⑥
炎が広がるにつれ、屋根裏の空気が急速に変わっていく。酸素が炎に奪われ、一呼吸するたびに肺が焼けるような痛みが走る。薄紫のドレスの裾が舞い上がるほどの上昇気流が生まれ、黒く渦巻く煙が梁の隙間を這うように天井に沿って広がっていく。エミリオも咳き込み始めている。
「くっ…」 煙を必死に払いながら、俺は状況を把握しようとする。火は出口である扉へと飢えた獣のように這いずり寄り、実験器具の影が壁に歪んだ踊りを見せていた。ガラス製の試験管は既に熱で歪み始め、中に残った液体が不気味な泡を立てている。
エミリオは扉のドアノブを傍にあった椅子で叩き壊そうとしていた。重厚な木製の椅子が真鍮のドアノブに打ち付けられる度に、鈍い音が響く。彼の額には汗が滲み、普段の優雅な仕草は完全に消え去っていた。ついにドアノブが外れ、エミリオが肩で扉を押し開けるが、その先の階段も既に炎に包まれていた。古い木材が燃え盛る様子は、まるで地獄の入り口のようだ。火の粉が舞い、階段の手すりは既に崩れかけている。
「屋敷全体に火が…!」エミリオの声が、炎のパチパチという音と木材の軋む音に掻き消されそうになる。
「これらを知ったものは生かして帰さないつもりか…」 俺は目の前の状況を冷静に分析しようとする。この屋根裏は炎に完全に包まれている…加えて、この部屋の実験器具や書類には何故か過去視が使えない。まるで誰かが意図的に能力を封じているかのような違和感に、背筋が凍る。万事休すか…という思いが頭をよぎる。
時間の経過と共に、部屋の温度は更に上昇していく。天井の木材がうねるような音を立て始め、今にも崩れ落ちそうな不気味な音が響く。そんな中、エミリオが何かを思いついたように、急に立ち止まってじっと考え込む。炎が迫る中、彼の横顔が不気味なまでに冷静だった。瞳に映る炎の光が、普段には見せない決意を映し出している。
「どうした?」煙で喉が焼けるような感覚に耐えながら、声をかける。髪の毛が熱で焦げる匂いが鼻をつく。
エミリオがゆっくりと振り向く。普段の従順な執事の表情とは違う、何か決意に満ちた眼差しで俺を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。その瞳には、これまで見たことのない覚悟のような光が宿っていた。
「…私を…信じていただけますか?」
その声音には、いつもの丁寧さの中に、どこか切迫した響きが混じっていた。
「何か手があるのか?」
煙で目が痛むのを我慢しながら、俺は問いかける。炎の明かりに照らされたエミリオの顔が、これまで見たことのない決意に満ちた表情を見せていた。彼の瞳に映る炎が、いつもとは違う光を放っている。白い手袋は煤で黒く汚れ、完璧な執事の姿からは程遠い。それでも、その背筋は凛として真っ直ぐだった。
「危険ではありますが…」
彼は一瞬言葉を切り、周囲の炎を見渡す。炎は部屋の隅々まで広がり、実験器具の影を歪ませながら、二人を包囲するように迫っていた。
「何もせずにここで焼け死ぬぐらいならば選んでいただきたい選択肢があります」
その言葉に俺は薄く笑う。探偵時代の経験が、直感的に危険を察知していた。分の悪い、命がけの賭けになることは間違いない。だが──
「それに乗ろう。何もわからないまま二度も死ぬのはごめんだ」
エミリオが静かに、しかし力強く頷く。その瞳には、これまで見たことのない決意の色が宿っていた。普段の従順な執事の仮面が剥がれ落ち、何か別の顔が覗いているような錯覚を覚える。「では…」
エミリオが手元の椅子を持ち上げ、脆くなった屋根を力強く叩き始めた。何度も何度も打ち付けられる度に、古い木材が悲鳴を上げるように砕け散る。やがて、空が見えた。灰色の雲の下に、アリア川の濁流が一瞬だけ視界に入る。
唖然としている俺に、エミリオが静かに手を差し伸べてくる。その手は少し震えているようにも見えたが、瞳は迷いのない光を湛えていた。
「さぁ、どうぞ」
「ど…どうぞって…」
頭上に広がる灰色の空を見上げたまま、俺は間の抜けた声を出す。挙動不審な俺にじれたのか、あるいは時間的な余裕がなくなったのか、エミリオは俺の手を掴むと一気に抱きしめた。その腕の中で、薄紫のドレスが風に揺れる。
探偵時代はもちろん、学生時代、部活で優勝した時に仲間と抱き合って喜んだことはあったが、こんな風に──誰かに守るように抱きしめられたことなど一度もない。ましてや、現在の自分は華奢な少女の体だ。エミリオの胸板に顔を押し付けられ、石鹸の香りと煙の匂いが鼻をつく。
「エミリオ!?」
