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「お嬢様、こちらから」


エミリオの囁くような声に導かれ、俺は屋敷の裏門をくぐる。夕暮れの影に紛れるように、二人は石畳の小道を忍び足で進んでいく。執事に抱かれて川に飛び込むなど、探偵時代ですら経験したことのない冒険だった。だが、今はそれを思い返している場合ではない。


この姿で両親や他の使用人に見つかれば大変なことになる。令嬢の"趣味"として探偵活動を黙認してもらっているのは、それなりに礼儀正しく振る舞っているからこそだ。この泥まみれの状態では、一発で活動停止を言い渡されかねない。


「お嬢様、あちらに人影が」 エミリオの静かな声に、咄嗟に茂みの陰に身を隠す。メイドの二人組が世間話をしながら通り過ぎていく。その足音が遠ざかるまでの数秒が、妙に長く感じられた。


エミリオの的確な誘導のおかげで、何とか私室まで辿り着くことができた。扉を閉める音に、やっとほっと息をつく。


「泥まみれのドレスは…」 「処分させていただきます。証拠は残さぬよう」 いつもの几帳面さで、エミリオは即座に返答する。髪は未だ川の臭いを残していたが、それもすぐに解決されるだろう。既にエミリオが湯を沸かし始めている音が聞こえてきた。


「お着替えのお手伝いを」 エミリオが後ろに回り、ドレスのひもに手をかける。この体に転生してから大分数をこなされてきた仕草だが、今日は妙な緊張を覚える。川での出来事が、まだ身体に残っているせいかもしれない。


「あ、ああ…」 前世はアラサー探偵としてそれなりに生きてきたが、少女の姿で執事に脱がされるという状況は正直慣れない。一生慣れることは無いだろう。だが、これも令嬢としての日常なのだ…と思い込まなければやってられない。


ドレスが床に落ちる音が静かに響く。レースのついたドロワーズとコルセットだけになった背中に、夕暮れの冷気が触れる。エミリオの手つきは普段通り紳士的で無駄がない。


「では、お風呂の準備が整いましたので」


エミリオはそう言うと、静かに脱衣所を出て行った。着替えは手伝ってくれるのに、風呂だけは妙に線を引いているらしい。年頃の娘と年頃の男性という意識なのだろうか。几帳面で誠実な彼らしい配慮ではある。だが、着替えを手伝うのは良くて、風呂は駄目というのは何かのバグなのではないかと思わずにはいられない。


豪華な浴室で湯に浸かりながら、俺は声をかける。エミリオは入ってこないものの、扉の外で控えているのが分かる。 「エミリオ」


「はい、お嬢様」 即座に返事が返ってくる。扉越しとはいえ、その声には普段通りの従順さが滲んでいた。


豪華な浴室で湯に浸かりながら、俺は声をかける。バラの香りのする湯気が立ち込める中、エミリオは扉の外で控えているのが分かる。


「あの実験部屋のことだ」 石鹸の泡を手の中で転がしながら、声を投げかける。


一瞬の沈黙の後、エミリオの慎重な声が響く。 「過去視が…できなかったと仰っていましたね」


「あぁ」 首まで湯に浸かりながら、目を閉じて答える。 「あの屋敷自体は問題なく見れた。だが屋根裏の研究室…」 湯の心地よさに身を任せつつ、記憶を整理する。 「置いてある道具はもちろん、部屋の内部から何も読み取れなかった」


「…今までそのような事は?」 エミリオの声には珍しく緊張が混じっていた。


ブクブクと肩までお湯につかりながら答える。 「俺は無い…マリーさんの手紙とあの暗号文以外はな」

湯気の向こうで、エミリオが何かを考え込むような気配を感じる。バラの香りに包まれた贅沢な浴室で、二人の間に重い沈黙が流れる。


「マリーさんに、もう少し詳しく話を聞く必要があるな」 湯から立ち上がる音に、エミリオがタオルを用意する気配を見せた。



マリーさんの入院した市立病院の白い廊下を、小さな足音を立てて歩く。午後の日差しが廊下の窓から差し込み、磨き上げられた床に長い影を落としていた。


「マリー・フォスターさんですか?」ベテランらしき医師はカルテを手に取りながら言う。「昨日退院されましたよ」


「え…」 思わず声が漏れ、エミリオと目を合わせる。


「もう大丈夫だからと止めたのに聞かないんですよ」 医師は日常的な患者とのやり取りのように、さらりと答える。


「えぇと…連絡先は聞いていらっしゃいますか?」


「ああ、聞いていますが…」 医師は白衣のポケットからメモ帳を取り出す。


「これも変なんですよね…」 そう言いながら差し出されたメモには、どう見てもでたらめな住所が記されていた。医師も首を傾げながら続ける。 「セントジョージ通り2974番地って書いてありますが、そんな番地あったかな…」


