⑤
「ウィロー・レーン17番地…」 エミリオが馬車を走らせる中、俺は手袋越しに古びた地図を広げた。インクの色が薄れかけた路線図の上を、人差し指がゆっくりと辿っていく。市街地を出てしばらく進んだその場所は、かつての上流階級の別荘地として知られた地区だった。今では春の陽気も虚しく、人の気配は疎らで、青錆びた街灯が不規則な間隔で立ち並ぶ。生い茂った雑草が灰色の石垣の隙間からはみ出し、道端には朽ちかけた郵便受けが歪んで立っている。
馬車の車輪が石畳の上を軋むように進み、ついに錆びついた鉄柵の前で止まった。「到着したな」エミリオが馬車から降りて扉を開ける。俺は薄紫のドレスの裾を持ち上げながら、石畳の上に降り立った。
二階建ての石造りの邸宅が、徐々に曇り始めた空を背景に威圧的な存在感を放っている。風化した壁面には無数の亀裂が走り、窓ガラスは所々が大きく割れたまま。艶を失った黒い蔦が壁を這い上がり、かつての上流階級の優美な別荘は、今や朽ちた廃墟の姿へと変わり果てていた。
両隣の光景は対照的だった。
片側には同じように廃れた石造りの邸宅が建ち並び、かつての別荘地の面影を見せている。朽ちた屋根からは雨樋が歪んで垂れ下がり、割れた窓からは暗い室内が覗いていた。
もう片側には、アリア川の激しい流れが続いている。雪解け水を集めた濁流は、岸辺の石を洗いながら轟音を立てて流れ下っていた。川面は暗く、まるで底知れぬ深淵のように見える。その流れは時折うねりを上げ、朽ちかけた石の護岸を侵食し続けているようだった。
人気のない別荘地の静寂を、アリア川の轟音だけが破っていた。
「周囲を確認するぞ」 俺は前職の習慣で、邸宅に入る前の確認を口にした。廃墟には時として居住者がいる場合がある。経験から、最も警戒すべきは生きている人間だという教訓を胸に、俺はまず人の気配を探ることにした。エミリオが無言で頷き、静かに俺の後ろに控える。
邸宅に近づくにつれ、朽ちた木材の匂いが鼻をつく。俺は慎重に足を進めながら、探偵時代の確認手順を頭の中で反芻していた。
「エミリオ、俺は正面から、お前は裏手を頼む」 低い声で指示を出すと、黒燕尾の執事は無言で頷き、建物の側面へと姿を消していった。
まずは玄関周辺の足跡を探る。石畳の上に積もった薄い土埃を注意深く観察するが、雨風で半ば消されており、確認できるようなものは無かった。
割れた窓ガラスの下には、埃を被った空き瓶が転がっていた。手に取ってみるが、ラベルは日焼けで色が褪せ、判読できない。過去視を試みるが、この瓶からは特に意味のある映像は見えてこなかった。
玄関前の手すりには蜘蛛の巣が張っている。巣は完全な形を保っており、最近誰かがここを通った形跡はなさそうだ。
「お嬢様」 裏手を確認していたエミリオが戻ってきた。「裏口の扉は完全に施錠されています。窓にも蜘蛛の巣が張っており、人が出入りした形跡はありませんでした」
俺は頷く。「正面も同じだ。…裏手に回ろう。建物の陰になる場所を探す」
二人で建物を一周し、庭木の影に隠れた小さな窓を見つけた。台所の窓らしい。この位置なら、通りからは死角になる。
「エミリオ、手袋を貸してくれ」 レースの手袋では細かい作業ができない。エミリオの手袋を借り、俺は上着の袖で窓の縁を包み込むようにして、慎重にガラスを叩く。
「カチッ」 小さな音とともに、ひび割れが入る。さらに力を加えると、ガラスが内側に倒れ込むように割れた。破片が内側の床に落ちる音を、二人は息を殺して聞いている。
しばらく待って物音がないのを確認すると、俺は割れた箇所から腕を差し入れた。錆び付いた窓の内側の留め金を探り、慎重に解除していく。
「カチャリ」 留め金が外れる音がして、窓が内側に開いた。
ふと、背後を確認するとこの状況にエミリオが苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。上流階級の令嬢が窓から侵入するなど、普通では考えられない光景だからな。わかるよ。
「俺が先に入る。エミリオは見張りを」 そう言って、俺は薄紫のドレスの裾を整えながら、慎重に窓から中に滑り込んでいった。埃っぽい空気が、かすかな湿り気を帯びて鼻をつく。
割れた窓から入った部屋の空気は、長年人の気配を失っていた。埃が舞い、それを吸い込んだ喉がわずかに痛む。あまり吸うのも体に悪そうだと考えていた時、エミリオがハンカチを差し出してきた。白い布地には控えめな刺繍が施されている。
「お使いください」 「ふっ、準備が良いな。さすが執事だ」 差し出されたハンカチを口元に当てながら、俺は薄く笑う。