声も裏返った俺とは対照的に、エミリオの視線は一点を見つめていた。その真剣な眼差しに、一瞬だけ胸が締め付けられるような感覚を覚える。
その視線の先に目を向けると、轟音を立てて流れる濁流──雪解け水を集めたアリア川の激流が見えた。春の増水期を迎えた川は、まるで巨大な獣のように唸りを上げている。
「!!まさか…」
背後では建物が軋むような音を立て、炎が二人を追いかけるように迫ってくる。冷や汗を浮かべながらも口角を少し上げ、ぎこちない笑顔を浮かべたエミリオは「信じてくださるんですよね」と答える。その声には、普段の従順さの中に、どこか悪戯っぽい響きが混じっていた。
「男に、二言はねぇ!」
がむしゃらに怒鳴った俺の声を掻き消す様にエミリオの叱責の声が響く。
「いいえ!お嬢様は!!可憐で可愛らしい少女です!!!」
エミリオは俺を抱きしめたまま川に飛び込んだ。
刺すような冷たさが全身を包み込む。雪解け水を集めた春の濁流が、容赦なく二人の体を飲み込んでいく。ドレスが重く体に纏わりつき、その重みが俺を更に深く引きずり込もうとする。濁った水が鼻や口に入り込み、喉が焼けるような痛みを感じる。目を開けても、泥で濁った水の中はほとんど何も見えない。
渦を巻く激流が二人の体を持て遊ぶように揺さぶり、次々と岩にぶつかっていく。エミリオの腕の力が緩みそうになる度に、更に強く抱きしめられる。意識が遠のきかけた時、水面に顔を出すことができた瞬間の空気の美味しさと共に、炎に包まれた廃墟が、川上の方角に小さく見えた。そして再び、濁流が二人を飲み込んでいく──。
二人が飛び出した後の屋敷は脆くも崩れ落ちていた。炎に包まれた建物は、まるでガラスの様に砕け散るように崩壊していく。二人の流れていった川を眺める影が一つ、廃墟と化した屋敷の傍らにあった。しかし、その姿は遠くから野次馬たちの声が聞こえ始める前に、静かに場から消えていた。
*
「はぁ…はぁ…げほっ!!」
アリア川の土手を這い上がりながら、俺は激しく咳き込んだ。薄紫のドレスは泥に塗れ、レースは所々で千切れている。髪も煤けて乱れ、令嬢らしい姿からはかけ離れた有様だった。だが、それでも生きていた。二人とも、確かに生きていた。
川岸の雑草の中で、俺たちは倒れるように横たわる。春の陽気とは裏腹な冷たい風が、濡れた体を震えさせる。
「お嬢様…」
エミリオの声が震えている。黒燕尾服は泥まみれで、俺と同様にいつもの端正な容姿からはかけ離れていたが、その表情には安堵の色が浮かんでいた。「ご無事で…」
「ああ…生きてるよ…こんなにやばいのははじめてだ…」
俺は両腕を大きく広げたまま、土手の雑草の上で息を整える。喉に残る川の水が、時折咳となって吐き出される。探偵時代にも危ないシーンを潜り抜けたことはあったが、まさか執事に抱かれて川に飛び込むことになるとは。
その言葉に、彼はキョトンとした表情を浮かべる。黒髪から水が垂れる横顔は、いつもの優雅な執事の面影もない。
「…なんだよその顔」
俺は上体を起こしながら、濡れて重くなったドレスの裾を絞る。
「いえ…てっきり二、三回は死地を潜り抜けていそうな印象でしたので…」
エミリオの声には、珍しく冗談めいた調子が混じっていた。危機を脱した安堵感からか、普段の従順な態度が少し崩れていた。
「とりあえず、このままでは目立ちすぎます。移動しましょう」
確かに、ずぶ濡れの令嬢と執事という取り合わせは、いくら混乱の最中とはいえ、人目を引くだろう。
「そうだな…」
立ち上がろうとした瞬間、激流に揉まれた体の痛みが一気に襲ってきた。思わずよろめく俺を、エミリオが咄嗟に支える。
「大丈夫ですか!」
「大丈夫大丈夫…まぁ、この体で川に飛び込むのは想定外だったからな」
その時、遠くから人々の話し声が聞こえ始めた。火事の見物人たちだ。
「急ぎましょう。裏路地を通れば、人目につかずに屋敷まで戻れるはずです」
エミリオが俺の背中に自身の上着を掛けながら言う。普段の従順な態度に戻ったその仕草に、どこか安心感を覚えた。
「ああ、そうだな…エミリオ」
「はい?」
「さっきは…ありがとう」
エミリオは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべる。
「執事として当然の行動です」
風が煙の匂いを運んでくる。邸宅の方角からは火災を知らせる鐘の音が響き始め、人々の声が徐々に大きくなっていった──。
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