⑦
目覚めた時、白い天蓋のカーテンが夜風に微かに揺れていた。医務室特有の消毒液の刺激的な匂いが鼻腔を満たし、頭の奥で鈍い痛みが脈打っている。無理な過去視の代償は、全身の細胞が悲鳴を上げているかのように、重く残響していた。
柔らかなランプの光に照らされた枕元には、エミリオとアレックスが立っていた。二人の表情は対照的だった。エミリオは厳かな面持ちで、その瞳には主の無茶を諌められなかった自責の念と深い懸念が混ざり合っている。一方のアレックスは、純粋な友人としての心配を浮かべていた。
「お嬢様、お目覚めでございますか」エミリオが静かに、しかし明らかな安堵を滲ませた声で告げる。その声には、心労で疲れが混じっているようにも聞こえた。
「グレイソン…!」
突如として記憶が蘇り、俺は急激に上半身を起こした。ドレスの裾が乱れないよう左手で押さえながら、右手でベッドの手すりを掴む。「エリザベス・ウィンターフィールドを壁の中に閉じ込めたのはグレイソンだ!」
エミリオとアレックスが驚愕の表情を浮かべる中、俺はベッドから飛び降りようとした。しかし、過去視で極限まで酷使した体は、その無理を許さなかった。視界が大きく揺れ、足首から膝にかけて力が抜けていく。バランスを失い、前のめりに倒れこみそうになった瞬間、アレックスが素早く身を乗り出してきた。
「おっと、危ないよ!」アレックスは俺の体を優しく受け止めた。少女の俺が倒れこんだところで大柄な彼の体はびくともしない。「なんだかよくわからないけど…グレイソンの所に案内すればいいのかい?」
その申し出には、状況を理解できないながらも、友人を助けたいという素直な善意が込められていた。
*
「グレイソンはヘレナ先生の研究助手なんだ」アレックスが説明しながら、廊下を足早に進んでいく。「この時間ならまだヘレナ先生の研究室にいるはずだよ」
夕暮れの光が廊下の窓から差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。医務室での休息で体力は幾分か回復していたものの、過去視の影響は完全には消えていない。
案内された先で、研究室のドアを開けると、そこには数人の学生が実験着姿で作業を続けていた。夕刻にもかかわらず、彼らは熱心に実験データを記録している。しかし、探していた人物の姿はなかった。
「グレイソンは?」 アレックスの声に、学生の一人が顔を上げた。「さぁ...」彼は少し考え込むような表情を見せる。「あいつ、時々いなくなるんだよな。僕たち学生といると頭痛がするとか言って」「ねー。あいつがいる方がよっぽどこっちの気分が悪くなるってのにな」
別の学生が試験管を置きながら口を挟む。「学院も広いし、どこかの空き部屋に籠ってるんじゃないですか」
「どうしようかな...」アレックスが困惑した様子で呟く。その横で、俺は部屋を見回していた。何か手がかりがあるはずだ。
「グレイソンの机は?」
学生たちが指し示した机に近づき、そっと手を置く。過去視の能力が発動する瞬間、またしても鈍い頭痛が走った。しかし、それ以上に重要な光景が目の前に広がる。
おびえたような表情を浮かべるグレイソン。その手は微かに震え、背中には冷や汿が浮かんでいるのが見て取れた。彼は何かに追い立てられるように研究室を出ていく。そしてその後ろ姿を、ヘレナ先生が鋭い眼差しで見つめていた。
更なる確証を得るため、ヘレナ先生の机にも触れる。視界が揺らぎ、過去の一場面が浮かび上がる。机に座った先生の手には一通の手紙。その内容が見えた瞬間──。
「まずい...!」俺の声に、アレックスが驚いて振り返る。「えっ?どうしたんだい?」
「ヘレナ先生は知ってたんだ...!」焦燥が胸の内を駆け巡る。この状況がどれだけ危険か、瞬時に理解できた。表情が険しくなる中、俺はアレックスの腕を掴んだ。「急がないと。先生が危ない!」
*
グレイソンは研究棟から離れた古い校舎の一室に籠っていた。かつては実験室として使われていたその部屋は、長年の放置によって廃墟めいた雰囲気を醸し出している。埃を被った実験器具が無造作に放置され、錆びついた実験台が並ぶ中、夕暮れの橙色の光が曇った窓から斜めに差し込んでいた。光に照らされた空気中の埃が、まるで時間が止まったかのように静かに漂っている。
「あの死体が見つかるはずがないのに…どうして今になって…!」
グレイソンの呟きは、壁に吸い込まれるように震える声で漏れ出る。実験台の縁を強く握り締める指が白く変色し、その力の入れようは血が通わなくなるほどだった。額から伝う冷や汗は、光に照らされて不気味な輝きを放っている。彼は汗を拭おうともせず、まるで時が止まったかのように放心したように立ち尽くしていた。
その姿には、30年間隠し続けてきた罪の重みが、まるで実体を持ったかのように纏わりついていた。
窓の外では夕暮れが深まり、室内の影がゆっくりと濃くなっていく。その暗がりは、まるでグレイソンの心の闇を映し出すかのようだった。