一階の部屋を順に探索していく。サロン、書斎、応接間…どの部屋も家具は埃を被り、いくつかは白い布で覆われていた。二階に上がっても状況は変わらない。寝室のベッドは朽ち果て、クローゼットの中は虫食いの衣類だけ。不審なものは見当たらなかった。
「何もめぼしいものは見当たりませんね…」「うぅん…ブック暗号の鍵が違っていたのか…それとも…」
諦めかけた時、キッチンに戻って樽に触れると、不意に過去の映像が浮かび上がった。暗い屋根裏のような空間、梁の見える天井。樽がそこに置かれている光景が、霞んだ映像として見えた。
「エミリオ、上の階を詳しく調べてみよう」執事に目配せすると、彼は静かに頷いた。
2階の廊下に戻った二人は、天井に何か手がかりがないか、目を凝らして探し始めた。大きなシャンデリアの陰になった一角で、埃を被った天井板の間に、かすかな溝が見える。近づいて確認すると、それは天井に埋め込まれた取っ手だった。
「これだ」
俺はエミリオと目を合わせる。背の高い執事でも手が届かない位置にあるそれを見上げながら、「長い棒か何かが必要だな」と呟く。エミリオは頷くと、すぐに階下へ消えていった。
程なくして彼は、埃を被った掃除用の長い柄の付いたフックを持って戻ってきた。「これはいかがでしょう」
「ああ、それなら届きそうだ」俺はフックを受け取り、天井の取っ手に引っ掛ける。慎重に力を加えていくと、年季の入った木材が軋むような音を立て、天井板がゆっくりと下がってきた。その動きに合わせて、木製の階段が折り畳まれるように現れた。
「隠し階段…ありましたね…」
エミリオの声には緊張が滲んでいた。開いた天井からは、暗がりの中へと続く急な階段が見えた。
「ああ、行こう」
俺は静かに頷く。ドレスの裾を慎重に持ち上げ、軋む木の階段を一段ずつ上っていく。
短い階段を上り切った先で、二人は足を止めた。目の前には重厚な木製の扉が立ちはだかっている。ドアノブは緑青を帯びた真鍮製で、その表面には複雑な紋様が刻まれていた。
俺は慎重にドアノブに手をかけた。予想に反して、錠はかかっていないようだ。古びた金具が軋むような音を立て、扉はゆっくりと内側に開いていく。
ランプの明かりが照らし出したその光景に、エミリオも俺も、言葉を失っていた。
「これは…」エミリオの声が淀んだ空気に吸い込まれる。屋根裏の隠し部屋には、まるで研究施設のような設備が整然と並んでいた。埃を被った実験台の上には化学実験用のフラスコや試験管が所狭しと置かれ、傾斜した壁際には複雑な配管を持つ蒸留装置が設置されている。奥の平らな空間には医療機器らしき装置類──手術台を思わせる台座や、不気味な形状の金属製の器具が並んでいた。梁の間から差し込む僅かな光が、無機質な実験器具の輪郭を浮かび上がらせている。
「何かをここで調べていたのか…?」俺は薄暗い実験室の中央に置かれた装置に手を伸ばす。過去視で何か手がかりを掴めるはずだが、指先が金属に触れた瞬間、いつもと様子が違った。まるで靄がかかったように過去の映像が曖昧で、何も読み取れない。
「なっ…」慌てて手を離し、近くの試験管立てに触れるが結果は同じ。手術台らしき台座、薬品の瓶、実験器具…次々と触れていくが、どれも過去の記憶を見ることができない。
「エミリオ、変だ」俺は声を潜めながら、不安を露わにする。「ここに置いてあるもの、全て過去が見えないんだ」
「!?それはいったい…」エミリオが眉をひそめ、何か言いかけた時だった。
バタン!
突然、入ってきた階段側から大きな音が響く。振り返ると、重たい木の扉が勢いよく閉まるのが見えた。
「どうなっている!?」 エミリオが真っ先に扉に駆け寄る。取っ手を掴んで力いっぱい引くが、びくともしない。続いて体当たりを試みるが、扉は頑として開く気配を見せない。
「いったい何が…」 言葉が途切れた瞬間、鼻を突く刺激臭が漂ってきた。甘ったるい中にも、どこか刺激的な化学薬品の匂い。探偵時代の頃に嗅いだ記憶が蘇る。
「エミリオ!まずい!」 叫び声が地下室に響き渡る。「火だ!!」
その言葉が終わらないうちに、部屋の隅から青白い炎が立ち上がった。化学薬品特有の炎は、驚くほどの速さで実験台を伝って広がっていく。火の粉が舞い、次々と可燃物に引火していく様子が、ランプの明かりより明るく屋根裏を照らし始めていた。古い木材の乾いた梁に火が這い上がり、その光が傾斜した天井に不気味な影を投げかける。
炎は瞬く間に広がり、この密閉された空間を焼き尽くそうとするかのように、実験器具の間を縫うように進んでいった。
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