④
「暗号…ですか?」
エミリオの声には困惑が滲んでいた。午後の陽光が路地に差し込み、石壁に鮮やかな影を投げかけている。俺は薄紫のドレスのポケットから取り出した一枚の紙を、その明るい光に透かすように掲げる。数字と文字が不規則に並んだその紙片に、エミリオは眉をひそめた。暖かな風に舞う埃の中で、紙片が微かに揺れる。
「…もしかしてこれは現場から…」
その声には、物証を持ち出すことへの暗黙の諫めが込められていた。エミリオの表情には、この行為の危うさを察してわずかな動揺が混じっている。
俺は軽く肩をすくめる。「まぁまぁ、これはあの遺体と直接関係のある証拠というわけじゃない」
だが、エミリオの表情は依然として納得がいかないようだ。その真摯な眼差しに応えるように、俺は声を潜めて続けた。
「実は、この紙片に対して過去視を試みたんだが、まるで霧がかかったように、映像がぼやけて見えなかった」
春の風が路地を抜け、ドレスの裾を僅かに揺らす。俺は紙片を掲げたまま、思考を整理するように言葉を紡ぐ。
「それはまるで、マリーさんが持ってきた手紙と同じような現象だった。この二つの暗号…俺たちには必要な資料かもしれないぞ」
その言葉に、エミリオの表情が微妙に変化する。自分の大切なお嬢様と現場から証拠品を掠め取った行いを天秤にかけて、お嬢様の方が勝ったのだろう。
「しかし、暗号とは…」
エミリオが紙片を詳しく観察しながら呟く。
「これはブック暗号だ」
俺は即座に答える。紙片を指でなぞりながら、数字の並びを確認していく。
「本を鍵として使う暗号でな。数字の組み合わせが示すのは、本のページ数と、そのページの何行目の何文字目という具合だ」
俺は手元の紙片を示しながら説明を続ける。「例えばこの『127-4-12』という数字の並びは、127ページの4行目の12文字目、といった具合にな」
エミリオはじっと紙片を見つめながら、その黒い瞳に理解の色を浮かべていく。
「本屋に向かおう」俺は歩き始める。薄紫のドレスの裾が石畳を優雅に掠めていく。「鍵となる本は、被害者の部屋に一冊だけ置いてあった」
春の柔らかな日差しの中、二人は本屋へと向かう。石畳を歩く足音が規則正しく響き、その音は市場の喧騒に溶け込んでいく。通りには春特有の温かな空気が漂い、行き交う人々の表情も明るい。商店の軒先に吊るされた看板が、そよ風に揺られて軋む音を立てている。
本屋に到着すると、古い木の扉が重たい音を立てて開いた。店内には本の香りが充満し、書架には様々な装丁の本が整然と並んでいる。陽光が窓から差し込み、舞い上がった埃が光の帯の中でゆっくりと踊っていた。
俺たちは目的の本を探し始める。エミリオの黒い燕尾服姿が、書架の間を静かに移動していく。背表紙を一冊ずつ丁寧に確認しながら、俺は低い声で説明を続けた。古い木の床が軋む音だけが、静かな店内に響いていた。
「被害者の部屋にあった本は、この辞書だ。一般的に広く普及している版でな」
俺は薄い茶色の革装丁の分厚い辞書を棚から抜き出す。背表紙の金文字が、窓から差し込む陽光に僅かに輝いた。
俺はエミリオに辞書を渡し、エミリオは丁寧に本を受け取った。「…なるほど、暗号の鍵として、確かに理にかなっていますね。誰もが手に入れられる本なら、受け取る側も解読できる」
本を購入し、店の片隅にある小さな閲覧テーブルで暗号の解読に取り掛かる。陽射しの中で舞う埃が、二人の真剣な表情を柔らかく照らしている。数字の羅列を辞書の内容と照らし合わせながら、一文字ずつ意味を紡いでいく。
レースの手袋を外し、ページをめくる度に、新たな文字が姿を現していく。「127ページ、4行目、12文字目…最初の文字が出たな…次は245ページ、8行目、3文字目…」
古い木のテーブルには、解読した文字を書き留めた紙が広げられ、その横では辞書が大きく開かれている。窓の外では鳥のさえずりが聞こえ、春の午後の穏やかな空気が店内に満ちていた。
そして――。
「これは…」
エミリオの声が僅かに震えた。すらりとした指が、解読された文字列を指し示す。何度も開閉された辞書のページが、微かに音を立てて揺れる。解読された文字の並びは、一つの住所を指し示していた。
ウィロー・レーン17番地、セント・メアリー地区――。市街地の外れにある閑静な住宅街で、古い家々が立ち並ぶ一画だった。教会の尖塔が遠くに見える、どことなく物憂げな場所。
俺は立ち上がる。椅子が軽い音を立て、薄紫のドレスが空気を切る。
「行ってみるか」
お辞儀をして店主に礼を告げ、二人は店を出る。陽光は依然として明るく、市場の喧騒も聞こえているが、目指す場所は人々の往来から少し離れた場所。新たな謎を追う二人の足取りは、いつもより少し早くなっていた。
毎日12時更新予定です。