「いや、落ち着け…落ち着くんだ…」彼は自分に言い聞かせるように繰り返す。「俺が殺したなんて、誰にもわかるはずがない…そうだ、証拠なんて何も…!」
その時だった。
「貴方が姉さんを殺した事は、私にはわかっていたわ」
ヘレナの声は、静かでありながら冷たい刃のように研究室の空気を切り裂いた。白衣を纏った彼女は、まるで幽霊のように音もなく扉から姿を現していた。
グレイソンは背筋を凍らせ、ゆっくりとその声の方へ振り返る。彼の顔は死人のように蒼白で、瞳には言いようのない恐怖が浮かんでいた。まるで自分の最も恐れていた悪夢が、現実となって目の前に立っているかのように。
「姉さんからの手紙は、警察に提出した一通だけではなかったのよ」
ヘレナは静かに、しかし確固たる意志を込めて語り始めた。夕暮れの研究室で、二人きりの空間に彼女の声が響く。
「その前に、姉さんが貴方に付きまとわれているという内容の手紙を私は受け取っていたわ」
実験台に寄り掛かっていたグレイソンの背筋が、その言葉に一瞬強張る。彼の手が実験台の縁を強く握り締め、関節が白く浮かび上がった。
「貴方が人目に付かない部屋を見繕っていることも。この学院の片隅に、誰も使わない実験室があることも。全て、姉さんは私に打ち明けていたの」
その一言一言には、30年という歳月の重みが込められていた。ヘレナの声には、抑え込んできた怒りと深い悲しみが交錯している。白衣を纏った彼女は、まるで過去からの使者のように研究室に佇んでいた。
「死体が発見されなかったから、事件として警察は取り上げてくれなかった」彼女は静かに一歩前に踏み出す。「私は個人的に調査を続けてきた。そして、やっとこの学院に赴任できる機会を得て…」
ヘレナの瞳は、30年の時を超えて温め続けてきた復讐の炎のように鋭く輝いていた。夕暮れの光が彼女の横顔を照らし、その表情には揺るぎない決意が刻まれている。
「遺体が見つかった今、私は全てを警察に告発するわ。もう誰にも、真実を隠蔽させはしない!」
その言葉が引き金となったように、グレイソンの理性が完全に崩壊した。彼の目は狂気に満ち、唾を飛ばしながら絶叫する。
「だまれええっ!!」
グレイソンは実験台を蹴り倒しながら、ヘレナに襲いかかった。その動きは、もはや冷静な科学者のものではなく、追い詰められた野獣のようだった。実験器具が床に落ち、ガラスの破片が散乱する中、彼の両手がヘレナの首に伸びる。
「あいつが…あいつが全部悪いんだ!」グレイソンの目は血走り、狂気じみた笑みを浮かべながら叫ぶ。「俺が心配していただけなのに、俺の好意を全て無にして…!」
その指がヘレナの首を締め上げ、彼女は息を詰まらせる。白衣の襟元が乱れ、真珠のブローチが床に転がり落ちた。
「お前も…そうだ、お前も姉貴と同じだ!」グレイソンの声は裏返り、もはや正気とは思えない笑い声を上げる。「壁の中に閉じ込めてやる…姉貴の骨と一緒にな…はは、ははははは!」
その瞬間だった。
黒い影が一陣の風のように研究室を駆け抜けた。燕尾服の裾が優雅に翻る中、エミリオの姿が閃光のように飛び込んでくる。完璧な執事の仮面の下に隠された、鍛え抜かれた身体能力が一気に解放された。
グレイソンの体に、エミリオが精密な機械のような正確さで突進する。その動きは無駄が一切なく、まるであらかじめ計算されたかのような完璧さだった。彼の左手がグレイソンの右腕を掴み、右手が相手の左肩を制する。身を翻した瞬間、グレイソンの体は既にエミリオの完全な支配下にあった。
「ぐっ…!」
グレイソンが呻き声を上げる間もなく、エミリオは相手の両腕を背後に回し、完全に身動きを封じ込めた。その技は、単なる力任せの押さえ込みではなく、相手の関節を巧みに制御する洗練された技術に裏打ちされていた。
げほげほと激しく咳き込みながら、ヘレナは震える指で首元を押さえた。その白い指の下には、グレイソンの暴行による赤い痕が浮き始めていた。ゆっくりと、なお苦しげな呼吸を繰り返しながら、彼女は視線を入り口へと向ける。
そこには俺とアレックスが、目の前の光景に驚愕の表情を浮かべて立っていた。過去視の激しい後遺症で、俺の体はまだ完全には力が戻っていない。アレックスの腕を借りるようにして立っているものの、その姿勢さえ維持するのが精一杯だった。それでも、震える膝を必死に踏ん張る。
「あなた達…どうして…」 ヘレナの掠れた声が、静まり返った研究室に響く。その声には困惑と安堵が入り混じっていた。
「よかった…間に合った…」 俺の呟きは、疲労と安心が混ざり合った微かな声だった。
「これは一体…どういうことなんだい?」 アレックスの困惑に満ちた声が、研究室に場違いに響いていた。
三者三様の疑問の声が、エミリオに完璧に拘束されているグレイソンの苦しげなうめき声に重なっていった。散乱した実験器具の間で、その声が不協和音のように反響する。夕暮れの光の中、まるで時が止まったかのような瞬間が流れていた。
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