。
誕生日を祝ってもらった日。
走馬灯のように、思い出が僕の頭の中を駆け巡る。
いやだ、見せないでくれ。
二人が死んでから、絶対に見たくないと思っていた夢。
見せるなら、覚めないでくれ。
朝なんて、もう来なくていい――
◇◆◇◆
――夢の中で最後に映し出された映像は、ベッドルームで首を吊った母の姿だった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
自室のセミダブルサイズのベッドの上。
息を切らし寝汗と涙にまみれた顔で、リクは目を覚ます。
遮光カーテンの隙間からは、陽の光が差し込んでいる。
昨日から、今日に切り替わっている証明だ。
(…………ダメだ、やっぱり、死にたい)
昨日のように気晴らしに散歩をしても、好きなゲームに一日中没頭していても、覚めることのない現実という悪夢。これから先、どれだけこの最悪な感情と向き合わなければいけないのだろう。
「ああぁぁああぁぁぁっっ――!!」
リクは布団で全身を密閉して全力で嗚咽する。自宅で希死念慮に駆られた際に必ず起こす行動だ。狂ったように泣き叫んでいる間だけは、全てから逃げていられる気がした。
これを5分ほど続けると、喉の限界と酸欠による疲労感から、全てがどうでも良くなる無気力状態に陥る。インスタント・トランスハイとでも呼ぶべきか。
「……はぁっ、不幸最高! 世界滅亡しろっ……!」
端から見れば奇行ともとれる独自の発散法を終え布団から飛び出ると、リクは清々しい顔を覗かせる。別にふざけているわけではない。母を亡くしてからの二週間、少年が現実から逃げるために本気で悩み抜いた末の、ひとまずの結果がこの〝儀式〟なのだ。
「……僕の人生はもう終わってるんだ。ねえ神様、いるならいつでも世界を終わらせてくれても構わないよ」
憑き物でも落ちたかのようなキリッとした真顔で、リクは不穏な内容を口走っている。
「僕に明日はいらない。明日なんて来なくていい。今日終わったっていい……」
ぶつぶつと、まるで経でも唱えているかの如く淡々と紡ぐ。簡単に口にすることで、負の感情を発散させる彼なりの工夫である――
「…………お腹空いたな」
小一時間ほど〝儀式〟に時間を費やしたところで、リクの腹の虫が鳴る。昨日の夜から何も食べていないのに加え〝儀式〟にそれなりのカロリーを消費してしまった。
(なにか……出前でも頼もうかな)
叔母から受け取った食料の品々は味こそ悪くはないものの、どこか味気の無さがあった。
〝儀式〟を終えたとはいえ、負の感情の残滓を完全に心から取り除くには、なにか気分転換が必要だとリクは悟った。
(今は、ちょうどランチの時間帯か……)
頼める店のバリエーションはたくさんあるはず、とリクはスマホを取り出し、出前アプリを起動させる。液晶に表示された店の一覧をスクロールして、数分ほど吟味を重ねた上でハンバーガー店を選択し、早速セットメニューをタップする。
(ハンバーガーなんてしばらく食べてなかったし、たまには良いよね)
叔母からは可能な限りで栄養バランスを考慮した食料が届くため、ジャンクフードを頼むことに少しだけ抵抗はあった。それでもリクは今の自分に必要な物だと言い聞かせ、罪悪感に駆られながらも注文を完了させる。
――待つこと三〇分、リクが住むマンションの一室のインターホンが、家中に鳴り響く。
「はい、どちら様でしょ――」
モニター付きインターホンの応答ボタンを押すリク。玄関前に現れた人物の姿を、粗い画質の液晶越しに視認するや否や、語尾が失われる。
『ウィーーッス、〝出前堂〟でぇーーす』
なんと家のドアの前に立っていたのは、頭に白いタオルを巻き、頼んだ商品の袋を手に持った姿のあの男――昨日の夕方に公園で出会った〝蒼井詠人〟だったのだ。
(ウソ、なんでこの人が……!?)
『あれ、もしもーし? ここ村崎サンのお宅っすよねー?』
エイトがリクの苗字である〝村崎〟と書かれた表札を確認したのち、インターホンのカメラレンズを訝しむように覗き込んでいる。相変わらずな見た目のガラの悪さも相まってか、どこぞの闇金業者が取り立てにでも来たのかと錯覚してしまうような絵面が液晶には映っている。
(ヤバい……どうする……どうしよう)
取り乱すリク。昨日の出会いから、エイトに対して少しだけ興味が湧いてしまったのは事実だ。しかし、こんな予想だにしないタイミングでの再開なんて望んでいない。
(昨日言ってたバイトって……出前の配達だったのか。というか、良くわからない肩書きの本業は本当に仕事として成立してるの? ますます怪しすぎるって!)
『おーーい早く出てくれー。次の客が控えてんだよーー』
様々な思考があれこれと錯綜し、狼狽えるリク。一方でエイトはそんな少年の置かれた状況など知る由もなく、容赦なく急かしてくる。
(くっ、こうなったら……! もうどうにでもなれ――!)
半ば自棄になりつつも意を決したリクは、玄関の扉を開いてエイトを迎え入れる――