「他に何か、例えばお見舞いに来られた方は?」


「いいえ、どなたも」医師は事務的に答える。「ご家族の方もいらっしゃらなかったですね」


館内放送が面会時間の終了を告げ、廊下を行き交う人々の足音が増えていく。俺とエミリオは礼を述べて静かに立ち去った。



医者の言う事を疑っていたわけではないが、こちらでも確認したところ住所も何もかもがでたらめだった。街の地図を広げながら、俺は眉間に皺を寄せる。


「確か結婚してこっちにやってきたと言っていたよな」 春の陽気が差し込む馬車の中で、エミリオに確認を取る。


「えぇ」エミリオは窓の外を見つめながら静かに答える。「どなたも見舞いに来なかったというのは少々…変ですね」


「…紹介してきたハドソン警部なら、何か知っているかもしれない」


警察署は午後の忙しい時間帯だった。制服姿の警官たちが行き交い、書類を抱えた刑事たちが慌ただしく動いている。その中で、ハドソン警部は満面の笑みで俺たちを出迎えた。


「おや、ジュリア嬢!」 警部は大きな手を広げて近づいてくる。 「先日の自殺偽装の件、仰ったとおりにしたら簡単に落ちましたよ! いやぁ、助かりました!」


「お手伝いができて何よりですわ」 令嬢らしく微笑みながら応じる。そして、さりげなく本題に入る。 「実は、先日警部からのご紹介で我が家にいらした方の事についてお伺いしたいのですが…」


「ほう?」警部は興味深そうに眉を上げる。「どなたですかな?」


「マリー・フォスターさんについてです」


「マリー・フォスターさん?」 警部の表情が一瞬で曇る。困惑の色が浮かぶ。 「申し訳ないが、そのような方をジュリア嬢に紹介した覚えはありませんよ」


その困惑した表情に嘘は見えなかった。


「あの、先日の事件の被害者の娘さんなのですが…」


「娘?」 警部は首を傾げ、机の上の書類に目を走らせる。 「彼は独身でしたよ」


その言葉に、俺とエミリオの背に冷たい汗が流れるのが分かった。窓から差し込む陽光が、突如として冷たく感じられる。では彼女は一体誰なのか? そして何のために──。



深い闇に包まれた街外れ、古びた廃屋に月光が差し込んでいた。崩れかけた煉瓦造りの建物の中で、一つの影が地面に這いつくばっていた。茶色の髪を乱したマリー・フォスターだ。緑のドレスは埃と汚れで薄暗く変色し、その姿はかつての上品な佇まいを完全に失っていた。埃っぽい床に額をつけ、震える声で懺悔するように言葉を紡ぐ。


「申し訳ございません…二人を、始末することが…できませんでした」


声には恐怖が滲み、その身体は小刻みに震えていた。向かい合う学生服の女は、月明かりに照らされた廃屋の薄暗がりの中で、冷たい視線を投げかける。


「…もういいわ」


その声には、年若い少女のものとは思えない冷徹さが宿っていた。


首を上げかけたマリーの喉が、一瞬の銀の煌めきと共に掻き切られる。月光に反射した小さな刃物が、一筋の光を描いていた。血の泡を吹きながら倒れる体から、暗い床に赤い染みが広がっていく。緑のドレスの裾が血に染まり、開かれた瞳からは既に光が失われていた。それを少女は冷ややかな瞳で見下ろしていた。


「役立たずね」


その瞬間、異変が起きた。発せられた声は、少女のものではなく、艶のある大人の女性の声音だった。月の光を浴びた白い手が顔に伸び、指先が頬に触れた。


ビリビリという不気味な音が静寂を引き裂く。細い指が頬の端に食い込み、人工の肌を摑みあげる。ゴム質の仮面が顔から剥がれていく様は、まるで生きた皮膚が引き剥がされていくかのようだった。月明かりに照らされた偽りの顔が、一枚の仮面となって投げ捨てられる。


そこに現れたのは、長い銀髪を持つ美しい女性の素顔だった。月明かりに照らし出されたその容姿は、瞳の色も、唇の形も、そして整った面立ちも──まるで成長し、少し大人びたジュリアそのもののようだった。


廃屋の窓から差し込む月光が、床に横たわるマリーの亡骸と、銀髪の女性の姿を淡く照らしていた。静寂の中で、遠くから街の喧騒が微かに聞こえてくるばかりだった。

第一章 完

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― 新着の感想 ―
一気に読ませてもらいました。 この作品は推理小説に縁のない人がその世界に入っていく入門書のような感じですね。 さっくりと書かれてるので、表面をなでるような感覚で読みやすいです。 最後は気になる終わり…
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